今日、某所のミスタードーナツでのこと。隣の四人がけの席に主婦が四人座っていた。聞き耳を立てていたわけではないが、何やらパソコンがどうたらこうたらと話しているのが聞こえてきた。どうやらパソコンの話をしているようだ。興味がある単語はどうしても耳についてしまう気質らしい。
主婦達は、息子にパソコンを買い与えただの、大学ではノートパソコンでノートを取るようになったから必須になっただのと話していた。知ったような口をきくのは慎まねばならない、と痛感した。
連れが用事を終えて戻ってきた(ちなみにこの連れは当ブログの読者でもある)。隣の主婦達の話はパソコン話から、IT企業のプロ野球参入・買収の話へと展開していく。次第にヒートアップする熱気は「すいませーん、コーヒーおかわり!」という店員を呼ぶ声にも表れている。
楽天の参入話から始まり、ライブドアへの同情、そしてソフトバンクのホークス買収話へと話はとめどなく続いてゆく。巨人を初めとする旧態依然としたプロ野球のオーナー連中に嫌われてはじき出されたライブドアの社長・堀江貴文は悲劇のヒーローで、楽天の社長・三木谷浩史はオーナー連中にうまく取り入った、そしてソフトバンクの孫正義は「えっと、あの人台湾の人やったかな…?」
向かいに座っていた連れが笑いをこらえながら言った。
「なんか、香川美穂を思い出した」
私もつられて笑ってしまった。確かに現在隣で展開されている政談は、日曜版のネタそのまんまだったからだ。
テレビのワイドショーでしか情報を得ないだろう主婦の認識とは所詮この程度なのだろう。とはいえ、IT業界に対して「これからの業種」くらいの素朴なイメージしか抱いていないことに軽いカルチャーショックを覚えた。
正直、IT業界というところの大手はどこもロクなものではない。ソフトバンクの体質については以前にも批判したが、孫正義という人の実態を知れば「先見の明があった偉い起業家」なんてイメージは吹き飛ぶだろう。
隣の政談家たちにはライブドアが被害者のように映ったようで、「プロ野球機構・楽天=強者・悪、ライブドア=弱者・善」といったこの上ないまでにわかりやすい構図で政談を展開していた。確かにプロ野球のオーナー連中はろくでもないし、それに取り入った三木谷社長の一連の動きにも疑問がないわけではない。
しかし、片方が悪ならもう片方は正しいなんて、あまりにわかりやすすぎないか。
ライブドアの堀江社長に対する批判
ライブドアの経営体質だのまでを一々取り上げることはしない。それは当の政談家たちのあずかり知らぬ話だろうし、それを知らなかったことを以て云々するつもりも無いからだ。
ただ、堀江社長が常にTシャツとチノパンでいたことは政談家たちも知っているはずだ。彼女らは堀江社長のあの格好に何も思わなかったのだろうか。
私は、球団買収をすると言った時から、堀江社長のあの格好に不快感を覚えた。今までのIT業界(とくにベンチャーの世界)では、シャツにジーンズといった格好でも許容されたのかも知れない。直接表に出ることもあまり無かっただろうし、それを許容するIT業界という虚業の世界でならあの格好でも別に構わないと思う。
しかし、プロ野球の世界では、というより一般社会という公の場では、あの格好は許容されない。それが常識というものである。堀江の主義主張は知ったことではない。常識を弁えない堀江を非常識であり失礼だと言っているだけである。
これに対しては「服装なんて」と思う人もいるかも知れない。「大事なのは中身であって外見や形式など関係ない」と反論する向きもあるかも知れない。
しかし、それは礼儀における形式というものの重要性を全くわかっていないと言わざるを得ない。
これを説明するために、まずは礼儀というものについて考察する。
「ヤマアラシのジレンマ」(だったと思う)というものをご存じだろうか。ハリネズミのように全身とげだらけのヤマアラシは、互いを暖め合おうと相手に近づこうとすると、互いのとげが互いに刺さってしまう、というジレンマことを言うそうである。
礼儀の例え話としては少しずれたかも知れないが、人間同士が付き合うのもこれと似たような側面がある。近づきすぎると相手の嫌な面なども見えてきて、うっとうしくなったりすることは読者にも思い当たることがあるだろう。
こんな風に、相手に近づきすぎることで互いに不快な思いをしないよう、適正距離を保つものが「礼儀」なのである。特に重要なのは、自分の痛みよりも相手の痛みに思いを致すことにある。
なぜ我々は礼儀を弁えない相手に不快感を覚えるのか。それは、我々が不愉快な気持ちをしている(相手のとげが刺さっている)ことについて相手が思いを致さず、ずかずかと間合いに踏み込んでくることにある。つまり、こちらについて配慮がない、突き詰めて言えば「 自分が無視されている」という部分に不快感を生む本質があると考える。
ではこの「礼儀」と服装という「形式」はどう結びつくのか。
ここで押さえなければならないことは、そもそも我々には他人の内心などわかりっこないということである。
我々は他人の心・考えというものを何によって判断するだろうか。それは、外見や所作、表情や発言の態度、発言の内容などからである。つまり、我々はその人の外部に表出された諸情報を総合的に判断することでしか相手の気持ちを理解(推測)できない。
でも、これではあまりに不便である。こういうときに発達するのが「約束事」つまり「形式」である。記号論については全くの門外漢だが、「約束事」という「形式」に特定の意味を付与し、その組み合わせを共有する(=記号化する)ことで、意思伝達が早くなるわけである。
真面目な話をするときや公の場では服装を整えるというのも、広く社会で共有されているこの「約束事」(=「形式」)のひとつである。つまり、服装とは身を以てその誠意を表す社会の約束事なのである。
では、しかるべき服装をしないことがなぜ失礼なのか。
今までの説明からすると、服装を整えないということは、社会通念上「誠意を示していない」ことを意味するから、ということになる。
逆から考えてみればこれはよりはっきりわかる。「服装は関係ない。誠意は態度で示す」という態度自体、我々に対し「服装では判断するな」という価値観を押しつけている。そもそも誠意や礼というものは相手に対して尽くすものであることを考えると、この態度がいかに横柄なものであるかは説明するまでもないだろう。
要するに、服装を整えないということは、我々が広く有する約束事(社会通念)を無無視しており、配慮がない。これは我々を無視していることに他ならない。だから非礼に当たるのである。
オリックスと近鉄の合併問題のとき、選手たちは会見をするときにスーツを着て服装を正していた。これは、プロ野球界でもこういう問題について話し合うときには服装を正すという(社会一般と同様の)通念があることの証左である。
そこへ、堀江はあの格好で参入しようとしたわけである。これが選手たちに失礼でなくて何だというのだ。選手に対して誠意を示さない堀江の口から「球団を経営する」「ファンの期待に応える」「プロ野球を支える」と言っても私は信用できないし、少なからぬ人々が「誠意が感じられない」「胡散臭い」と感じても当然だと思う。なぜなら、選手同様我々も服装を正すべきと言う社会通念を共有しているのだから。
私の性格上の問題なのか
かなり話がそれてしまった。政談家たちはなおもしゃべる。
こういうことを隣でしゃべられると、私は我慢できなくなる。聞かないようにしようとするが、どうしても気になってしまい、話に割り込んで彼女らの知らない情報を教えたくなる。
またこう言うときに限って話題がなかなか変わらないのだ。気になって気になって仕方がない。もう「イーッ!」となってしまう。
こういうときの対処法は3つしかない。席を立つか、話に割って入るか、それともこちらで別の話題に没頭するかである。私は後者を選択し、それこそ弁士のようにまくし立てた。今考えると、ドラマ「忠臣蔵」で大石内蔵助(松平健)が仇討ちする気がないことをアピールして祇園で遊びまくるときに「マツケンサンバII」を踊るべきだ、というしょうもないことを憑かれたように力説していた己が恥ずかしくてならない。
こういうとき、一体どうすればいいのだろう。妙案があれば是非教えて欲しい。
(了)
《関連記事》
・ダメなもの「livedoorとソフトバンク」(1)
・ダメなもの「livedoorとソフトバンク」(2)
・ダメなもの「政談」
《リンク先》
・『孫のせいで損したのぢゃ 弐号』
・薫友「うさんくさいぞ楽天三木谷社長」
『マリンブルーの風』
posted by だっしー at 10:20| 大阪

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