初めて日記の内容に関するコメントをいただきました。やはり日記を書いていて一番嬉しいのは読んだ方から感想を聞かせて頂くことです。masaomikさん、ありがとうございます。以下、少しmasaomikさんへ返信を。
慈善活動にしろボランティアにしろ、例えそれが行動の結果として他者の利益を産む性質のものであったとしても、本質はあくまで自分自身のために行なうものであるということを自覚して行なうものではないでしょうか。
おっしゃるとおりです。高橋サンを取り上げたのも、この話につなげる布石のつもりでした。後で詳述します。
以上の点を踏まえてイラクで拘留された邦人の方々の問題を考えた時、政府に一定の保護義務があることに異論は無いが、それ以上に彼ら自身にその責任を問われることは否めないと考えます。
私もこのように考えています。ただ、実は、政府の保護義務と本人らが負うべき「自己責任」とのバランスについて考えているのですが、まだ「落とし所」が見えてこないのです。これからは、彼らが自身が負うべき責任というのを検討していくつもりです。
まぁ確かに、人情論で言えば「だってかわいそうじゃん」となるのでしょうねぇ・・・。
実は私、その「人情論」がわからないのです。(2)で書きましたが、私は彼らがかわいそうだとは爪の先ほども感じませんでしたし、今現在もそうです。それはやはり、彼らがイラクに行った「目的」に対する違和感が私の中にあるからだと思います。これについては追々書いていくつもりです。
さて、今日のテーマは慈善活動などにありがちな「善意の押しつけ」についてである。
私が大嫌いなのは、「善意・優しさ」といったものを無批判に賞賛する人々である。自分たちの善意や優しさに対して内省のない人間は、一つ間違うと「善意のファシズム」に陥るからである。
そもそも、慈善活動に従事することの動機は、究極的には自分がそうしたいから、ということに尽きる。「他人のために尽くしたい」でも「名誉がほしい」でも、自分がやりたいからやっているという点で変わりはない。慈善活動の本質は「お節介」だと私は思うのである。
こう言うと、慈善活動をわざと個人の欲望に絡めて矮小化しているように受け取る人もいるだろう。しかし、私に言わせれば「他人のために何かをする=良いこと」という図式こそが間違っているのだ。両者が直接つながるわけではないのだ。
そもそも、なぜ慈善活動が素晴らしいのか、なぜ他人のために何かをすることが崇高なのか。それは「自分の善意が相手に通じた」ことにあるはずだ。これは裏を返せば、自分の善意が往々にして他人に通じない(=お節介となる)ことをも意味している。良かれと思ってやったことがありがた迷惑になっていることは、例を挙げるまでもないだろう。自分が相手にしてあげたいことと、相手が望んでいたことが合致して相手が喜ぶからこそ、そしてそれが合致しないこともままあるからこそ尊いのではないのだろうか。
そしてこの構図は、当事者と第三者でもそのまま当てはまる。当事者間で有り難かろうと素晴らしかろうと、第三者から観れば大して興味のわかないことだってたくさんある。だからこそ、第三者までが感動する慈善活動が美談になるのだ。
ここのところを、「他人のため=良いこと」と短絡してしまうと、「他人のため」「慈善」といった概念が自己の行為を正当化するためのマジックワードとして機能することになる。これの行き着く先は独善とその押しつけである。また、こういった独善は往々にして歯止めがきかなくなり、相手の迷惑すら省みず暴走する。何かの支援団体が、支援すべき対象の思いを無視して活動それ自体が自己目的化することは良くある話である。
慈善活動は本質的には自分のためにやっている。これは事実であり、それを認めない(そして弁えない)人には慈善活動をやる資格がない、と私は思う。
(了)
《関連記事》
・ダメなもの「自己責任論を巡る議論」(1)
・ダメなもの「自己責任論を巡る議論」(2)
・ダメなもの「正義感」


オススメの品々