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2005年10月05日

お説ごもっとも! だって証拠の貴女が言うんだもの。

 2005年10月4日放送の『たかじんのそこまで言って委員会』(よみうりテレビ)に相も変わらず田嶋陽子が出ていた。
 番組側はこの人を「多様な意見」の一環として出しているつもりかも知れないが、この人に多様性のある意見の一環を担わせるのは明らかに無茶である。なぜなら、田嶋は個々の時事問題について明らかに勉強不足であるし、それ以上に論理的に議論を組み立てて理性的に議論・主張を展開していく能力を著しく欠くからである。また、何の議論をしても一足飛びに女性差別にこじつけるという点でも「多様性のある意見を担保する」は果たせていないからである。

 さて、同日の番組中で「あなたが噛みついてやりたいのは?」という質問に田嶋陽子は確か「テレビ」と答えていた。話を振られた田嶋は、コメントについて編集の段階で言いたいことをばっさり切られたり、と怒りをぶちまけ、程度が低いだのといった罵詈雑言とセットにしてテレビ業界がいかに腐っているかを力説していた。
 私はそのシーンを見ていて、非常にシュールなものを見せられた気がしてならなかった。なぜなら、テレビの程度の低さの象徴たる田嶋陽子の口からそれが語られていたからだ。これは言わば、殺人事件の証拠の拳銃が「わてに付いてる指紋はコイツのんでっせ。コイツが被害者の頭をハジきよったんですわ」と証言するようなものである。
 私は生まれて初めて田嶋の御説に心から納得した

 そしてその後、私はまた田嶋陽子のトンデモ・メンタリティを目の当たりにさせられる。弁護士の橋下徹が「でも田嶋先生はそのテレビで飯を食ってきたわけじゃないですか」とつっこむと、「テレビで飯を食ってきたなんて無礼なことを言うんじゃないよ」とお怒りになっていた(あと「下品なことを言うんじゃないよ」とも言っていたような気がする。はっきり覚えていないけれど)。更に田嶋は「テレビに出ていた頃も法政大学に勤めていたし、法政をを辞めた後は参議院議員になった。だからテレビでは飯なんか食っていない」と続けた。
 まずつっこむとすれば「じゃあ現在は何で収入を得られていらっしゃるんですか?」ということである。著作や講演という反論が返ってきそうだが、それらにしたってテレビに出続けていることで認知度を保っているからこそ依頼される(あるいは売れる)仕事であろう。
 それよりも興味深いのは、田嶋の感覚である。テレビで飯を食うと言うことが間違いだったとしても、間違いなら「事実誤認だ」とだけ言って訂正しておけばいいことであり、「無礼だ」とお怒りになるのは理解に苦しんだ田嶋の中ではテレビ業界で飯を食うことはそんなに嫌がられ、忌避されるべきものなのだろうか?
 仮にそうだとしても、そういう考えは少なくともテレビの収録中に言うべき事ではないだろう周りにいるたかじんもスタッフもテレビで飯を食っている連中なのだから(私がたかじんなら「ほな田嶋先生は、私らテレビで飯食うてる人間と一緒にされたくない、そういう目で我々テレビ業界の人間を見ていたんですね?」と切り返して皮肉っていた)。
 一方で田嶋はよく「男は無意識のうちに女を差別し抑圧していることに気づいて反省し、態度を改めろ」的な主張を仰るが、まず隗より始めよである。ご自分が無意識のうちに他者に対して行っている差別と中傷をこそ反省し、態度を改めるべきだ

 こんな田嶋センセを使い続けているテレビ局はやっぱり程度が低い、改めてそう思った。
(了)

《関連記事》
ダメなもの「田嶋陽子」(1)
ダメなもの「夫婦別姓」(1)
ダメなもの「夫婦別姓」(2)
・お説ごもっとも! だって証拠の貴女が言うんだもの。

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2005年01月24日

ダメなもの「かっちゃんプロデュースのうどん屋」(その後)

 大阪麺通団の後日譚である。

 2004年11月の末頃だったと思う。なんばパークスの浪花麺だらけに行く機会があった。
 そのとき目にとまったのが入り口の張り紙である。「大阪麺通団は11月で終了」とのことだった。全体的に退潮傾向の否めない浪花麺だらけではあるが、時間帯によっては長蛇の列を作っている店もある。そう考えると、浪花麺だらけ自体に目新しさが無くなったことを理由にはできない。
 実際、私が行ったときも隣の「プリン博覧会」にはうっとうしいほど人がいた。それだけに大阪麺通団の寂れっぷりは、口中のプリンが苦くなるほど見ていてつらかった。

 大阪麺通団閉店について検索したところ、「さぬきうどん 食べ、歩き」というサイトに行き着いた。こちらの2004年11月11日の記事に大阪麺通団閉店の原因について触れられている。

* 7月に「本場讃岐の若手四天王大将が、自慢の麺をひっさげてやってくる!」のイベントが実施された際、田尾さんからちらっとそれらしい話は聞いていたんですが、やはり業績向上は無理と判断されたんでしょうか。隣の、新潟イタリアン→小倉焼うどん→そうめんだらけ茶屋と入っていたイベントブースは、その後めん類の出店がなくてプリン博覧会の会場となり、「麺だらけ」という路線を外れて集客を図っている状況からも、全体に退潮傾向なのは確かなんでしょう。土・日でも、午後8時以降は閑散としていましたしね。ただ、大阪麺通団に関していえば、うどんブームで意欲あるお店が関西各地に出来たこともあり、わざわざビルの7階まで行くほどの価値を構築するまでには至らなかったという点も大きかったんじゃないかと思います。

 私もこれとほぼ同じ見解である。繰り返しになるが、浪花麺だらけ自体の退潮傾向があったとしても、いまだに活況な店もある。とすると、やはり「讃岐うどん大使」を名乗りながら、それに見合ったうどんを出せなかったことが固定客をつかめなかった最大の原因だろう。

 大阪麺通団のプロデューサーだったはずの勝谷誠彦は、大阪麺通団の閉店について一切触れていない。これはあまりに無責任な態度ではないだろうか。(実際、わざわざ大阪麺通団のために足を運んで空振りをくらったお客さんがいるのである。プロデューサーなら、自分の日記に「大阪麺通団は11月末を以て閉店することになりました。今までご愛顧を賜りありがとうございました」と挨拶の一つくらいするのが筋ではないのか。

 オープンのときに勝谷が何と言っていたかを思い出してみよう。

 客商売という意識が高いうちの他のスタッフやあるいは麺だらけに入っておられる他店の方々は書きにくいだろうから慮外者の私が敢えて書く。

 広辞苑(第四版)によると、「慮外者」とは「ぶしつけもの。無礼者」だそうである。
 自分が大阪麺通団のプロデューサーで関係者であることを弁えた上で慮外者だと開き直っても、関係者の暴言として店や浪花麺だらけのに迷惑がかかることに代わりはない。とすると、勝谷は「部外者」の意味で「慮外者」と言ったのだろうか。そう考えないと、相当に頭が悪いことになりそうなのだが、勝谷が「慮外者」であること自体に誤りはないので、措くことにする。

 客の質の悪さに呆然としたぞ。客の9割は中高年。オバハンの方が多い。文句はつけるわ隙あらば金は誤魔化そうとするわそういうババアに限ってセルフなのに絶対にトレイを自分では下げない。初日なのでもちろん私たちの不慣れもあり頭を下げぱなしなのだがここまで食べ物を不愉快そうに食う人種を私は見たことがない。よほど讃岐うどんとの相性が悪いのかと他店を見て歩くといずこも同じ。地元の連中に聞くとミナミという土地柄もあるらしいがどちらかというと社会的階層の問題かと。平日の11時に並んでまで一杯300円足らずのうどんを食いに来る人々なのだからか。私は客に感謝はするが卑屈になる気はない。まっとうな客を育てるというのも麺通団の仕事だと思っているからだ。

 改めて、私如きの「罵倒術」など児戯に等しいと痛感させられる文章だ。この罵倒に一々反論はしないが、「平日の11時に並んでまで一杯300円足らずのうどんを食いに来る人々」という表現は、自らが出すうどんまでを蔑んでいることに勝谷は気づいていないことは興味深い。風俗嬢に「こんな仕事して…」と説教する親父のメンタリティそのまんまだからだ。

 私は別に麺通団を悪く言うつもりはない(し、何の恨みもない)。東京麺通団は活況とのことだからいつか食べに行きたいとすら思っている。
 私が許せないのは勝谷誠彦である。客を罵倒し、「まっとうな客を育てる」と大言壮語を吐いた勝谷が、店のプロデューサーまで務めておきながらその閉店については知らんぷりを決め込む。自身の日記では相も変わらず他者を無責任だと批判しているくせに、言論で禄を食む者として客を罵倒したことについての責任も、店のプロデューサーとしての責任も一切果たしていない。その批判内容がいかに正しかったとしても、勝谷に人を無責任と批判する資格はない。まっとうに育てられるべきは勝谷の方ではないのか。
 麺通団ももうちょっと関わる人を選ぶべきだと思う。
(了)

《関連記事》
ダメなもの「かっちゃんプロデュースの讃岐うどん」(1)
ダメなもの「かっちゃんプロデュースの讃岐うどん」(2)
・ダメなもの「かっちゃんプロデュースのうどん屋」(その後)

《リンク先》
・「さぬきうどん 食べ、歩き
・勝谷誠彦「石の人もとい意志の人田尾教授決死の現場復帰!
   『勝谷誠彦の××な日々。』 

《トラックバック送信先》
・山田六郎「なんばparksも一周年やね。
   『妄想観念日記

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2004年11月10日

ダメなもの「無教養な政治家」

 最近、目が離せないのが「菅直人の今日の一言」である。私如きが偉そうなことを言えた義理ではないが、この人が何かを語るたびに、そのあまりの教養の無さに唖然としてしまう。
 今日(2004年11月10)の記事をご覧いただきたい。

■戒律
 Date: 2004-11-10 (Wed)

 民主党代表を辞任してちょうど半年。ストレスが少なくなったせいか肩こりしなくなった。
 イラクのおけるアメリカの態度は、自分たちが正義で敵対するものは全て悪という一神教的発想に見える。どの宗教も「汝殺すなかれ」と人殺しは戒律に反するとされている。しかし、自らが信じる神が絶対であるとする一神教的な宗教ではでは敵対する宗派の人間を殺すことについて必ずしも戒律に反するとしていない。その点、仏教や自然崇拝から来る自然教では「生きとし生けるもの」全ての命を大切にすることこそが大事と教えている。動物は基本的には同種族は殺しあわないと聞いている(一部例外はあるようだが)。人間の行動は動物の中でも最低のモラルといえる。

一神教の論理について

 靖國問題についてもそうだが、菅は文化や宗教については驚くほど基礎知識がない。そもそも一神教における神の概念自体、ろくにわかっていないのではないか。

 菅は一神教の論理を簡単に否定するが、宗教という物自体そう簡単に否定できるものではない。その土地の文化や歴史などと密接に関わっているからだ。
 和辻哲郎の『風土』には、沙漠などの自然環境が厳しいところでは戒律の厳しい一神教が生まれやすいという指摘がある。
 ごくごくおおざっぱにまとめると、日本のようなモンスーン気候の土地では自然が人間にとって「恵み」であるから、そこに住む人間も自然のほほんとした性格を有するようになり、宗教も戒律の緩いものになる。
 それに対して、沙漠では自然それ自体が人間にとって厳しい「敵」である。そういったところでは、人間同士団結しなければ生きていけないので個人の勝手(自由)も制限されることになる。また、そのためには当然強力なリーダーシップも要求される。
 そしてこれは宗教の面でも反映されることになる。イスラム教が強力なリーダーシップの下、厳しい戒律で民族をまとめ上げているのはご存じの通りである。
 こうして生まれてきた文化・宗教を支える価値観の相違というのは、菅が思っている以上に根深いものなのである。

 それを論ずる前に菅の「神」概念のいい加減さを指摘しておく。
 一神教の神は阿弥陀如来などのように、どこまでも慈悲深くて誰でも救ってくれるような存在ではない。自分を信仰しないものや、自分の戒律を守らないものは容赦なく殺す厳しい存在なのである(旧約聖書には戒律を破ったとすぐキレる造物主と、それを必死に言い訳するモーゼら預言者のお話が山ほど出てくる。手っ取り早く知りたい人は小室直樹『数学嫌いのための数学』(東洋経済新報社)のChapter2にこの話が出ているので参照頂きたい。なお、この本には総じて乱暴な記述やこじつけも散見されるので注意が必要である)。
 だから、「汝殺すなかれ」という戒律はあくまで造物主を信仰する信徒内でのルールに過ぎないという側面があり、異教徒に同じルール(「汝殺すなかれ」)が当然に適用されると思う方が間違いなのである。そもそも、信じてもいない神の恩恵にだけ与ろうなんて虫が良すぎるのではないか。

 以上を踏まえて私が言いたいのは、世界には菅の価値観と違って、人間の命(人間同士が殺し合わないこと)よりも、「神の教え」の方を重要視する人間が相当多数いる、ということである。そんなことも知らずに一神教を揶揄したその不用意さに驚かされる。しかも、一神教の論理を揶揄する割に一神教について驚くほど(少なくとも素人の私より)無知だというのだから話にならない。

仏教と自然崇拝から来る自然教(?)について

 自然崇拝からくる自然教って何だろうか。すぐに思いつくところでは自然全てに神が宿っている(八百万の神)と考える「神道」くらいしか思いつかない。靖國参拝は否定するけど神道は評価していると言うことだろうか。
 自然崇拝から来る自然教の教えは特定できないけれど、仏教で「『生きとし生けるもの』全ての命を大切にすることこそが大事」と教えているのだろうか。そう言う教えも確かにあるにはあるだろうが、仏教の教えも色々あるので一概に言い切るのはやや乱暴だと思う。
 それに、仏教にだって一方で日蓮の一神教的な法華経絶対主義や、一向宗の信長との抗争など、一神教と変わらない事例は山ほどある(これは菅も歴史の授業で習ったはずである)。仏教を自分の都合良く理解しすぎじゃないだろうか。

動物はモラルをもった存在か?

 それにしても最後の一文はあんまりだと思う。動物が同種で殺し合ったりしないのはモラルを守っているわけでも何でもなく、ただ単に本能に従っているだけである。逆に言えば、人間はそういった本能が壊れてしまったから、モラルという誠に不完全な代替物でもって同種の殺し合いを抑制しなければならないわけである(これについては岸田秀『ものぐさ精神分析』が参考になるだろう)。

 菅の根本的な間違いは、一神教のこととも共通するのだが、自分の尺度で何でも判断しているという点にある。菅自身がかつて女性キャスターとホテルの一室にいたことがモラルに照らしてどうかはさておくとしても、動物も自分たちと同じようなモラルを持ち、しかも人間以上に従順に守っていると考えているのはある意味「無邪気」と言えるかも知れない(決して褒めているわけではない。四十、五十にもなって無邪気な浅慮を振りまくのは普通「馬鹿」と評価されるべきものだからである)。

教養が無さ過ぎ

 菅直人はびっくりするくらいモノを知らない。以前取り上げた永江朗『批評の事情』において、永江は山形浩生の項で「OSとしての教養」ということを言っていた。(これは私の勝手な定義だが)物を考える基礎にあるのが教養だとするなら、海外の文化・価値観はおろか日本の文化・価値観についてろくな教養を持ち合わせていないことは、政治家という職業が国のあり方や行く末を決めるものである以上、致命的な欠点なのではないか
 彼の政策や理念がひどく薄っぺらく感じるのはこういうところにあると私は思う。
(了)

《関連記事》
ダメなもの「永江朗『批評の事情』

《参考文献》
・和辻哲郎『風土』(岩波文庫)
・小室直樹『数学嫌いのための数学』(東洋経済新報社)
・岸田秀『ものぐさ精神分析』(中公文庫)
・永江朗『批評の事情』(ちくま文庫)

《リンク先》
「菅直人の今日の一言」

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2004年11月04日

ダメなもの「菅直人(の今日の一言)」

 菅直人については、易姓革命発言について以前揶揄したことがある
 その後もたまに「今日の一言」に目を通しているのだが、この人は官僚批判しか言えないのだろうか。

■統帥権
 Date: 2004-10-31 (Sun)

 明治憲法の「統帥権の独立」について考えている。明治憲法は立憲君主制の下の三権分立が成立しているようにも見えるが、軍の統帥権が内閣や議会から独立しているという解釈が昭和に入って力を持ち、軍部の独走を止められなくなった。現行憲法にはもちろん「統帥権の独立」の規定はない。しかし私には現行憲法でもその解釈において内閣や議会から「行政権の独立」があるように見える。しかも統帥権が参謀本部の将校によって専有されたと同様に、今日の行政権の大半はキャリアと呼ばれる上級官僚によって専有されている。つまり参謀本部の将校がキャリア官僚に置き換わっただけである。軍部が独走して日本を破滅に追い込んだと同様に、官僚組織の独走が現在の日本の財政破綻を引き起こしてきた。もちろんその責任の半分は政治家にもある。憲法を論じるうえで、行政権を国民主権の下に置くには明治憲法の統帥権の歴史を十分吟味する必要がある。

「行政権を国民主権の下に置く」って、現在でもそうなっている。かつて厚生大臣をやったお人とは思えない発言だ。
 要は政治家が官僚という優秀なブレーン集団を使いこなせないばかりか統制も出来ず、バカにされていることが問題なのである
 では、自民党が悪いのか。確かに、ここ数年政権を担っている自民党の大臣のほとんどが官僚を統制できていないのは認める。悪いと言えば悪いだろう。
 しかし、そうすると、その現状をこれでもかと晒された上に選挙でマスコミにひいきされまくりながら自民党に選挙で負け続けている民主党はもっと悪い(もしくは情けない)のではないか。菅は、国民からそんな体たらくの自民党以下と判断されたことをちゃんと認識しているのだろうか。 国民から官僚の暴走を許しているダメ与党以下の評価を受けたことを少しは恥じたらどうだ

 では、菅には官僚を使えるだけの資質があるだろうか。私はないと思う。
 菅と言えば、薬害エイズ問題だけで厚生大臣になり、薬害エイズでは活躍したものの、O-157の貝割れ大根騒ぎの時にはテレビカメラの前で口いっぱいに貝割れ大根をほおばるという、どう考えても間抜けなパフォーマンスしか出来なかった人である。薬害エイズにしても責任追及ばかりで官僚狩りに明け暮れていた。確かに責任追及も必要ではあるが、大臣に求められるのは官僚の失態を追求することではない。 大臣の職務は、官僚を統制し、官僚を使い、官僚と共に国民の信頼に応える仕事をすることである。膿を出し旧弊を破壊した後のあるべき組織作りのビジョンが菅にあるのだろうか。少なくとも、官僚を悪としか捉えられていない菅にそんなビジョンがあるとは思えない。

これでも理系?

 菅は弁理士で、確か理系畑の人だったはずである。その菅がこういう事を平気で言えるわけである。この人は我々が思っている以上に頭が悪いのではないだろうか。

■脱線事故
 Date: 2004-10-29 (Fri)

 新幹線の脱線事故について考えている。地震発生時、最高速度250キロを超える新幹線を迅速に止めるにはどうすればよいか。最後尾からパラシュートを出すというアイデアを聞いた。スペースシャトルの着陸などで使われている方法だ。昨年乗ったリニアーモーターの試験車両は1秒間に5キロずつ加速、減速した。リニア-モーターカーはレールを使わないから“脱線"という概念は無い。側壁の並んだ電磁石と車内の超伝導電磁石の相互作用で浮き上がりかつ前進する。側壁の電磁石が破壊されない限り急速に止めることも可能だ。

 新幹線の場合にパラシュートで急停止すると中の乗客に大惨事が起きることを菅は知らないらしい。菅には是非、浦沢直樹『MASTERキートン(5巻)』を読んで頂きたい。この中に飛行機の不時着の話が載ってるから、これを読んでご自分がいかに適当なことを言っているかを自覚して頂きたい。
 リニアモーターカーはレールを使わないから確かに脱線はしない。でも、地震で側壁の電磁石が破壊されたら、それ以前に電気の供給がストップしたらどうなるか考えたのだろうか。新幹線以上のスピードで「胴体着陸」してしまうことくらい素人考えでも浮かびそうなものだが。
 次の内閣で国土交通を担当すると言っている人がこの程度なのか。ろくなブレーンがいないのか、それとも単にこの人が国土交通関係について勉強する気がないのかは知らないが、思いつきで「未納三兄弟」と言って自分の首を絞めたことに全然懲りてないことだけは確からしい。

素人以下の日記

 この「今日の一言」を見ていると、「小泉流はぐらかしの答弁」だの「ごまかしの答弁」だのという言葉によくぶつかる。せめて一言でも良いから何がをはぐらかしたのか、何をごまかしたのかを書いて欲しい。気のきいた素人の日記でもニュースソースを挙げるくらいはしている。
 民主党の党首までやったお人がこんな杜撰な素人以下の日記を公開していることに誰も何も言わないのか。菅の周りにはろくな人材が以内のではないかと思われて仕方がない。

■退陣
 Date: 2004-10-14 (Thu)

小泉総理の最近の言動を見ていると自分が正しいことをやっているという「確信」を無くしている。ただ続けることが目的になってしまった総理には一日も早く退陣してもらうしかない。

 かといって、官僚を敵視することしか能のない自滅した野党の元党首に政権の座についてもらうわけにもいかない。

大橋巨泉を担いだのは「他人に厳しく自分に甘い」から?

 盗人猛々しいというか、ご自分に都合の悪いことだけ都合良く忘れるのはこちら。

[1315] 無残 2004-07-13 (Tue)

 自民党の現状は見るも無残。総理はもとより、51議席を割ったら責任をとるといっていた衆参幹事長も責任を取らずに居直り。小泉総理の「逆風の中で健闘した」と言う滅茶苦茶な強弁を批判する現職政治家は自民党には一人もいない。小泉総理に残されたサプライズは9月の自民党人事で総裁が突如辞任することぐらい。
 (強調引用者)

■岡田幹事長、200議席獲得できない場合「責任とる」

 民主党の岡田幹事長は7日の奈良市での記者会見で、衆院選の目標としている200議席が獲得できず、党内で責任論が出た場合、「責任をとる準備はある」と明言した。そのうえで、「まだはっきりしていない選挙区が80ぐらいあり、決して不可能な数字ではない。とにかく勝つために必死で頑張ることが大事で、それ以外の(責任論などの)議論をすることがすなわち負けることだ」と、残り1日の選挙戦に全力を尽くす姿勢を強調した。
 (2003/11/7/20:26 読売新聞)

 幹事長時代の岡田克也が2003年の衆議院選挙で200議席を割ったことの責任をとったという話は寡聞にして聞いたことがない。菅にはこの件について「はぐらかしでない」答弁をしていただきたいものだ。

 いくらでも続きそうなのでこの辺でやめるが、別に殊更ひどい物ばかりをピックアップしたわけではない。全編を通じてクオリティがこのレベルなのだ。こんな人に政権を任せるのはいくら何でも無理だろう。
 最後に、以前したためたさるさる日記の菅直人評を再録して終わることにする。改めて読み返してみると、菅に対して感じた印象をそのまま書いているだけで正直あまり論理的とは言えない。が、「未納三兄弟」発言で墓穴を掘ったり、その後お遍路になったりしている菅を見るにつけ、菅直人という人物についての直感的な評価はそれほど外れていなかったのではないか、と思ってしまう。
 下手に野心がある分、南野法務大臣より始末が悪い、と言うのは言い過ぎだろうか。

■衆院選挙について 菅直人の印象

 私は、菅直人という人は国政を担う器ではないと思っています。
 菅氏が政治の表舞台に出てきたのは薬害エイズ問題の時に厚生大臣になったときでした。初めて菅氏の顔を見たとき、「エラい寝ぼけた顔をしてるな」と思ったのを覚えています。さわやかだとかクリーンだとか言われていましたが、どうも菅氏から受ける印象は「トロそう」というものでした。薬害エイズ問題に熱心に取り組んできたから、この問題を解決するための厚生大臣としては向いているのでしょうが、菅氏には政治家に必要な押しの強さやクレバーな頭の回転といったことが決定的に欠落している、と感じました。そういう意味では、菅氏のグループにいる枝野議員の方がよっぽどしまりのある面構えをしていたと言えます。
 薬害エイズ問題で一躍ヒーローになったときも、私は、この人はこの問題だけしか出来ない「ワンポイント投手」だと感じていました。薬害エイズ問題というライフワークだからこそ官僚とも対決できたでしょうが、広く国政全般であのように渡り合うのはこの人では無理だという思いがぬぐえませんでした。
 それを証明するのは意外と早く来ました。かいわれ大根が病原性大腸菌O-157に汚染されているなどという風評が立ったとき、マスゴミの前で口いっぱいかいわれをほおばっていました。あれを見たとき、やっぱりこの人は薬害エイズ問題以外は到底任せられない、と思ったのです。
 政治家が政界のトップに立って日本を舵取りする野心(と言って悪ければ大志)に燃えるのは構いません。ただ、「やりたいか否か」と「向き・不向き」は全く別次元の問題です。

 その後、菅氏に愛人問題が浮上しました。ホテルでニュースキャスターか何かの女性とホテルで密会していたのを報道されたとき、「国政についての勉強をしていた」という言い逃れをしていました。その嘘の安っぽさよりも、女性スキャンダルを否定するために、ろくなブレーンがいないようなことを言ってしまえる感覚の方に私は驚きました。こんなちゃちな言い訳してるようでは本当にろくなブレーンがいないのだな、と同情すら覚えました。

 以降の菅氏は薬害エイズの時の遺産を食いつぶしているようにしか見えません。小泉首相との「論戦」でも、揚げ足取りで小泉首相を詰まらせたときに浮かべる笑顔もしまりがなくて妙にいやらしくうつり、菅氏が器の小さな小悪党のように見えてしまいます。「さわやかさ」も完全になくなりました。民主党が女性からの支持率が極端に低いのも、最近の菅氏の「いやらしさ」ではないか、と私は思うのです。
 自分が総理になったときには、公務をさぼりまくっている長野県知事・田中康夫に大臣を兼務させるなどとニュースステーションで発表し、人を見る目の無さをも露呈させました。この点、大橋巨泉に出馬要請した鳩山由紀夫といい、人を見る目が無さ過ぎるのは民主党の体質なのでしょう。

 以上、菅氏に対して受けた私の印象を書かせてもらいました。マスゴミは手放しに菅氏を持ち上げていますが、私は強い違和感を覚えざるを得ません。
皆さんはどう思われますか?
 (2003.11.10)

(了)

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2004年10月28日

ダメなもの「善意・同情の押しつけ」

《前書き》
 タグを貼り付けるだけのお手軽無料のアクセスカウンター「1番星アクセス解析付き無料カウンター」を導入したのですが、これが恐ろしい勢いで伸びています。ってか、OCNやBlogPetとカウント数ずれすぎ。二日で600以上もずれるってどういう事だ? カウントの仕方が違うにしても、これはさすがに離れすぎだろう。どうしたものか…何かいいアイデアがあれば是非教えて下さい。

 以下は本文。


 ダメなもの「地震中継」の回で少し触れたが、こういう大々的な災害になるとすぐに「不謹慎だ」などとテレビ局に放送内容について文句を言う人がいる。確かに、「新潟の地震なんて俺には関係ないから『ドラえもん』を放送しろ」とか「一週間の最後は韓国ドラマで締めくくるのに放送がなくなって最悪」などという連中は不謹慎だと思う。
「大地震が起きているときに悠長に通常放送など流している場合ではない」という主張は一見するともっともなようにも聞こえる。
 しかし、私はこの「不謹慎」という物言いにどうも引っかかるものを覚えた。テレビ局に「通常放送は不謹慎だから流すな」ということは、全国の一般視聴者にも「通常放送なんか見てる場合か!」と言っていることになるが、果たしてそうなのか? この点について、(特に民放の)地震中継のデメリットについては、上記記事で指摘した。今回は、被害者感情への共感について考えてみたい。

中継さえすればいいのか?(再論)

「不謹慎」という物言いのある種の極端な事例として、前回と前々回で取り上げた勝谷誠彦を取り上げることにする。
 勝谷は自身の日記で以下のようなことをのたもうている。

一方で新潟の民放についてもさまざまな声が。地元の方々から寄せられた話には迫力があった。他局すべてが報道番組に切り替わっている中で延々とドラえもんとドラマを流した局がある一方で記念すべき局舎の落成イベントの中継の最中だったにもかかわらずすばやく報道に移行し記者たちを命懸けで現場に飛び込ませていった局もあったという。すべてその結果は地元の方々が今後それぞれの局を見る目に反映されるだろう。
 (勝谷誠彦「特殊法人の糞保養施設接収し被災者宿舎にあてよ。」)

 地震直後の新潟でのテレビ朝日系列の放送内容については、ちょっと調べてみたが確定的なことはわからなかった。さすがに新潟で「延々とドラえもんとドラマを流した」のなら問題かも知れない。
 が、こういうときに全国で均一の情報を流す必要もない。新潟のキー局だけ地震中継に切り替え、あとはL字テロップで対応する方が良かったように思う(同じようなことはダメなもの「地震中継」でも指摘したが、こういう対応はできないのだろうか。何でもかんでも東京発で統一しなければならない理由がわからない)。

果たして「延々と」か? …細かな論点

 また、「延々ドラえもんを」と言っているが、本当だろうか。私が帰宅したときに父が「どこの局もニュースばっかりや」とザッピングしたのが19時5分か10分くらいで、そのときには各局とも報道特別番組になっていたと記憶している。いい加減な記憶だからあるいは間違っているかも知れないが、私の記憶が正しいなら、5分か10分の間を「延々」と表現することにいささか抵抗を感じる。
 細かいことのようだが、勝谷の文章は全編がこのように感情的かつ断定的なので注意が必要だということを指摘しておく(勝谷の文章をよく読んでいらっしゃる方には当然のことだろうが)。

全員が被災者なのではない、という現実 …「善意・同情の押しつけ」について

かかるメールを寄せて下さる方々の志に頭が下がると同時に一方の卑人どもの跳梁を見ているとやはりこの国には二種類の日本人がいるのかと思わざるをえない。この寒空の下で給水車の前に幼子を抱えて並んでいる被災者たちがいるその時に僅か数百キロしか離れていない場所で1200本のビールを20分とやらでぶっかけあう無思慮集団。http://www.shikoku-np.co.jp/news/news.asp?id=20041026000003。いや脳味噌筋肉連中に悪意があるとは思えぬ。こういう時に乾杯ですませるというわずかな配慮を指示できない国賊企業はまああの売国奴が首領様なのだから当然か。いろいろ言われてはいるものの阪神大震災の時に私たちの目には少なくともダイエーの命懸けの必死さが見えた。被災者たちと生死を共にしようとする覚悟を感じた。西武は今日から優勝セールをするそうだ。西で東で無数に同胞が呆然と立ち竦んでいるこの時に商売に奔走する銭ゲバと行列してまでそこに群がる卑しい人種を今夜のテレビはたっぷりと流すだろう。よく顔を見ておくことにしよう。
  (勝谷誠彦「特殊法人の糞保養施設接収し被災者宿舎にあてよ。」)

 堤前会長や西武が売国奴なのかどうかは知らない(ご存じの方、教えて下さい)が、新潟で大震災が起きたから全国的に自粛しなければならないようなこの言いぐさには同意できない。なぜなら、ダメなもの「地震中継」でも指摘したが、これこそが「善意の押しつけ」という偽善的なファシズムに他ならないからだ。

 人が新潟の地震災害の報に接してどう感じるかは、残念ながら個人差がある。自分が直接被災した場合は言うまでもないが、被災地域に家族や友人など関係者がいる人、新潟に関係者はいなくても阪神大震災や奥尻の地震などの地震災害に遭ったことのある人、私のように幸い大きな地震被害を経験したことのない人、それぞれ感じ方は違う。大多数の人に共通するのは被災者への同情である(し、そういった同情心が沸くことは社会通念と言っても良かろう)が、やはりその同情の度合いにも個人差がある。
 そもそも、我々がこの同情心を抱くこと自体、マスメディアによって即時的に情報を共有できるようになったからである。確かに、我々はマスメディアによって情報を共有できてはいる。
 しかし、勘違いしてはいけない。我々はその経験までは決して共有できないのだ。テレビに映し出される被災地の現実と、それを観ている我々の現実は全くの別物である。
 悲しいかな、我々の周りには新潟と違い平穏無事な日常が続いている。被災者への同情心もその日常のうちに埋もれていく(ニュースを見る度によみがえったりもするが)。それが現実だ。
 被災者がずっとつらい目に遭っているからと言って、こちらもそれに合わせてずっと同情と心配を抱き続けられるわけはないし、第一そんな必要もない。我々は自分の感じる範囲内で同情や心配に応じて我々の日常を過ごせばいい。後はまさに個人の判断である。ボランティアにかけつける人もいるだろうし、そこまでできなくても物資なり義援金なりを送る人もいるだろう。テレビをみて「かわいそう」としばらく同情してそれっきり自分の日常に戻っていく人もいる。
 なのに、勝谷は自分の感覚を当然のものとして西武ライオンズや西武グループを口汚く罵る。私はこの「押しつけ」にどうしても抵抗を覚えてしまう。被災地の現実と我々の日常との隔たりは、あるいは勝谷にとっては受け入れがたい現実なのかも知れない。しかし、現実が嫌だからとそれをみないのはだだっ子に過ぎない。

何を基準に自粛すべきなのか

 勝谷の西武への批判については、自粛すべきか否かの判断が非常に恣意的なものである、という点も指摘できる。
 まず、自粛すべき人的範囲はどこまでなのか。自粛すべきは通常放送(=テレビ局と全国の視聴者)と西武ライオンズのビールかけだけなのか。ビールかけも通常放送と同様、これを自粛せよと言うことは日本一を祝いたいライオンズファンに自粛を強要していることに他ならない。
 こうして考えていけば、何も自粛すべき一般庶民はテレビの視聴者とライオンズファンだけに限られるのはおかしいことになる。全国の飲み屋の客も自粛して店舗を閉めるべきだし、ラブホテルも客を叩き出すべきだということになる(というか、あらかたのサービス業は休業を余儀なくされる)。

 また、自粛すべき事件の範囲はいかなるものか。悲惨な状況に合うのは大規模な震災だけに限られない。交通事後で死傷する人は毎日、それこそ日本中にいる。難病に苦しみ続けている人もいるし、病気で亡くなる人もいる。つらい思いをしているのは何も被災者だけではない。
 なのに、何で地震による被災者だけに対して自粛せねばならないのか。要は、勝谷にはわかりやすい大規模な災害の被害しか見えていないだけではないか。義憤(のようなもの)を振りまくのは勝手だが、その義憤自体が大概においていい加減で胡散臭いものであることは内省すべきである。

 一番判断基準がいい加減なのは、その自然災害が同情すべきものかどうかという点である。
 皆さんは覚えていらっしゃるだろうか。2003年7月1日に長崎で起きた、長崎男児誘拐殺人事件を。それから約20日ほど後の7月19日から20日にかけて九州で豪雨災害があった。そのときに勝谷は何と言ったか。「そして神は犯罪王国九州を水の下に沈めなされた」である。今回の新潟の震災や阪神大震災ではこんな事を一言も言わなかったのに、長崎で痛ましい事件が起きた後に鹿児島と熊本で自然災害が発生したのは天罰だと仰るわけだ。天罰の下る場所がずれたのだろうか、いや勝谷の思考自体がずれているだけである。本文中で辻元清美をかばい立てする辺りはもうブラックジョークとしか思えない。
 私が天(あるいは神)なら、この男に真っ先に天罰を与えている。

偽善者は「わかった」ような口をきく

 結論を言えば、上記の勝谷の西武批判はチンピラの因縁である。結局は自分の感覚を人に押しつけているだけに過ぎない。
 これは以前書いた正義ボランティアとも基本的には同じ構図である。自己批判のない正義や善意は大概押しつけになって偽善に陥るのだ。まして同情や共感などは、押しつけられるものでは断じてない。被災者に安易に共感を示す前に、まずは被災者や他者との心理的な距離を考えるべきである。安易に「共感」や「わかった」などと言う人間に対してこそ我々は注意しなければならない。

余談

 私如きがエラそうなことを言えた義理ではないが、プロの物書きなら、いくら無料閲覧可能なインターネットの日記だとはいえ、もう少し物を考えてから書くべきだと思う。
 あと、日記に改行ぐらいつけてほしい。あの天声人語ですら話題を変えるときには◆をつけて区別しているというのに。判決文と一緒で、読みにくくすることで突っ込まれにくくしているのだろうか。プロの物書きならばもう少し読み手のことを考えるべきだろう。
(了)

《関連記事》
ダメなもの「地震中継」
ダメなもの「正義感」
ダメなもの「自己責任論を巡る議論」(2)

《リンク先》
・『1番星アクセス解析付き無料カウンター
・「緊急特集 長崎・駿ちゃん誘拐殺人事件
   『西日本新聞
・勝谷誠彦「特殊法人の糞保養施設接収し被災者宿舎にあてよ。
 〃「そして神は犯罪王国九州を水の下に沈めなされた
   『勝谷誠彦の××な日々
・牛山素行「2003年7月19日20日の九州における豪雨災害 研究関係情報
   『豪雨災害と防災情報を研究するdisaster-i.net

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2004年10月27日

ダメなもの「かっちゃんプロデュースの讃岐うどん」(2)

《ちょっと前書き》
 チャッピーが早速記事をアップしましたが、なんか適当にブログの言葉を切り貼りしているだけかよ…orz。元々あんまり期待してもいなかったが、ちょっとこれはひどすぎるんじゃないの?
 こうさぎのHPには「授乳期間中」つまりα版とあるが、さすがにこれはまだ客に提供するレベルじゃないと思う。
 ま、せっかくなので残しておくことにします。ただし、記事の文字の色やタイトルなどは多少手直ししました。記事のタイトルがピンク(本文は)なのがチャッピーの記事です(ちなみに、もうすでにご了解のことと思いますが、記事のタイトルがエメラルドで本文が深緑なのがゆうすけ氏の日曜版の記事です)。また、「最近の記事」欄でも見分けがつけやすいように、タイトルの「ダメなもの」の後の括弧を変えております。「」が私、『』がゆうすけ氏、《》がチャッピーとなっております。お気づきでなかった方に説明しておきました。

 以下は本文。


 実は、今回食べに行く前に、彼女となんばパークスの「浪花麺だらけ」に一度足を運んだことがある。そのとき、私は讃岐うどんが食べたいと強硬に主張したが、彼女の「うどんだと汁が跳ねて服が汚れる」との主張に譲歩し、結局同じ「浪花麺だらけ」で博多ラーメンを食べた
うどんダシはダメでも、豚骨スープならオッケーなのか?
という釈然としない気持ちを抱えながらラーメンをすすったのを覚えている。
 ちなみに、この博多ラーメン「しばらく」は美味しかった。私自身、豚骨スープや固めの細麺が好きなのもあるだろうが、なかなかの味だった。また食べに行きたい。

なんで「大」で頼んでしまったのだろう…orz

 2004年10月24日、用事があって一人で難波へ行った際に、ちょうど腹が空いたのでなんばパークスまで足をのばした。
 ちょうど日曜だったこともあり、人がごった返していた。しかし、私は一階から上がったのだが、一階にいる人たちはの様子が、なんばパークスにどうもそぐわない。ほとんどが男ばかりで、しかも半分以上がおっさんだったからだ。男共は手に手にマークシートをもち、何やら熱心に色塗りをしている。
 実は、なんばパークスは建物の二階からで、一階にはJRAの場外馬券売り場が入っているのだ。オシャレななんばパークスの足下で博徒共がうごめいている図はなかなかに興味深い。
「畜生に他人が乗ってるんや、当たるわけがない」というのが父の教えであるので、私は博徒共をスルーして一路目的地「大阪麺通団」に向かう。

「浪花麺だらけ」は人でごった返していた。プリンか何かの食べ比べのようなイベントをやっていたようだ。「麺だらけ」でなぜにプリンか? という当然の問いはここでは措く。 いくつかの店では長蛇の列が出来ていた。

* 話がそれるが、私は食べ物やで列に並ぶのが大嫌いだ。みんなで食べに行くときに「ここにしよう」と決めた店で並ぶのなら構わない(そこまでワガママは言わない)が、一人のときや二人連れのときはよほどのことがない限り別の店にする。並んでいる自分が店の宣伝に利用されている気がしてしまうからだ。それに、並ぶほどの価値がある食べ物自体、そんなにあるとも思えないからだ。 

 幸い、大阪麺通団には列はできていなかった。客は結構入っていた。

* そう言えば、今プリンのイベントをやっている場所辺りには(その奥だったかな?)初めは新潟のパスタ屋が入っていた。私が友人と行ったのが今年の二月頃だったと思うが、あちこちに列ができているのにそこだけは客が一人もいなかった。厨房にいた男性とウエイトレスの女の子二人が前を通りかかった我々を懇願するような目で見てきたのには参った。情にほだされて思わず入ろうとしてしまった私を友人が止めた。
アホか、今入ったら晒し者が三人から五人に増えるだけやぞ!

…二月一杯で新潟のパスタ屋は撤退した。

 どうやらその一角は鬼門らしく、その後焼きそば屋やそうめん屋が相次いで入っては去っていった。今はどうなっているのだろう。

 セルフの店でとまどってしまうのがあのシステムである。まずうどんを注文するのだが、受け取りの場所などが各店で微妙に違う。また、大阪麺通団のメニューは微妙にわかりにくかった。生醤油うどん(汁につかったうどんではなく、麺に醤油がかかったいわゆるぶっかけうどん)が食べたかったのだが、ぱっと見よくわからなかったので「冷やかけうどん」なるものをとりあえず注文する(後で落ち着いて見ればメニューの下の方に醤油うどんらしきものが見つかった。が、後の祭りだ)。朝から何も食べていなかったので、勢い「大」で注文してしまった。
 今考えるとこれは失敗だった。

 これ見よがしに並べてある各種天ぷらのトッピングを選びながら、うどんが出てくるのを待つ。というか、どこで受け取ればいいのかがよくわからない。レジの方に向かうと注文した場所に私の注文したうどんが出てきた。うどんをみて「失敗した」と思った。そこには汁のかかった普通のうどんがあったからだ。醤油うどんが食いたかったのに…私の場合、店員に注文を訊かれ、待たせたくないからと「えいやっ!」と頼んだ物は大概このように後で軽い後悔をさせてくれる。というか、「えいやっ!」っと注文したもので満足した試しがない。

 うどんを受け取り、会計を済ませると早速食べてみた。
 ずるずる…うんうん、コシがある…うん…コシ?
 一口で言えば固かった。五本も一気にすする私が悪かったのか。口の中がうどんで一杯になったのでかみ切ろうとしたが、なかなかかみ切れない。これって「コシ」か? しかも、無駄に太い分、余計にかみ切れない。私の語彙ではあの固さは「ゴム」としか表現できない。
 前回、私は自分があまり味のわからない人間だと言った。しかし、それを承知で敢えて言わせてもらう。「コシがある」のと「ただ固いだけ」は全然違う、と。
 不味くはない。でも、これは私が求めていた讃岐うどんではない。勝谷誠彦の舌にダメ出しはしないが(味覚など多分に主観的なものであるからだ)、彼の味の感覚は私の口には合わないことは言わせて頂く。私のジャッジでは山田六郎が正しかった。
 それにしても何で「大」なんかで頼んじゃったのだろう。この麺、固すぎてかつてのこんにゃくゼリーのように子供が窒息死しないのかなぁ。「冷やかけ」って何だよ、スーパーで売ってるアルミの鍋焼きうどんを火にかけずにだしたみたいじゃねえか…さんざっぱら勝手なことを思いながら固いうどんを食べ終えると(私にとって麺類はパスタ以外「すする」ものだが、あのうどんは「食べた」としか表現できない。歯ごたえだけはばっちりだったと思う)、文句を言われないようトレイを片づけ(でも返却口は前の客のトレイで一杯だった。プロデューサー様に再度膳下げをやって頂きたい)、そそくさと店を出た。

 私の彼女へ。
 正直スマン! 君の判断は圧倒的に正しかったあのゴムのように固いうどんのダシが跳ねていたら、私でも激怒したと思う。もごもご固いうどんを噛みながら、私はつくづく「博多ラーメンにしとけば良かった…」と反省させられた。君の英断を、我が身を以て証明しなければ理解できなかった愚かな私をどうか許して欲しい。

江戸の敵を長崎で…

 翌日、私は朝から資格試験の予備校にいた。天王寺なので昼飯を食う店には困らない。が、私は妙にうどんが食べたくなった。昨日の味にいまだ納得がいかないからだろう。
 結局、天王寺「あべのルシアス」の地下にある讃岐うどんの店「磯仁」で取ることにした。そう言えば、ここが讃岐うどんの店だったのをすっかり失念していた。「いそじん」って、うがい薬みたいな名前やなぁなどと要らんことばかり考えていたからだろう。
 私は「磯仁」で釜揚げうどんを注文した。表には「大盛りでも同じ値段です」とか書いてあった気もするが、昨日のことで懲りている。大盛りはやめておいた。
 うどんができるのを待っていると、親父が「釜揚げだと7,8分かかります。一度湯がいた『湯冷め』の麺でしたらすぐにお出しできますけど」と言った。早いほうが良かったのでそれにしてもらう。
 出てきた釜揚げうどんをすすって私はびっくりした。
や、やわらかい…
 昨日の歯ごたえからすればそりゃあ柔らかいに決まっている。しかし、麺にコシがあるのははっきりわかった。一見柔らかそうなのだが、噛んだときにしっかりとした弾力が感じられた。太さも昨日のようにやたら太くもない。昨日とは雲泥の差だ。これだよ、俺の食べたかった讃岐うどんは! 普通に美味い讃岐うどんをやっと食することができた。
 ただ、敢えて否定的な感想も挙げるなら、ちょっとだけコシが弱いようにも感じた。といってもこの辺の微妙な感覚は好みの問題だし、昨日の固すぎる麺の影響でコシが弱いように感じているのかも知れない。あるいは「湯冷め」の麺だったことの影響も考えられる。今度もう一回来てみよう。

私のおすすめの讃岐うどん屋

 つらつらと讃岐うどんについて書いてきたが、最後に私のお薦めの讃岐うどん屋をご紹介しておく。
 それは、阪急千里線・関大前駅の駅前にある「森の石松」という店である。
 一見すると古い建物のその店に入ろうと思ったのは年の離れた従兄弟の紹介による。私が関大に入学したとき、従兄弟が「『森の石松』は大阪で唯一おいしい讃岐うどんを出してくれる」と教えてくれた。河内長野に住む従兄弟は、そのうどんを食べるために夫婦でわざわざ吹田まで車でちょくちょく来ている、とも言っていた。従兄弟の言によると「 トレードマークはおばちゃんみたいな顔をしたおっちゃん」だそうである。
 ただ、この「森の石松」はその日の麺がなくなると店を閉めてしまうそうで、夕方にはもうやっていなかったりする。私はいつも昼頃に足を運んでいた。
 従兄弟がわざわざ河内長野から出てくるだけあって、ここのぶっかけうどんは確かに美味しかった。失礼な話、年季の入った地味な店舗からは想像できなかったが、客がよく入っている。口コミで評判になっているのか、それとも常連なのかは知らない。調べてみたら、 ここここで紹介されていた。「隠れた名店」のようである。
 最近は行かなくなったが、たまにあそこの味を思い出しては禁断症状に陥る。うちから往復で2000円以上かからなければ毎週でも足を運びたいとのだが…。

最後にちょっと後書き

「森の石松」を調べたついでに、大阪麺通団の評価もググってみた。2ちゃんなんかでは結構ボロカスに言われていた。確かに「讃岐うどん大使」を称してグルメテーマパークに出店したんだから、S級の、せめてA級のうどんを出さないとそりゃボロカスにも言われるだろう。店のシステムのわかりにくさも指摘されていた。
 が、一番ボロカスに言われていたのは、やはり店のプロデューサーだった。そりゃ「まっとうな客を育てる」なんて高慢な物言いは批判されて当然ですな。
 固い麺にも文句一つ言わず黙って食って、片づいていない返却口からトレイを下げて、レジにいたおっちゃんに「ごちそうさま」と声までかけた私は、少しは「まっとうな客」になれたのだろうか。いや、自惚れてはいけない。「勘違いするな!」と高慢なプロデューサー氏に叱られかねないからだ。

…人間、思い上がってはいけない。つくづくそう思った。
(了)

《追記》
 2004年10月31日に我が家の夕食は鍋だったのだが、そのときに鍋の後に入れたカトキチの冷凍さぬきうどんは、大阪麺通団の讃岐うどんよりもずっと美味しいと感じたことを書き添えておく。
 (2004.11.03)

posted by だっしー at 12:49| 大阪 ????| Comment(10) | TrackBack(0) | 著名人批判 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年10月26日

ダメなもの「かっちゃんプロデュースの讃岐うどん」(1)

《お知らせ》
 ひょんな事からブログをいじくる各種技術を知ってしまい、ブログペットの導入に始まり、ブログ内検索の設置、各種表示の折りたたみ、コメントのツリー表示に引用部分の強調などを一気にやってしまいました。読みやすくなった、あるいは元の方が良かったなど、ご意見をお聞かせいただけると有り難いです。

 ブログペットにこうさぎを選んだのは、昔「チャッピー」という白いうさぎを飼っていたことがあったからです。チャッピーは私が小学四年生のある朝、いなくなっていました。血痕が少し残っていましたが、チャッピーの姿は死骸さえもありませんでした。野犬か野良猫かイタチか、犯人は未だわかりません。その日一日泣きじゃくったのを覚えています(今の私を知る人には恐らく信じてもらえないでしょう)。
 なお、こうさぎについてはこちらを参照して下さい。クリックすると何やらしゃべり、あと、週に一回何やら投稿するそうです。訳のわからないものばかりになることが予想されますので片っ端から手直し(あるいは削除)するかも知れません。

 コメントやトラックバックを折りたためるようにしました。すっきり片づいたでしょうか? 横にある「+」「??」の記号で展開、格納ができます。

 お知らせは以上です。以下は本文。


 讃岐うどんブームが来てしばらくになる。セルフうどんの店はうちの最寄り駅にまで出来た。
 私は讃岐うどんがけっこう好きだ。普通のうどんが嫌いなわけではないが、どっちかというと固めの麺の方が好みではある。普段からうどんより蕎麦を選ぶし、インスタントのカップうどんのあの変な固さが妙に好きだったりもする。
 ただ、セルフの店はほとんど行ったことがない。讃岐うどんブームが外出の機会の減った大学四年の頃とちょうど重なったからだと思う。端的に流行に乗り遅れただけなのかも知れない。

 去年の冬だったか、彼女と難波にある「うどん大王」というセルフの讃岐うどん屋に入ったことがある。店が出来たのを知った私がどうしても食べたくなって(「夜中にいなり寿司をどうしても食べたくなる」型発作だと思う)、天王寺から歩いて食べにいったのを覚えている。味はまあまあだった。吉本興業がプロデュースしてるらしいが、普通のクオリティだったと思う。

 と言っても、私は元来食い物をあまり不味いと思わない質で「美味しくない」と思うことはあっても基本的に食べ物はほとんど残さず食べてしまう(そして後で太る)。だから、かなり甘い採点基準だということを前提としてご理解頂きたい。

* ちなみに、そんな私が本気で、死ぬほど不味いと思ったものに、阪神百貨店梅田店の地下にある揚げ物屋の串カツが挙げられる。5,6年前に「誠のサイキック青年団」というラジオ番組で絶叫するほど不味い(実際に食べて絶叫していた)のを聴いて買いに行ったが、これは本当に不味かった。今は残念ながら(?)普通に美味しくなってしまったようだが、あれは人生ワースト3の味だった。

 話を元に戻す
 大阪球場の跡地になんばパークスが出来たときに「浪花麺だらけ」という麺類のフードテーマパークがあることは知っていた。なんばパークスのオープンからしばらく後に、友人と足を運んだこともある(休日で人がうじゃうじゃいたのにうんざりしてそのときは食べなかった)。
 そこに入っている大阪麺通団という讃岐うどん屋を勝谷誠彦がプロデュースしていると知ったのはだいぶ後になってからだ。
 この勝谷誠彦という人、ご存じない方にごくごくかいつまんで説明しておく。一口に言って、床屋政談的な右寄りの発言を罵詈雑言でパッケージしたような物言いが特徴のコラムニストである(私の評価が正しいかどうかは、勝谷の日記『勝谷誠彦の××な日々』でご確認頂きたい)。テレビでは日テレの「ザ!情報ツウ」でコメンテイターとして出ていたのを見た記憶がある(大阪朝日放送「ムーブ!」の火曜日コメンテイターとしても出演中だそうである)。東京だとテレビ朝日の「やじうまプラス」で水曜の朝から大谷昭宏と二人でくだを巻いているそうだ。黒い服に身を包んだ角刈りサングラスという、どっからどうみても与太者かヤクザにしか見えない勝谷の風貌は一見の価値があるかも知れないので記しておく。
 右寄りチックなことを言ってるので2ちゃんで「エセ右翼」などと罵倒(あるいはネタ)にされていた勝谷が、ある時うどん屋をプロデュースする、「本当のうまいうどん」を提供するなどということをご自分の日記で豪語していた。

* ちなみに、この発言に合わせて、2ちゃんねるで「文章も書けるうどん屋」と揶揄されていたことを付記しておく(『うどん屋かっちゃん電脳補完録』というサイトまで出来ていた。ここでは勝谷の無茶苦茶な罵詈雑言集が網羅されているので、興味があればどうぞ)。

 このうどん屋プロデュースについては後日談がある。開店当日のことについて、客を「ババア」などとこれでもかとばかりに罵倒し、「まっとうな客を育てるのも麺通団の仕事」ととんでも無いことを日記で豪語していた。この発言に対してはこのような「まっとうな」批判が呈された。
 それにしても、讃岐うどん大使を称した上に、

ここまで食べ物を不愉快そうに食う人種を私は見たことがない
 (勝谷・前掲日記)

という自信満々の勝谷と、

「食べ物を不愉快そうに食う人種を私は見たことがない。」と彼は自らのネット日記にてこう記している。でも、少なくともあの時点のあのうどんを食べたら、私だって不愉快そうな顔して食べたでしょうね。絶対。
 (山田・前掲記事)

と真っ向からそれを批判する山田。「うまい讃岐うどんが食いたい」という当初の目的はすっかりどこやら、いつの間にかどっちの言い分が真実かを確かめるために私はなんばパークスへ足を運んでいた。
(この項つづく)

《関連記事》
・ダメなもの「かっちゃんプロデュースの讃岐うどん」(1)
ダメなもの「かっちゃんプロデュースの讃岐うどん」(2)
ダメなもの「かっちゃんプロデュースのうどん屋」(その後)

《リンク先》
・『BlogPet
・「誠のサイキック青年団
・『なんばパークス
・「ザ!情報ツウ」(日本テレビ)
・「ムーブ!」(大阪朝日放送)
・「やじうまプラス」(テレビ朝日)
・『うどん屋かっちゃん電脳補完録
・勝谷誠彦「石の人もとい意志の人田尾教授決死の現場復帰!
   『勝谷誠彦の××な日々。
・山田六郎「旨い話ばかりじゃない!第 17回 悪宣伝
   『妄想観念論日記

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2004年10月12日

ダメなもの「中曽根康弘」

 2004年10月10日の朝11時頃、自宅のリビングに行ったとき、たまたまテレビ朝日「サンデープロジェクト」を少しだけ観た。そこでは田原総一郎が中曽根康弘にインタビューしていた。大物政治家の前では、焚きつけるようなことを言っても基本的には下手に出てヨイショに終始するという、いつもの田原総一郎がみられた。
 ちなみに、田原は自分をジャーナリストと呼称しているようだが、それは間違いである。少なくとも「サンプロ」での田原の仕事は、政治家を焚きつけるか、叱りつけるか、あるいは不用意な発言を引き出すかの三つでほぼ説明がつく。これはジャーナリズムではなく 政治ゴロの仕業だと私は思うのだが、いかがだろうか。

 田原は本題ではないので措く。私が観たとき、中曽根は靖國参拝について「A級戦犯が合祀されているから天皇も参拝できなくなっている」などと述べていた。一方で、「A級戦犯とは東京裁判という戦勝国が勝手にやった裁判」などとも言っている。
 東京裁判が戦勝国の勝手な復讐劇だとするなら、その判決に基づくA級戦犯という概念を以て天皇が参拝できなくなっていると言うのは背理ではないか。田原も隣でうんうん唸っていたが、気づかなかったのだろうか。
 それにしてもA級戦犯も遺族年金が受けられるようになった決議には中曽根も一票を投じているはずだし、その決議によって戦犯の刑死者が「法務死」として扱われていたことも中曽根は知らなかったのだろうか*。もしそうなら、ずいぶんといい加減な話だ。

* 詳細についてはこちらをご覧いただきたい。

 中曽根は更に無茶苦茶なことを言う。靖國は(A級戦犯の分祀ではなく)分社すべきだとか。そして、靖國神社には英霊を祀っておき、分社した方(=英霊のいない方)に天皇や総理大臣が参拝できるようにすべきというようなことを中曽根は総理大臣時代に言っていたそうである。「ただ、靖國神社の宮司が頑固でねぇ」などとも言っていた。
 この中曽根という人、こと靖國参拝のことについてはどうしようもなくダメである。靖國神社の宮司(六代目宮司・松平永芳のことと思われる)が反対したのも当然である。戦死した英霊と違うところに参拝することにいったい何の意味があるというのだ。「風見鶏」と言われた中曽根ならではのアイデアと言えるかもしれない。
 色々気になったので、坪内祐三の『靖國』の「文庫版『靖國』の「あとがき」に代えて」を読んでみた(ちなみに、この「靖國」はお薦めである。あとがきだけでも是非お読み頂きたい)。改めて現在の中曽根が、当時のスタンドプレー好きの風見鶏であった頃と何一つ変わっていないことと、あと、番組中で言っていた「A級戦犯合祀を知らなかった(中曽根が参拝したときにわかったから天皇も総理大臣も靖國参拝できなくなった)」という内容の発言も嘘っぱちであることがわかった。

 また、中曽根は靖國問題は中国と話し合って妥協点を見つけるべきなどとも発言していた。日本国内の祭祀の問題について、なぜ中国に妥協しなければならないのか。ダメなもの「やえ十四歳の小泉首相靖國参拝への評価」の回でも述べたので詳しくは繰り返さないが、もめ事は全て互いの意見を足して二で割れば正しい答えが出るわけではない。風見鶏式で妥協案を出すのは揉め事を解決するのには良いのだろう。ただ、物事にはたとえ大揉めに揉めようとも絶対妥協してはいけないものだってあるのだ。

 結局、中曽根は当時も今も、英霊の御霊なんてこれっぽっちも信じちゃいないのだ。ばかりでなく、英霊を安んずる遺族を初めとする国民の気持ちすらわかっちゃいないのだ。少なくとも中曽根には日本の文化・伝統・精神性を守る意味での「保守」を名乗る資格はない。
(了)

《関連記事》
ダメなもの「やえ十四歳の小泉首相靖國参拝への評価」

《参考文献》
・坪内祐三の『靖國』(新潮文庫)

《リンク先》
・大原康男「靖国神社参拝と“A級戦犯”の合祀
   『日本会議

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2004年10月01日

ダメなもの「田嶋陽子」(1)

 中山参与辞任のニュースがあちこちで取り沙汰されている。女性の政治家で一番評価していたのがこの中山参与だっただけに、今回の人事が残念でならない。
 失礼ながら、初めて見たときには、柔らかな物腰と上品な物言いで「大丈夫かいな、この人? 相手は極悪非道の犯罪国家だよ」などと思ったりもした。しかし、私のそんな安っぽい見立ては見事に外れた。中山参与は対北朝鮮外交において官邸内でも強硬路線を貫き、「タフ・ネゴシエーター」とまで呼ばれた芯の強い女性だった。拉致被害者からも絶大な信頼を寄せられていた。
 そう言う意味では小池百合子環境相(呼称、これで合ってるかな?)なども好感が持てる。
 一方、(はっきり言って比較に出すのも両者に失礼なのだが)女性の(元)政治家・有識者(?)で全く評価していないのが田嶋陽子辻元清美である。
 では、両者の違いは何なのか。もちろん、主張や発言の論理性・説得力もあるだろう。が、どちらかというと「品性の欠如」という面が大きいように思われる。以下、田嶋について少し考えてみたい。

 田嶋はよくテレビに出る。ご存じの方も多いだろうが、そこでの田嶋の発言スタイルは「絶叫」か「恫喝」がほとんどである。VTR放送中はおろか、他人が発言しているときにでも「それ違う!」「あーそれ間違い」「まだそんなこと言ってるの?」などと横やりを入れる。まるで総会屋みたいなのだ。
 きちんと議論が整理されないテレビ番組に出続けたがゆえのテクニックかもしれないが、はっきり言って、視聴者には悪い印象しか与えない。少なくとも女性差別をしている男の側には全く説得的に聞こえない。むしろ、「これだから女はダメなのだ」の証明にすらなっている。この点、自分の主張が受け入れら無くても金切り声を挙げたりせず、ねばり強く事に当たり結果を確実につかむ中山参与とは対照的である。

 田嶋は男女差別を語るときに、よく「男の子は子供の頃から外で遊べ、行儀が悪くても叱られない。それに比べて女の子は子供の頃からおままごとをさせられ、行儀のことを厳しく言われる」というようなことを発言している。また、昔ある番組で田嶋がジェンダー(社会的な性差)フリーを訴えているときに、ジェンダーをまとめたフリップを出しているシーンがあった。そこには、男の良い面として「活発・積極的・元気」などが、悪い面としては「粗野・乱暴・下品」などが挙げられていた。一方、女の良い面としては「従順・おしとやか」などが挙げられていた(悪い面も何か挙げていたが忘れてしまった)。田嶋はそれを示して「男は積極的なのが評価され、女は受動的な態度が評価される。こういった男女の差は押しつけだ。取り払わねばならない」と発言していた。

 まずそのフリップにまとめた項目の恣意性に驚かされた。自分の主張に合うようにフリップをまとめただけではないか。自説の論証過程にアカデミズム的な手法は全くない。あるのは運動家がよくやるデマゴギーとアジテーションだけである。仮にも元法政大学の教授で、十年以上もフェミニズムを専門に研究していたのではなかったのか。こういうところを見るにつけ、田嶋がアファーマティブ・アクション*の典型のように思えてならない。

* アファーマティブ・アクション

「アメリカ合衆国で、企業・団体・学校が、人種・出身国・性別等を理由とする雇用・教育上の差別を行わないだけでなく、差別を受けてきた黒人(アフリカ系アメリカ人)等の少数民族や女性の社会的地位の向上のために雇用・教育に関わる積極的な優遇措置をとること、または連邦政府の施策や法廷の命令により、企業等に対してそのような措置を義務づけることを指す。…」
 (平岡公一『福祉社会事典』pp.15-16,弘文堂,1999年)

 要は積極的差別解消のために優遇措置をとる(例えば入試などで優先枠を設ける)こと。

 ちなみに、アファーマティブ・アクションについては、白人の一部に対する逆差別ではないか、など問題点も指摘されている。

 ここでは、田嶋が法政大学教授だったのは、大学側が「うちは男女平等にやってますよ」というのをアピールするために、学者・教授としての能力もないのに「女だから」という理由で(すごい逆差別!)教授に据えられたのではないか、という事を揶揄したわけです。念のため。

 また、男女差について、田嶋自らは取り払っている(言うだけのことを実践しているのはさすがと言うべきか)。が、問題はその「取り払い方」だ。先に述べた田嶋の恫喝的な物言いや粗野な振る舞いは、男の悪い面そのままである。男女間の壁を取り払い、女性が積極的になっても構わないし、従順でおとなしい男性が増えても良いと思う。しかし、男女の壁を取り払うのが、田嶋のような男の悪い面だけを取り込んだろくでなしを増やすだけなら絶対に認められないし、世間の共感も得られないだろう。

 私は田嶋を差別する。それは「女性」だからではない。物言いや振る舞いが「下品」で「粗野」だからだ。
(この項つづく)

《関連記事》
・ダメなもの「田嶋陽子」(1)
ダメなもの「夫婦別姓」(1)
ダメなもの「夫婦別姓」(2)
お説ごもっとも! だって証拠の貴女が言うんだもの。

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2004年09月29日

ダメなもの「小林よしのりのネット批判」

 私は、基本的には小林よしのりという人が嫌いではない。
「ゴーマニズム宣言」ハマりきっていた十代の頃は、客観的に見れば「小林信者」(コヴァ?)だったのかもしれない。というか、おそらくそうだっただろう。現在はそんなかつての自分も含め、冷静に小林の主張も見られるようになったと思う。
 小林の現在のスタンスや私の小林に対する評価などは別の機会に譲るとして、今回批判するのは、小林のネット観である。

小林のネットに対する無理解と偏見

 小林はネットに対して非常に強い悪意を持っている。確かに、小林の言うように「2ちゃんねる」などでは小林のことをボロカスに言う書き込みも山ほどあるし、匿名性を隠れ蓑にかつての「噂の真相」と変わらぬ品性の欠如した書き込みもたくさんあるのは事実だろう。そういった書き込みなどに対して小林が怒りを覚えたり、卑怯だと思ったりすることは理解できる。
 しかし、それだけが「2ちゃんねる」なわけではないし、「2ちゃんねる」だけがネットなわけではない。「2ちゃんねる」の中にもリテラシーは育成されているし、ある種の自浄作用が働いているところもある。
 それに、重要なのは「2ちゃんねる」やネットには報道が無視するような情報もどんどん出てくると言うことである。日韓友好の「美名」の下、韓国の都合の悪い事件は全く報道しない日本のマスメディアだが、ネットでは玄界灘漁船「第18光洋丸」沈没事件と水産庁取締船「からしま」衝突事件などを取り上げている。そしてそれはリンクされどんどん広がってゆく。こういったネットのプラスの側面を評価しないのは片手落ちである。知らないのなら仕方ないが、知ってて黙殺しているのならそれは偏見以外の何ものでもない。
 そもそも、物事には功罪両方あるのが普通である。純粋な「悪」なんてそうそうお目にかかれるものではない。なのに、広い「2ちゃんねる」の世界や、それより広いネットの世界を「便所の落書き」と一蹴するのはあまりに乱暴である。

小林の主張を「2ちゃんねる」が実践した例

 かつて小林は薬害エイズの運動の時に、厚生省の食堂に学生が押しかけて役人の飯を先に食ってしまえ、というアイデアを出し「運動に必要なのはユーモアだ!」と主張していた。
 この「ユーモアによる運動」は薬害エイズの運動では実践されなかったが、別のところで実現している。それは2ちゃんねらーたちが行った「湘南ゴミ拾いOFF」である。
 詳細はまとめサイトをご覧いただきたいが、簡単に紹介しておく。
 2002年サッカーW杯における日本の報道は韓国びいき一辺倒だった。三位決定戦(トルコ対韓国)を放送したフジテレビは、韓国の四位の表彰式の後、トルコの三位決定戦を流さずスタジオに返し「いやー素晴らしい闘いでした」などと出演者の韓国の健闘をたたえるコメントを流した。
「2ちゃんねる」をはじめとするネットでは、以前からこのマスメディアの韓国びいきに批判の声が渦巻いていた。そのときにある人が言った「フジテレビが今度やる27時間テレビの企画『湘南のゴミ拾い』を、先にゴミ拾いしてつぶしてしまおう」という発言が発端で、ゴミ拾いオフが実現した。「合法・偽善・皮肉」を合言葉に、フジテレビの報道姿勢に怒りを覚えた2ちゃんねらーたちがどんどん集結し、黙々と江ノ島海岸のゴミを拾っていった。それにより浜辺はゴミ一つ無いきれいな姿を取り戻し、フジテレビは「地元のライフセーバーががんばってくれた」と嘘と恥の上塗りをする羽目に陥った。
 これは(小林にとっては皮肉なことに)小林が主張した「ユーモアによる運動」に他ならない。

ネットで匿名で言論をする者としての矜持

 最後に、小林のネット上で言論をする者に対する批判(罵声?)に対し、批判を加えておく。
 小林が編集長を務める『わしズム vol.12』の158頁にはこうある。

 ネットで言論しているつもりの馬鹿どもがいる。

 最近、保守系の言論誌が、これを自分の読者に取り込もうと卑しい商売をしている。

 ネットで「匿名」で、言いたい放題のやつらは、「他人」の視線も「世間」の視線も気にならない。

 日本的な「恥」の文化の枠外にいる。

 神に対して後ろめたいと思う西洋的な「罪」の文化の枠にも入らない。

「恥」も「罪」も感じない。

 いっさい良心の呵責を感じない。

 つまり「道徳」からも「倫理」からも自由な空間で言説を弄んでいるのが「匿名」のネット保守である。

 そこが今、たまたま「保守系言論おたく」に席巻されているからといって、商売のために、ネット言論まで持ち上げる言論人・知識人たちの節操のなさは、まさに「恥知らず」以外の何ものでもない。

 ネットに対する無理解と偏見については繰り返さない。ただ、「ネットで言論しているつもりの」者として反論しておく。
 ネットで言論をするアマチュアの中にも、自分の中に覚悟と責任を持って意見を発表している者だっている。不肖私もその一人のつもりである。
 アマチュアとプロの「差」自体を否定するつもりはない。やはり、プロと違ってアマチュアは覚悟を背負いきれない部分もあるし、責任の取り方にも差が出てくるのは否めない。だから私も含め、匿名で意見を発表する者もたくさんいるのが現実だ。所詮アマチュアと見下されても構わない。
 が、だからといって一切の責任を放棄し、言いたい放題言うだけなどという無責任な態度を取るつもりはないし、そんな事を言われる筋合いもない。意見を発表することは必然的に「他人」の視線(評価)を気にすることになるし、少なくとも私は、自分の意見を発表することに羞恥心を抱いている(知り合いも見てるので特にそれは強く思われる)。また、他人を批判する上で、それがいかに真っ当な内容であろうと、人を批判することは多かれ少なかれ人を傷つけるだろうことの覚悟(「罪」の意識)だって持っている。
 私以外にもアマチュアながら自分の言論に自分なりの責任を持っている人だってたくさんいる。それを小林に「『罪』も『恥』も感じない」と決め打ちされる筋合いはまったくない。

 小林のこのネットに対する偏見も仕方ないのかもしれない。小林は岡田斗司夫『ぼくたちの洗脳社会』の解説を書いているが、岡田が同書で披瀝したネット社会の価値観が全く理解できなかったことを告白しているからである。
 小林は、ネットを批判する前に、ネットの実態と全貌を正しく知ることから始めるべきである。
(了)

《参考文献》
・小林よしのり責任編集長『わしズム vol.12』(幻冬舎)
・岡田斗司夫『ぼくたちの洗脳社会』(朝日文庫)

《リンク先》
・『2ちゃんねる
・『玄界灘漁船「第18光洋丸」沈没事件と水産庁取締船「からしま」衝突事件とは?
・『湘南ゴミ拾いオフのまとめページ

《トラックバック送信先》
・がんこ「小林よしのりさんと唯幻論
   『唯幻論

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2004年09月28日

ダメなもの「福島瑞穂」

 福島瑞穂は本当にひどいと思う。この人が日本の政治に関わっていることは百害あって一利なしである。根拠のない妄想に浸って国策を誤らされてはたまらない。しかもその上論理的思考もできていない。今回はそのことを検証する。

憲法九条について

 まず、憲法九条についてである。福島の著書に『「憲法大好き」宣言』(佐高信との共著・社会思想社)という本がある。その中で、以下のようなことを述べている部分がある。手元にないので大意になってしまうが、ご紹介する。

 自衛隊を設置し、海外派兵をし、九条二項をさんざん破っておいて「現実に合わない」とするのはおかしい。九条に合わない現実を作ったのは自分たちではないか。

 これは論理的な反論としては一応成立している。確かに、自分で自分で法律をさんざん破っておいて「法の方が間違っている」というのは、「悪法も法である」とする限り、許し難い違法行為であり、盗人猛々しい、という批判には正当性が認められる。
 しかし、これは九条の内容が疑いもなく守るべきものである場合に限る。改正論者が盛んに言う「現実に合わない」というのは、憲法が前文で想定していた「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼」できるような国際情勢ではない、ということである。その場合、九条と十三条(国民の包括的人権の保障)とどちらが優先するのか。
 両者が抵触している事態はすでに起きている。現に北朝鮮によって幾多の日本人が拉致され人権侵害の限りを尽くされているではないか。九条を守るためなら拉致にも侵略にも黙って耐えろ、九条の崇高な理念のために日本国民は死ねと言うのだろうか。少なくとも、「九条の」護憲派の論理的帰結はそうならざるを得ないし、そうなる以上、それを言明しないのは欺瞞である。国民に痛みを強いているのは何も小泉首相だけではない。
 国家の第一の使命は国民の生命・財産を保護することにあり、九条もその範囲で制約を受けざるを得ないと解するのがもっとも自然な体系的思考であるし、多数説である。従って、福島は九条を金科玉条のごとく扱っているが、それ自体がこの体系的な見地からは否定されることになり、それを前提にして成立している福島の前記主張も前提段階から否定されることになる。

夫婦別姓論について

 福島は、夫婦別姓についても強力に推進している。『結婚と家族』(岩波新書)では以下のように述べている。これも大意のみの紹介となるがご了承頂きたい。

 民法上は夫か妻のどちらかに姓を統一することになっているが、事実上90%以上は夫の姓に統一しているので、その選択が行われているとは思えない。だから、法改正により夫婦別姓も認めるべきだ。

 夫婦別姓に対する反論は宮崎哲弥・八木秀次『夫婦別姓大論破!』か宮崎哲弥『正義の見方』が詳しいのでそちらを参照願いたい。ここでは福島の主張について簡単に反駁を加えるにとどめておく。

 福島の言っているのは法制度の問題ではない、ということである。民法は「姓を合わせなければならい」と規定しているだけで、夫の姓に妻が合わせろなどとは一切規定していない。事実上90%以上の夫婦が男性の姓に合わせるのは、あくまで慣習の問題であり、慣習を少しづつ変えてゆくのが筋である。
 これは死刑廃止論者にも言えることだが、ある現状につき多数が肯定しているにも拘わらず法を改正して新たな状態を作り上げ、「そういう制度になったから」ということで世論を自分たちの方に誘導するのは民主主義ではない。広く一般国民を説得しようとせず、国会という狭い範囲内で持論を押し通そうとするが福島の言う民主主義なのか。

前二者の論理的矛盾

 もうお気づきかもしれないが、福島の憲法九条と夫婦別姓での論理の構築はまったく逆である。憲法九条の議論では既成事実の積み上げで事後的に世論を納得させるようなことはしてはならない、と言いながら、一方夫婦別姓論では先に別姓制度を法制化して国民の意識を変えようとしている。普通どっちかを引っ込めるだろう。
 これが示しているのは福島の根本的な論理的思考の欠如である。何かの論点につきパッチワーク的に理由をくっつけるから全体としての論理構築の整合性が狂ってくるのである。一方で自分が否定する論法を他で用いるのは正義原則(言論行為)の問題であり、内容以前の問題である。

 司法試験に合格した法曹であり、同時に落ちぶれたとはいえ日本でも有名な政党の党首が、このようなお粗末な思考しかできていないことは悲しい限りである。
(了)

《参考文献》
・佐高信・福島瑞穂『「憲法大好き」宣言』(社会思想社)
・福島瑞穂『結婚と家族』(岩波新書)
・宮崎哲弥・八木秀次『夫婦別姓大論破!』(洋泉社)
・宮崎哲弥『正義の見方』(新潮Oh!文庫)

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2004年09月18日

ダメなもの「博愛主義」(2)

 前回の続きである。

 まず、博愛の定義をもう一度おさらいしておこう。

 個人的利己心、人種的偏見、国家的利益、宗教的またはイデオロギー的党派性を捨てて人類全体の福祉増進のために、全人類はすべて平等に相愛すべきものであるとする主義。
 (広辞苑第四版より)

 個人がこれを実践している分には問題ない。自分自身も恋人も友人も知らない人も極悪人も等しく愛したいなら勝手にやればいい。私には到底出来そうにもないが。

 しかし、それが主義(もしくは原理。principle)化すると、途端にこれはイデオロギー化、あるいは宗教化する。そうなると、他人に多かれ少なかれ強制することになる。再三批判している死刑廃止論の当然視とその押しつけもそれだ。
 そしてこれは、旧来の宗教・イデオロギーの教義そのものであると言える。「博愛主義」という教義を全人類が信奉すれば幸せになれる、というこの思考パターンが旧来の宗教・イデオロギーの物言いから一歩も出ていないのは火を見るよりも明らかだ。
 そりゃ、全人類が他人を等しく相愛すれば争いはなくなるだろう。しかし、これは博愛主義という名の全体主義を夢見ているに過ぎない。

 元々が多分に夢見がちで胡散臭い「博愛主義」を基盤としているから、その上に乗っている国家解体論も当然説得力のないものになる。もう書いてるこっちも食傷気味なので(おそらく読者もそうだろう)枝葉まで一々批判しない。よって後は簡潔に。

 ダバディーはさかんに「国家」を否定し、地球市民的なことを志向している。それはナショナリズムやショービニズムにうんざりしているからだろうか。
 しかし、だからといって偏狭なナショナリズムやショービニズムを否定するために「国家」まで否定するのは本末転倒である。偏狭なナショナリズムやショービニズムが嫌なら、それに陥らないようにし、自己の帰属する共同体を素直に誇れる健全な「愛国心」を培う手段を考える方がよっぽど現実的かつ経済的である。
 ダバディーの国家解体論は、産湯を捨てて赤子まで流すようなものである。

 今週の半分以上をダバディー批判につぎ込んできたが、率直な感想を最後に述べたい。
「議論のベースとなる教養(国家や文化、アイデンティティなど)をすっ飛ばしたユートピア思想(妄想?)を批判するのってこんなにしんどいとは…もー嫌!」
(了)

《関連記事》
ダメなもの「死刑廃止論者1 フローラン・ダバディ」(1)
ダメなもの「死刑廃止論者1 フローラン・ダバディ」(2)
ダメなもの「博愛主義」(1)
・ダメなもの「博愛主義」(2)

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2004年09月17日

ダメなもの「博愛主義」(1)

 大幅にアップが遅れて申し訳ありません。このところ、忙しかったもので。

 またフローラン・ダバディー関連です。
 以下は「FLORENT DABADIE BLOG」の2004年8月14日分「Chauvinism」に対する批判を念頭に置いた文章です。


 前回のコメントでおとこのおばさん様にご紹介頂いた、ダバディーのブログを読んでみた。ジダンのフランス代表引退については興味がないから触れないが、やっぱりここでも出てきたのが「博愛主義」だった。
 彼自身も認めるとおり、彼の思想の根本には「博愛主義」という考え方がある。私はこの「博愛主義」が胡散臭く思えてならない。

 そもそも博愛主義とは何か。ダバディーが広辞苑を引けと仰るのでまずはそれに従おう。

 個人的利己心、人種的偏見、国家的利益、宗教的またはイデオロギー的党派性を捨てて人類全体の福祉増進のために、全人類はすべて平等に相愛すべきものであるとする主義。
 (広辞苑第四版より)

 そしてダバディーはこう続ける。

 そして僕の哲学のすべては「この地球の人間、そして人間の文明の発展と文化を守るのは我々の使命と人生の目標だ」と。

 それを果たすには「国家」は関係ない。地球の文化遺産を守ればいい。私は日本文化を愛し、あなたフランスの文化を守れ!というメッセージ。

 とりあえず「アナルキー」の意味がわからない。広辞苑にも載っていなかった。肛門に鍵でも刺すことだろうか(またホモネタを言ってしまった。反省)。浅学非才の私に、どなたかご教示願いたい。

 与太は措くとして、私がこれを読んで思ったのは、ダバディーは文化というものが抱えるジレンマを全くわかってないのではないか、ということである。
 いちいち文化史の講義をしている余裕も熱意もないのでかいつまんで言うが、「文化遺産を守れ」というが、その文化遺産とはそもそも何なのか。ユネスコなんかがやたら最近登録している建築物や自然だけが文化遺産ではない。生活様式、言語、宗教、価値観、思考パターン、職人芸などといったものも文化なのだ(むしろこちら方が文化の本質であるとさえ言える)。そして、互いの文化を守り合い、これらをお互いに尊重する考え方が「文化相対主義」である。

 自分の文化を守り、相手の文化互いに尊重し合うと言うことは、ダバディーが考えているほど簡単なものではない。どこの文化に属する民族も自文化を肯定し、それでもって他文化を否定する傾向があるからだ。
 例えば、(特に欧米系の)動物愛護団体などは、「鯨は賢い」「犬は食べ物じゃない」といって日本の捕鯨文化や韓国の犬食文化を野蛮視して禁止しようとする。これは動物愛護団体の価値観(「鯨や犬は食べない」という文化)の押しつけ以外の何者でもない。
 そして、これはダバディーの否定する死刑制度についても同様だ。我々日本人だけに限られない多くの文化圏では、応報感情・処罰感情を重要視する価値観(文化)を有している。ダバディーの唱える「文化を守るの」が「我々の使命と人生の目標だ」に従えば、私は死刑制度・応報感情という価値観・考え方を文化として守る、ということになる。

 では、ダバディーはその死刑制度について考えているのか。ダバディーはこう言っている

 死刑問題を考える角度としては各国の文化、歴史は関係ないと思います。そういうふうに自分の国の文化、背景を踏まえたうえで結論を出すのは一種のナショナリズムだと思うんです。

 今の国際社会で求められるのは、国籍、国家、国境は関係ないと理解したうえで、この惑星、地球に生きる人間の人権というか、生きてゆくルールを考えてゆくことですよね。

日本人だろうが、アメリカ人だろうが、フランス人だろうが、人間として考えたところで死刑ってどうなんだろうって。

 一方で文化を尊重しろと言いながら、他方で文化や歴史は関係ないと捨象する。これは、ダバディーが文化という物の本質(尊重すべき多様な「文化」の構成要素には、言語や宗教、価値観などが分かちがたく結合している、ということ)を理解していないことの証明か、あるいは自分の都合の良いように文化を理解するダブルスタンダードの証明の、どちらかである。無知か欺瞞か、あるいはその両方か、それは知らないしどうでもいい。ダバディーのスタンスのおかしさがわかれば十分だからだ。

 私は別に文化相対主義だけが正しくて、他文化に対しては一切交流したり影響を与えたりしてはいけない、などと教条主義的に言うつもりはない。異文化間で相互に影響を与え合い、理解し合うことの大切さも十分わかるし、積極的な介入も時には許されると考えている。何でも相対化するなら、北朝鮮のような国家体制まで尊重しなければならなくなるからだ。

 ちなみに、私は文化相対主義を原則的なスタンスとするが、それと(人権思想などに基づく)相手の文化を否定する「異文化への介入」がどの程度許容されるか、両者のバランスをどう取るか、という方向で考えている。

 しかし、バランスを取るにせよ許されるにせよ、異文化摂取が不可避的に侵略的要素を伴うことについては自覚的でなければならない。形はどうあれ、相手の文化を取り入れて変わることは、相手の文化を受け入れて一部にせよ自文化(つまり自分の価値観や考え方)を否定することに他ならず、文化を大事にすべきだと言うのであるなら、その文化の改変には敏感かつ慎重であるべきだからだ。

 結局、ダバディーの文化観というのは非常に浅薄である。自分の都合の良いものばかりを文化として取り上げているに過ぎない。だから死刑制度などの自分に合わないものはそもそも文化の範疇に入れず、「博愛」だの「人間として考える」だので切って捨てるのである。こういうのを一般的に「ご都合主義」というのである。

 文化だけでかなりの量になってしまったので「博愛主義」については次回に述べることにする。
(この項つづく)

《関連記事》
ダメなもの「死刑廃止論者1 フローラン・ダバディ」(1)
ダメなもの「死刑廃止論者1 フローラン・ダバディ」(2)
・ダメなもの「博愛主義」(1)
ダメなもの「博愛主義」(2)

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2004年09月16日

ダメなもの「死刑廃止論者1 フローラン・ダバディー」(2)

 前回に引き続き、アムネスティのサイトにあるフローラン・ダバディーのインタビューについて検討する。

 前回日本人について死刑制度についての知識が無いだとか、ディベート能力が劣っているだとか根拠のない決め打ちをしていたダバディーだが、他にも勝手な思いこみはたくさんある。

―日本の法務大臣が「死をもって償うのは日本の文化だ」と発言していますが、それは偏見?

 そうですよね。死刑問題を考える角度としては各国の文化、歴史は関係ないと思います。そういうふうに自分の国の文化、背景を踏まえたうえで結論を出すのは一種のナショナリズムだと思うんです。
 今の国際社会で求められるのは、国籍、国家、国境は関係ないと理解したうえで、この惑星、地球に生きる人間の人権というか、生きてゆくルールを考えてゆくことですよね。
 日本人だろうが、アメリカ人だろうが、フランス人だろうが、人間として考えたところで死刑ってどうなんだろうって。

 この主張を一言で要約するなら、そう「地球市民」である。日本の左翼系市民や人権屋がよく言う台詞と酷似しているが、そんな簡単に世界は一つになるわけがない。
 しかもダバディーは、自分たちのキリスト教文化に基づく死刑廃止論も宗教的ナショナリズムに過ぎないのではないか、ということは露程も疑っていないようだ。その根底にはダバディーの低いディベート能力もあるだろうが、白人以外を人間と見なさず、従って「人間のような生物(=有色人種)」の文化・文明など知るかとばかりに侵略してきた白人の「人間(白人)中心主義」もあるように思われる。

 一番ひどいのはこれだ。

―被害者遺族への支援を考えるときに、「死刑をなくしてなぜ殺人者だけ生かしておくのか」ってよく言われますが、それについては?

(略)  ただ、厳しい言い方かもしれないですけれども、殺人者って殺された家族の人たちと関係ない人なんですよ。全くリンクされてない。単に自分の息子がその人に殺されたからといって、その人との関係ができちゃったとは思わないです。殺人者と被害者の家族は他人。他人に対する権利はゼロです。

「単に自分の息子が殺されたからといって、その人との関係が出来ちゃったとは思わない」と仰るなら、ダバディー氏の嫁や子供を私が惨殺しても、私はダバディーに何ら道義的責任を負わないで良いことになる。何てったって「殺人者と被害者の家族は他人。他人に対する権利はゼロ」なのだから。
 もう真っ正面から議論するのもアホらしくなってきた。

 あとは国の法律があるわけですが、人を殺す権利を保障する法律は成り立たないと思うんです。私は、そこにはディベートの余地はないと思います。

 これはただの思考停止だ。ディベートの余地がないどころか、死刑制度で盛んに議論された一大テーマに「人を殺すな」という法規範と死刑との両立が可能か、というものがある。死刑制度についての知識がないのは一体誰のことだろう。

 今回の結論は、死刑制度云々ではない。おフランスからきた外人だからって中身があるとは限らない、権威主義に気をつけ健全な懐疑主義を持とう、ということだ。アムネスティももう少し人を選んだ方が良いと思う(本気で国民に死刑廃止を説得する気があるならね)。
(了)

《関連記事》
ダメなもの「死刑廃止論者1 フローラン・ダバディ」(1)
・ダメなもの「死刑廃止論者1 フローラン・ダバディ」(2)
ダメなもの「博愛主義」(1)
ダメなもの「博愛主義」(2)

《リンク先》
・「著名人メッセージ・フローラン・ダバディさん
   『死刑廃止info!

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2004年09月15日

ダメなもの「死刑廃止論者1 フローラン・ダバディー」(1)

 前回の日記で二件のトラックバックをいただいた。その一つに『えんすき日記 本家』がある。そちらを拝見したところ、フローラン・ダバディーという人に対する批判が書かれていた。「フローラン・ダバディーって誰?」早速リンク先をたどると、トルシエの元通訳が出てきた。2002年サッカーW杯日本代表の監督だったフィリップ・トルシエの通訳だった人で、ココリコ田中に似たホモっぽい人だ(ボーイズラブの記事を書いてからホモに妙な因縁があるなぁ…)
 アムネスティのHPで死刑廃止に賛同する著名人としてインタビュー記事が掲載されていたが、その内容に驚いた。日本人に対する差別意識がコメントのあちこちににじみ出ていたからだ。今回はそれを検証したい。

 ダバディーは以前、「スマステーション」(テレビ朝日)という番組で死刑問題を扱ったそうである。
 ダバディーを批判する前に、「スマステーション」(スマステ)についてちょっと触れておきたい。これはSMAP香取慎吾をメインパーソナリティに使ったバラエティータッチの情報番組である。最近の若者は何もモノを知らない、という制作側の差別意識の上に作られた番組であり、そういう若者の代表として香取慎吾を起用したのだろう。

 自分で取り上げたい問題を選んでくださいってプロデューサーに言われたんです。この番組は、硬い新聞を読まないような若い世代に、ニュースもおもしろいですよって、関心を持たせるように作られているんです。

「彼らにはそんなに難しい問題を受け入れる包容力がないかもしれない」と言われましたが、私はそれを作らないといけない、と。

 なぜなら、彼らのどこかに知的好奇心があって、受け入れられないはずはないから、彼らの理解力を超える発言になったとしても、ちょっとがんばりたいと思ったんです。

 視聴者をバカにするのも大概にした方がいい。メインパーソナリティの香取慎吾ほどモノを知らない(頭悪い)連中は視聴者の中にもそうはいない、ということを指摘しておく。
 別に啓蒙意識がいかんと言う気は更々無いが、香取慎吾を使って女子供の視聴率を稼ぎ、ついでに微妙に偏向したVTRを見せ、モノを知らない若者に特定意見を刷り込んで誘導していこうとするのは放送法3条に反するのでやめた方が良い。もっともこれは「ニュースステーション」以来のテレ朝のお家芸(もしくは「偏向体質」)だからそう簡単に直せないのかもしれないが。

 ダバディーは盛んに日本人は死刑制度を知らない、ディベート能力が低い、というようなことを言う。

 (略)日本で足りないのはディベートだと思うんです。死刑って何なんですかって。反対・賛成ということの前に、まず、死刑について討論の場を持たないといけないという考え方で。

 (略)知識のないところからそういう問題に入ることは非常に難しいから、まず知識を与える。

 (略)日本でいちばん欠けている