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2005年02月02日

水曜小論:受験対策を全くしない中学国語教育

 主に中学生を教えるようになって二年ほどが経つ。この二年間ずっと疑問に思ってきたのは、中学校での国語の授業の内容である。
 自分が中学生だった頃もそうだったが、生徒を見ていると、国語の問題の解き方を習った形跡が全くないのである。
 確かに小説や説明文の読み方・解説といったことは授業で嫌というほど教わる。しかし、それがどの程度生徒たちの身に付いているかとなると極めて疑わしい。

 塾講師でも家庭教師でも、とにかく国語を教えたことのある人ならほとんどが体験したと思うが、読解以前に、まず問題が読めていないのである。問題文を理解できていないのではない、設問の内容をきっちり理解していないのである
 試験で要求されているのは問題に上げた文章を読み解いて理解することではない。質問に答えることである。なのに、生徒は何を訊かれているかを考えずに闇雲に文章を読んでいる。
 しかし、極端な話、冒頭の長文を一切読まずに設問だけ読んで答えが出せるなら、わざわざ文章を読む必要すらないのである(し、実際、漢字や語彙の問題などはこれで解ける)。

 何を問われているかを意識しないことは実質的なレベル以前の段階でも顕著に表れる。
「傍線部??のように筆者が考えるのはなぜですか。理由を答えなさい」という問題が出ても、「傍線部??はどういうことを言っているのですか」という問題が出ても、「○○は××である」などと書きっぱなしで終わっているのが本当によく見られる。理由を訊かれたら文末を「△△(だ) から」もしくは「△△(な)ので」とする、「どういうこと」と訊かれたら「??(という)こと」と答える、という基本的なことすら知らないのだ。

 でも、これは生徒の責任ではないと私は思う。なぜなら、塾などで「国語の問題の解き方」を教わることがあっても、学校では国語の問題の解き方を教わることなど皆無だ(った)からである。そういう読解以前の基本的・形式的なことすら教えないで、いきなり中間だの期末だのといって問題を解かせることは、冷静に考えれば無茶苦茶としか言えない。

 あと、問題(アウトプット)を意識しない解説授業(インプット)はほとんど無意味なのではないか。
 そもそも、試験をするのはその問題を通じて要求する知識・視点・テクニックといったものを有しているかを確認するためである。であれば、試験の問題(設問)を通じて文章読解に要求される知識・視点・テクニックを逆算的に教え、それらを意識させる、というアプローチはもっととられてしかるべきではないだろうか。指示語のとらえ方・接続詞の用法・事実と意見の区別・意見と理由の対応関係のとらえ方などを授業の中で頻繁に演習させながら説明していかないと、いつまで経っても生徒は問題を解けないままでいることになる。

 国語の問題は「センスだ」とか「答えは各人バラバラ」とか言われることがよくある。でもそれは違う。多数の生徒がセンスで何となく解いているのは解法とテクニックを習っていないからである。
 畳水練で泳げるようになるのなら、誰も苦労はしない。中間・期末・実力と折に触れて試験をしては問題を出すのなら、その解き方も普段から教えるのが筋ではないだろうか。
(了)

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2004年10月20日

ダメなもの「中学国語科(の教科書)」

 前回に続いて教科書を取り上げる。歴史教科書については「新しい歴史教科書をつくる会」など問題点が指摘され、主に「右寄り」の方々の間ではこの問題意識は広く共有されている。
 しかし、前回指摘したように、ひどいのは歴史教科書だけではない。端的に言って文系科目である国語・社会・英語の教科書は全部ひどいのである。今回は国語について触れたい。

 まず、現行の国語教科書には現代の文学作品と呼ばれるようなものの掲載が異様に少ない。三年間を通じ、詩歌や小説などで、近代文学史上有名なものなどほとんど載っていないと言って良い。私の見た限り、各社の教科書で三年間を通じて読む機会がある文学作品は、森鴎外『高瀬舟』や太宰治『走れメロス』だけだった(ちなみに、「高瀬舟」と「走れメロス」は別の出版社の教科書に掲載されている)。齋藤孝が『理想の国語教科書』という本で近代文学作品の有名どころを取り上げているが、これもそういった作品のほとんどが中学国語教科書から無視されていることを端的に示している、と見ることが出来る。
 山本夏彦は『完本 文語文』で「祖国とは、国語だ。それ以外のなにものでもない。」というシオランの言を引いている。我々が言葉によって思考し(逆に言えば言葉を用いなければ思考できない)、その言葉は文化によって支えられている以上、エコロジーの評論だの辻仁成の小説だのを載せる前に、日本文学の代表とも言うべき作品をこそまず子どもたちに読ませて子どもたちの言語感覚を育てるべきだと思う。

 次に、現行の国語教科書にやたら多いのが「反戦小説」(もっと平たく言えば「反戦物」)である。米倉斉加年『大人になれなかった弟たちへ』、向田邦子「字のないはがき」、赤瀬川原平「一塁手の生還」、「二つの悲しみ」、原民喜「原爆小景」…挙げだしたらキリがない。反戦物を扱うのがいけないと言うのではないが、毎年一作以上を掲載するのはちょっとバランスを失しているようにも思う。
 反戦物が本当に問題なのは、その掲載よりもむしろ、教科書の文章を用いて作る問題にある。国語的な読解力(≒論理的思考)で解ける問題ではなく、往々にして「こんな悲惨な戦争を二度と起こしてはいけない」とか「人の心を醜く変えてしまう戦争というものに怒りを覚えた」など、とってつけたような安っぽいお説教を答えにするような問題があるのだ。少しばかり大げさに言えば、これは国語力を試す問題ではなく、「反戦思想」を回答に選び取れるかという思想選別の問題である。
「戦争は悲惨であり残酷である」ということを子供に教えることがいけないわけではない。しかし、「悲惨で残酷だから戦争はやってはいけない」という結論しか導かないのならそれはただの戦争アレルギーの養成に過ぎず、思考停止の強要である。
 国語の読解力を養成するという点ではもちろん、子どもたちに戦争について考えさせるという点でも(思考停止に陥らせるだけだから)、これらが役に立っているとは到底思えない。

 最後に、一番驚いたのは、在日朝鮮人の話が載っていたことである。「にんげん」(明治図書)という部落解放同盟関係が作っている道徳の教科書には、「道徳」とは名ばかりの、部落解放や在日差別などの話だけが山ほど載っていることは知っていた。しかし、まさか国語の教科書にもこんなことが載ってるとは正直思わなかった。出版社はやはりというか何というか、東京書籍だった。
 問題の作品はイ・サンクム『半分のふるさと』である。内容をかいつまんで説明すると、主人公が、母が学校の行事か何かでチマチョゴリを着てくることに恥ずかしさを覚えるが(「チョーセンや」などとひそひそ言われたりする)、母が「私は好きで日本にいるわけやないんや!」とかつての「日帝」の「悪行」を語り、娘が母を見直すというお話である。
 ここでも朝鮮語の使用を禁じられたとか、創氏改名で強制的に名を変えさせられたなどと書いてある。前者については前回触れたので繰り返さないが、後者についてはこちらをご覧いただきたい。事は、日本が一方的に朝鮮民族を虐げたという単純な図式で説明できるほど簡単ではない。
 小説という事実認定が甘くなりがちな素材でこういうデリケートな問題を扱い、しかもそれを国語の教科書で扱う必要性が私には見いだせない。
 東京書籍は前回の三省堂のように「国際化」を意識したのかもしれないが、その前に「ウソや間違いを教えない」ということをまず意識して頂きたい。
(了)

《関連記事》
ダメなもの「中学英語教科書『New Crown』」

《参考文献》
・森鴎外『山椒大夫・高瀬舟』(新潮文庫)
・太宰治『斜陽・人間失格・桜桃・走れメロス 外七篇』(文春文庫)
・齋藤孝『理想の国語教科書』(文藝春秋)
・山本夏彦『完本 文語文』(文春文庫)
・米倉斉加年『大人になれなかった弟たちへ』(偕成社)
・イ・サンクム『半分のふるさと』(福音館書店)

《リンク先》
・『新しい歴史教科書をつくる会
・『東京書籍
・「植民地統治の検証2
   『大日本史番外編朝鮮の巻

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2004年10月19日

ダメなもの「中学英語教科書『New Crown』」

 ダメなもの「本宮ひろ志『国が燃える』休載」(2)でも少し触れたが、今の国語教科書は本当にひどい。というか、文系科目(国語・社会・英語)がそろってひどいのだ。今回は英語の教科書について取り上げてみる。

 これについては西村幸祐『酔夢ing voice』の2004年10月10日分にも指摘がある。私も塾では学校準拠の三省堂『New Crown』を用いているが、韓国・朝鮮のことをこのように書いているのにはうんざりした。三年の「Let's Read 3」より引用する。

  Korea was a colony of Japan for thirty-five years.
  The Japanese government forced the Koreans to use only Japanese.
  It was really painful for them to stop using their own language.
  They could not use it again in public until the end of World War II.

(韓国は35年間日本の植民地でした。日本政府は日本語だけを使うことを韓国人に強要しました。彼らの言葉を使つかうことを止めることは、彼らにとって本当に苦痛でした。第二次世界大戦が終わるまで、彼らは再び公に韓国語を使うことはできませんでした)

 一応内容を批判しておく。朝鮮語の使用云々についてはこちらをご覧いただきたい。そもそも、700年かけて作ったわかりやすい文字であるハングルを「諺文」(おんもん:俗文)と呼んでバカにし、一顧だにしなかったのを普及させたのは日本人である。朝鮮語の使用を一切禁止したという言い方も、かなり語弊があるようだ。少なくとも、「New Crown」の書き方だと日韓併合後すぐ日本語の使用を禁止したようにも取られかねない。いかにも軽率な記述である。
 三省堂は英語の教科書で韓国・朝鮮を取り上げることにつき、次のように述べている。

Q15 2年4課で韓国・朝鮮の題材を学習する意義は何か。
 外国語をマスターするためには,その外国語の文化を好きになることが必要だ,といわれています。それは確かに一面の真理ですが,それが一方的な英米崇拝や英語文化の憧憬にとどまってしまうならばそれは問題です。相対的にアジアやアフリカなど英語圏以外の地域への関心が薄らぐことになるからです。とくにアジアの中でもわが国にとって隣国である韓国・朝鮮はこれまで<近くて遠い国 designtimesp=18223>といわれてきています。その結果,理解不足からくる誤解や非礼を生んできました。真の「国際理解」には,まず,近隣諸国への理解が不可欠です。換言しますと,韓国・朝鮮を取り上げているかどうかは異文化理解への「リトマス試験紙」ともいえます。
 日本と韓国・朝鮮は,古くから交流の歴史があり,文化的にも経済的にも相互に影響を受けてきました。関係が深いだけに,かえって両国の違いや似ている点に気づかない場合もあります。本課で取り上げたように身近な衣食住の例や言語から,このふたつを知ることは相互理解への第一歩であると考えています。

 残念ながら、上記のような本文では、「相互理解」など日本側が韓国の言い分を丸々飲む「譲歩」でしかない。むしろ、日本の中学生により大きな「誤解」をすり込み、中朝韓に対する罪悪感を植え付けるものであり、結果としては英米以外にも頭の上がらない外国を増やしただけに終わっている。

 いろいろな文化や多様なテーマに触れようとする三省堂の意図はよく言えば意欲的だが、紙数や表現上の制約、そして出来映えを見る限り「無謀」だったとしか評価し得ない。
(了)

《関連記事》
ダメなもの「本宮ひろ志『国が燃える』休載」(2)
ダメなもの「中学国語科(の教科書)」

《リンク先》
・『New Crown』(三省堂)
・「植民地統治の検証2
   『大日本史番外編朝鮮の巻

《トラックバック先》
・西村幸祐「東京五輪、日本GP、教科書に忍び寄る魔の手。
   『酔夢ing voice

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2004年10月08日

ダメなもの「学校教育における公民(憲法)教育」

 私が教えている塾は個人指導の塾なので、隣で他の先生が他の生徒に教えているのが聞こえてきたりする。この間、隣では中三の子に公民を教えていたのだが、聞くとはなしに聞こえてきたその内容にイライラしてしまった。
「社会権って言うのはね、人間が人間らしく生きる権利のことで、生存権とか一杯あるねん。覚えていこうか」
 この説明では社会権がなんたるかを理解せよという方が無茶である。
 他を見れば、生徒に日本国憲法の前文が穴埋め形式になったプリントが配布され、暗記したかどうかテストをしたりもしている。理念としても大甘ちゃんで話にならず、日本語としても悪文のお手本みたいなものを訳もわからず暗記させられる生徒たちが不憫でならない。

 別にこの先生だけをことさら責めるつもりで挙げた訳ではない。学校の先生にだって、似たようなことをやっている人は少なからずいる(一例としてダメなもの「平和登校日」を参照されたい)。学校の先生の中で人権思想や自由・権利の概念についてきちんと概観を理解できている人一体どれくらいいるのだろうか。

公民教科書の記述

 中学の公民教科書について、以前少しだけ触れた。その後も折りにふれ東京書籍や公民の教科書に目を通したりしているが、日本国憲法の諸権利の記述や、人権の記述が通り一遍の表面的な記述に終始しているのが気になって仕方がない。紙数や内容面で制限があることはわかるが、もう少し構造を俯瞰するような指摘が無いと本質的な理解に至らないように思う。
 人権思想史についても一章が割かれているものの、それもロック・モンテスキュー・ルソーの簡単な紹介であり、自由や権利がどのように発生したかはわかりづらい。あと、日本国憲法とのリンクにも気を配ってほしい。どうも教科書の記述だと、唐突に日本国憲法の諸権利が羅列されているように感じられるからだ。
 文部科学省は詰め込み式の教育を是正し、子どもたちに考えさせる教育を推進していたのではなかったのか。

教える側が憲法とは何かをわかっていない

 でも、教科書には通り一遍のことだけ書いてあるからまだましと言える。少なくとも授業で教師が説明することが前提となっているのだからこの方が良いのかもしれない(私はそうは思わないが)。
 そう考えると、本当に問題なのは、それを教える社会科の教師が憲法をわかっていないことだろう。
 私の中学時代も「人権思想家にはロック、ルソー、モンテスキューの三人がいます」「『国民主権』『基本的人権の尊重』『平和主義(戦争放棄)』の三つが基本原理です」「平等権、自由権、社会権、参政権、新しい人権などたくさんの権利があります」という各事項をプリントを使って説明された(さすがに「憲法を写してこい」という無茶は言われなかったが)。が、こういった事実の羅列を覚えさせられるだけで、当時私が抱いた「つまり憲法って何?」という疑問には全く答えてくれなかった。

 この疑問が解消されたのは大学に入ってからだった。小室直樹『痛快!憲法学』が人権や近代国家などを懇切丁寧に説明しており、憲法とは国家権力を縛る(ことで国民の人権を保障する)法律であるという明確な答えを呈示してくれた。

* もっとも、この本は憲法学というよりは国家学とでも言った方がいい本である(社会科学などについてもふんだんに出てくる。私は小室の博識さに圧倒された)。ただ、著者の政治的立場なども随所に打ち出されているので、それはそれとわかって読む必要がある(小室はたまにデムパチックなことも言うからなぁ…)。
 ちなみに、人権思想史も含めた憲法について教養・入門レベルで概観したい人には加藤晋介『ざっくり憲法』をおすすめする。小室の前掲書と併せて読むと教養レベルとしてはかなり骨太の理解が得られると思われる。

 学校の社会の教師も、プロであるならば(特に「社会は単なる暗記科目ではない!」というのならば)もっと本質的な構造をわかりやすく呈示する努力をすべきだと思う。

私の公民の説明

 偉そうに(?)社会の教師を批判するだけでは不公平なので、私の指導法も(批判覚悟で)簡単に説明しておく。その際注意していることは、生徒にまず全体の構造をわかりやすく呈示することである。

 まず人権思想のイメージを抱いてもらうため、ロックやルソー、モンテスキューがどんなことを考えたのかをおおざっぱに説明する。で、国家(近代国家)は国民が幸せに生きるためにあるものだということをまず押さえてもらう。
 自由権と社会権についても、その人権思想の説明を踏まえ、自由や権利というものがそもそも国家権力から干渉を受けないもの(国家からの自由、すなわち自由権)として成立してきたことを説明する。自由の基本は国に対して「ほっといてくれ」ということだ、と言うのはちょっとおおざっぱではあるが、細かい知識を覚えるための枠組みとしてはこれくらいで十分である。
 そして、その上で国が自由権を保障するだけではいけない不都合(例えば、病気で働けない人を「国からの自由」で干渉しないというのは、国民が幸せに生きるためにあるはずの国家の存在目的と合致しない、など)を指摘し、そういう場合には国がそういう人たちの生活を保障するという考え方(国家による自由、すなわち社会権)が発生してきたと説明する。
 これだけきちんとわかってもらえれば、各種の権利が自由権か社会権かなど「国に放っておいてもらう(自由権)」か「国に構ってもらう・助けてもらう(社会権)」かを基準に生徒が自分で考えられるようになる。例えば、言論の自由などは、何をしゃべろうが国にごちゃごちゃ言われる筋合いはないから自由権、教育を受ける権利は国に放っておかれても解決しないから社会権、と言ったような感じだ。

 ある意味かなり乱暴な整理ではあるが、中学レベルではこれくらいで十分だと思うし、大枠の構造をつかんで理解してもらう点でもそれなりに有効だと自負している。少なくとも、全てを暗記させる授業よりもよっぽどましだとは思っている。

* ただ、これで満足しているわけではないし、それなりに不都合もあるかと思う。もっとこうした方が良い、というご意見等がございましたらどんどんご指摘頂きたい。

高校生向け参考書の記述

 気になったので、大学受験の政治経済や現代社会の参考書も覗いてみた。最近は「実況中継」式のわかりやすい参考書がたくさん出ている。その中でも、とくに簡単だろうと思われるセンター試験用のものを読んでみた(人権思想と生存権のところだけ)。

 まずは石井克児『センター試験政治経済が面白いほどとける本』。社会権の発生については、20世紀に入り貧富の差が拡大して、など教科書の記述とあまり違わない。これじゃあ講義の実況中継式に収録した意味がほとんどない。書き手もあまりわかっていないのだろう。良くも悪くもきれいにまとめた本、と言ったところだろうか。もっとも、基礎からわかるかどうかはちょっと疑問だが。

 もう一冊は、蔭山克秀『センター試験現代社会が面白いほどとける本』。こちらの社会権の発生についての記述は、政治経済のそれよりも丁寧でわかりやすかった。どちらかというと政治経済の方が詳しくないといけない気もするが、それはこの際措く。
 ただ、日本国憲法の生存権についての説明はひどい。判例のプログラム規定説を紹介した後「よくわからないけど、ひどい国だよね」などとコメントしていた。これはあまりに軽率な記述だろう。
 判例が何故プログラム規定説を採るかについて、説明はおろか理解もせずに(でなければ「よくわからないけど」などとは言わないはずだ)批判的な感想だけ述べるのは、受験参考書としてまずいのではないか。

 外国のことは知らないし興味もないが、日本では憲法や人権の概念について誤解している部分が多いのではないか。少なくとも、教育の現場についてはカリキュラムを含めた見直しを検討すべきだと思う。
(了)

《関連記事》
ダメなもの「平和登校日」
ダメなもの「東京書籍発行の中学地理教科書」

《参考文献》
・小室直樹『痛快!憲法学』(集英社インターナショナル)
・加藤晋介『ざっくり憲法』(辰巳法律研究所)
・石井克児『センター試験政治経済が面白いほどとける本』(中継出版)
・蔭山克秀『センター試験現代社会が面白いほどとける本』(中継出版)

《トラックバック送信先》
・平和勢力「側面からの憲法攻撃に革命的警戒を!
   『Peace Powers!

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2004年08月31日

ダメなもの「読書感想文」

 今日は夏休み最後の日ということで、夏休みの宿題について少し思うところを述べてみたい。

 小学校や中学校で夏休みの宿題で定番と言えば、「夏休みの友」「自由研究」そして「読書感想文」である。私の小学校では「サマーワーク」などハイカラなタイトルだったため、宿題をやりながら「お前なんか友達じゃねぇ」と毒づくことが出来なかった。返す返す残念である。やはりベタと言われてもお約束は守って頂きたかった。

 それはともかく、私は読書感想文という宿題は現状では廃止すべきだと思っている。
 確かに、大人になり塾講師などをしていると、(自分のことを棚に上げて言うのも何だが)子供の文章力のなさを痛感させられる。だから、強制的にでも夏休みに本を読ませ読書感想文を書かせることは必要なことなのかもしれない。
 しかし、必要性は認めるにしても、現状のやり方はあまりに杜撰と言わざるを得ない。

 よく見受けられる読書感想文に、(かつての私もそうだったが)粗筋をまとめ、それに二三コメントするだけというものがある。中にはそのコメントすらないものもある。
 それなりに感想を書いてきたものでも、単に「面白かった」「かわいそうだと思った」など感じたことの羅列に終始するものも多い。

 こういった読書感想文がひどいものであることは確かであるが、生徒にその責めを負わせるのは間違いである。なぜなら、学校教育の場で読書感想文の書き方を全くと言っていいほど指導しないからだ。
 普段は文章を書かせることも、まして文章を書くこともしていないのに、夏休み前に先生から原稿用紙を配られて「読書感想文を書いてきなさい」と言われるだけである。これでは、生徒が読書感想文に何を書いて良いのかわからくて当然である。

 日本の国語教育においては、論理的な文章を書くという一番重要なスキルが不当に軽視されてきた。
「思ったことや感じたことをそのまま書け」などと言う作文教育のあり方に一番欠落していたのは、読み手の視点である。人に物事(思ったことや感じたことも当然含まれる)を伝えるには、筋道を立てて理屈で説明せざるを得ない。そして、そのためには「書き方」というものを学ばなければならない。

 これらは当たり前のことばかりだが、その当たり前のことをまずきちんと教えることこそが初等教育ではないか。

「文章は思ったこと、感じたことをそのまま書けばいい」というのは幻想である。そして、その幻想の象徴こそが読書感想文なのである。
(了)

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2004年08月23日

ダメなもの「東京書籍発行の中学地理教科書」

 まずはお詫びを。
 お叱りを頂戴してしまいました。日記のアップが遅れて申し訳ありません。
 なぜ昨晩アップできなかったかについて少し言い訳させてもらいます。
 実は昨晩、我が家にブロードバンドルータを導入し、LANを引きました。今までの執筆環境は、自室のパソコン「イタダキ一号」で書いたものをフロッピーに落とし、ネットにつながっている家族のマシンでアップしていました。そのため、執筆中に関連サイトのリンクなどを載せることがなかなかできないでいましたが、これからはそれも解消されることになります。
 これからはさらに充実した日記を遅れずに書いていけるよう最大限がんばります。

 では、本題に入ります。


 私は現在塾の講師をしているが、社会科の教科書の不出来さには日頃から辟易している。歴史教科書は問題になっているが、公民や地理のひどさも大概である。

 公民については簡単に触れておくにとどめるが、ジェンダーフリーという特定思想が色濃く反映されているのは問題ではないだろうか。
 特にひどいのは、見開き2ページで男女間の扱いの違い(家事労働の負担から、ひな祭り・端午の節句や、果ては運動会の騎馬戦まで…だったと思う)が挿絵付きで載せてあり、どれが許されてどれが許されないものかと問うている。あくまで考える材料を提供するような体ではあるが、こんなものは使いようによっては思想チェックの道具になる。教科書の記述としては問題がある。

 しかし、なんだかんだ言ってもまだ公民の教科書はある程度「使える」からましである。本当にひどいのは地理の教科書である。
 地理の教科書というのは非常に使い勝手が悪い。驚くぐらいに情報量が少ないため、調べものはおろかほぼ全く使い物にならないのだ。社会科の先生方がプリントなどを使って教科書を無視した授業を進めるのも無理はない。
 しかし、ただ役に立たないだけならまだしも、「有害的記載事項」はさすがに許せない。平成13年発行の東京書籍版中学地理教科書の25ページをみて私は唖然とした。
 そこには、下三分の一にアメリカと韓国で発行されている日本列島の地図が載せられている。アメリカの地図はもちろん英語で、韓国の地図は漢字で書かれているのだが、アメリカの地図は日本海を「Sea of Japan」と表記しているのに対し、韓国の地図では日本海を「東海」と表記している。
 ふるっているのはその近くにあるコメントだ。

 下の二つの地図で、「日本海」を表している海洋名を○で囲みましょう。同じ海洋でも、国によって、ちがった名前で呼ばれていることがわかります。

 この記述は問題である。確かに、国によって呼び名が違うことはあるだろう(ちょっと例が思いつかないが)。しかし、それの例として「日本海」の呼称を持ち出すのは不適切である。
 現在、世界中が「日本海」と呼んでいる日本海の呼称につき、韓国(と北朝鮮?)だけが「日本海」の呼称を「東海」に改めよと主張している、いわゆる「日本海呼称問題」が起きている。詳細は外務省のサイトや、日本海呼称問題についてなどのサイトを参照頂くとして(そのほかにもgoogle検索をかければこの問題についてのサイトは山ほど出てくる)、16世紀頃から世界中で「Sea of Japan」と呼ばれてきた日本海の呼称を不当であり「東海」とすべきという韓国の主張ははっきり言ってチンピラのいちゃもんと変わらない。その背景にはおそらく、小中華思想*とかつて併合された被害者意識との間で生じるコンプレックスがあるのだろうが、その精神疾患に付き合う義理は日本にも世界にも更々ない。

* 中華思想
 中国が文化の中心で、中国から離れていくほどに文明・文化のない野蛮な地域になってゆく、という中国の思想。これは儒教的な思想に支えられているが、現在の我々にとっては勝手な思い上がりであり、端迷惑な優越意識としか言いようがない。

* 小中華思想
 中華思想の小型版。比喩的に言えば、中心の中国が「父」で、朝鮮半島は「兄」、海を隔てた日本は朝鮮よりも中国から遠いので「弟」になる。そして、韓国で根強い儒教思想では目上の者が強いので、自然日本は韓国を立てなければならない、ということになる。日本にとって傍迷惑なのは中華思想そのまま。

 こういう特殊かつ異常な背景がある「日本海」の呼称を、地域によって地理上の呼称がちがうという例に挙げるのが不適切であるのは誰の目にも明かであろう。このアメリカの「Sea of Japan」と韓国の「東海」を並べる取り上げ方自体、読者である子供たちに、まるで韓国側の言い分にも五分の理があるかのように錯覚させてしまうおそれがある。こんな教科書を作った東京書籍も、これを検定で通した文部科学省も、そしてこの教科書を採択した教育委員会も、揃って大バカたれとしか言いようがない。

 税金を使って教科書を刷っているのなら、もうちょっとまともな教科書を作って頂きたい。
(了)

《リンク先》
・『日本海呼称問題について
・外務省「日本海呼称問題」『外務省

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2004年08月06日

ダメなもの「平和登校日」

 私は現在塾講師のバイトをやっているが、今日は午前中生徒が少なかった。学校が登校日だったためだが、その登校日の名前がふるっていた。

 それは「平和登校日」である。

 どうせ「戦時中は生活も苦しくて悲惨だったよ」と戦禍の悲惨さを情緒的に刷り込むだけだろう。それが全く無用だとは言わないが、本気で戦争を世界からなくそうとするつもりなら、そもそも戦争とはどのようなもので、どのようなメカニズムで発生するかを事実に基づいて検証していく方が遙かに重要かつ有益なはずである。
 たとえば、医学においては、病気を撲滅するためには病気の原因の解明と治療薬の開発に力を注いでいる。病気の恐ろしさを患者に刷り込んだところで何の解決にもならないからだ。なのに、こと戦争となると、「間違い」「悲惨」と思考停止してしまい、「平和を祈る」「平和を訴える」というこれまた非常に抽象的で空疎なことしかでてこない。
 そうかと言えば、(主に日教組がらみの)学校の先生方は、中国や韓国・北朝鮮の軍事力には全く目が向かない。国連の国際法廷の場で決しようとの日本の主張を無視して竹島の実行支配を続ける韓国や、チベットを侵略し台湾や尖閣諸島に恫喝をかける中国が侵略国家以外の何者でもないという現実には全く触れないのは欺瞞としか言いようがない。
 そういった数々の偽善と思考停止の象徴が「平和登校日」というネーミングセンスである。特に日教組がらみの(いわゆる左系の)先生方の精神的自慰行為に過ぎないことは、うちに来ている生徒たちが「またなんか戦争の話聞かされるわ」と冷めた口調で言っていることに端的に表れている。

 もう一つ唖然としたことがある。
 ある中学校では、三年生の「公民」で、日本国憲法をノートに写すことを宿題にしているのである。もちろん当の生徒たちは憲法がそもそもどういうものか知りもしないし、習ってもいない。そんな状態で憲法の条文を書き取りさせることなど、教師の自己満足以外の何者でもない。もし条文の丸写しにより憲法が理解できるのなら、私を含めた司法試験受験生がみなとっくの昔にそうしている。
 こんなことをさせること自体、この教師が憲法とは何であるかということをわかっていないことの証明に他ならない。
 仏教での写経は、それ自体が修行であるから何ら問題ないのだが、日本国憲法は単なる一法律であり、功徳のあるものでもなければ、まして「写経」の対象となるべきものではない。
 つまり、この宿題を出した先生の頭の中では憲法がすでに宗教になっているのだろう。「平和憲法」教というカルト教を個人がプライベートで信仰するのは勝手だが、生徒にまで「写経」というカルト教の「苦行」を、成績と内申書をちらつかせながら強要するのは公務員としてあるまじき職権濫用であるし、第一、教義であるはずの日本国憲法第20条3項に「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない」という政教分離規定に反している。しかも、この教師には自分がカルト宗教・平和憲法教を生徒に押しつけている気が更々無い(つまり、故意がない)分だけ始末が悪い。

 教師の精神的自慰行為やカルト宗教活動につきあわされる生徒たちが心底不憫でならない。
(了)

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