(前略)
先日行われた信頼できるアンケートによると、国民の61.2%、およそ六割の人が証人喚問の結果に満足しているという結果が出た。
証言を拒否するたび小嶋進氏の頭に金ダライが落ちるという異例の展開に、国民は一応の溜飲を下げた格好だ。
(後略)
(了)
(前略)
先日行われた信頼できるアンケートによると、国民の61.2%、およそ六割の人が証人喚問の結果に満足しているという結果が出た。
証言を拒否するたび小嶋進氏の頭に金ダライが落ちるという異例の展開に、国民は一応の溜飲を下げた格好だ。
(後略)
(了)
私の通っていた小学校では、蛇口をひねるとお茶が出た。
宇治などの小学校では今でもお茶の出るところがあるらしい。
温かいお茶だったので、こんな季節にはずいぶん重宝したような記憶がある。
もっともパイプの掃除をしなかった上に、安くて薄い茶だったようで、いつも鉄の錆びたような味がした。
やがて世に出てから玉露や紅茶や旨い茶はいくらも飲んだけれども、「茶」と聞いて思い出すのがいつも小学校のお茶なのは不思議な様な気がする。
私が大学のゼミに在籍していたころは、ゼミのメンバー同士でそれほど深く付き合うことはなかったように思う。
深く付き合うというのは変な意味ではなくて、単に仲がいいか疎遠かという話をしたいのだが。
授業を受けて、終わったらちょっと茶などすすって、ばらばらに帰っていたような気がする。
周りの同僚に聞いてもほぼ同じようなことを言う。
君子の交わりは水のごとしだよと難しいことを言う同僚も、中にはいた。
一方で、私の弟は、私が在籍した同じ大学に入っているのだが、弟のゼミは仲が良くて、良すぎて私には気味が悪い。
あるとき、私の隣で弟がゼミの掲示板を開いていたので、横目に見てみると、先生の16日までに卒論の概要をまとめて来いとの書き込みがある。
16日は間もなくだったので、「しっかりやってるのか」と聞くと、弟は意味ありげな笑い方をする。
「兄ちゃん、これはな。嘘なんや」と訳の分からぬことを言う。
つまりはこういうことらしい。
その日はゼミの誰だかの誕生日なのだが、普通に祝っても面白くない。
そこで先生ぐるみで、嘘をついて、サプライズパーティーで驚かす予定なのだと言う。
当日、車座に座って、先生がもっともらしく卒論の概要を聞いていく。
しかし言い含められた他の面々は、誰も一言も答えず、うつむいたままでいる。
やがて先生は怒り心頭に発したふりをして、皆を怒鳴りつける。
「なんで黙っとるんや。えぇ、ええ加減にせえよ、なんか言うてみぃ」
それを合図に、皆でにこやかに「Happy birthday.」を歌うのだと弟は自慢げに教えてくれた。
私は、なんて気色の悪いゼミであることかとびっくりしたのだが、どちらが普通なのだろう。
これはまた別の話。
妹が大学受験をするというので、家族総出で初詣に出かけた。
広い境内にお百度を踏む石、というかモニュメントが置いてあったが。
その周りを鬼気迫る顔で百人近くの人がぐるぐると駆け巡っていたので大変驚いた。
お百度ってそういうものだったかしらと思いはしたが、私もマニ車を回しまくったからあまり人のことは言えない。
参拝を終えて帰ってくると人数がますます増えてモニュメントは覆い隠され見えなくなっていた。
雪を蹴立ててぐるぐる回っている。
内の妹は一周だけ回ってとぼとぼと帰ってきた。
彼女はセンター試験で800点中580点取らなきゃいけないのだけれど、さあ、今年はどんな年になるだろうか。
そういえばご本尊のちょっと手前で、教えている塾の生徒にたまたま会ったので、びっくりして、妹の後世ではなく思わず塾生らの合格を祈願してしまった。
彼らが皆合格すれば幸いだけれども、なかなかそうもいかない。
生徒によっては、末期がんの患者に接している看護婦のような心持ちがすることもある。
そうした色んな調整があるせいで一月二月は昨年にも増して忙しい。
本当の師走はこちらだと思うが、だからと言ってどうなるわけでもない。
関係はないが、去年京都の塾講師がアホなことをしたせいで、我が家は随分迷惑を被った。
家族が通っているパソコン教室で、それぞれの産んだ子供の就いている仕事が話題になった。
「息子さんお仕事何をなさってらっしゃるの」
「ええ、二人とも塾の講師です」
「はあ、塾の……」
「二人とも小学校六年生の国語を教えております」
「はあ、……」
てなもんで、周囲が気まずい空気に包まれたらしい。
そういえば国語の授業で、いつか指示語の問題を解かせる機会があったら、間違った生徒を「指示じゃないですか? 指示してるじゃないですか」と責め立ててやろうと私はずっと考えていた。
しかし年が明けてみれば、すっかり古びてしまってもはや使いようがない。
年明けに今昔を思い、日々の流れる早さを思ったという次第である。
(了)
・衆議院選挙に、家族四人雁首揃えて投票しに行った。
私と老いた父親が自民党に入れ、弟と老いた母親が民主党に入れた。
我々は何をしに行ったのか分からなかったが、大阪15区で勝利したのは自民党だった。
その夜はめでたい夜であったが、我が家の食事を宰領するのは母なので、伸びたうどんを皆ですすっていた。
・ちなみに大阪15区で立候補した自民党の人は、駅前の再開発を推進してきた人である。
大阪15区で立候補した民主党の人は、ママチャリの整理をしていきたいという。
このような惨状の下、なにが嬉しくて民主党に入れたのかと母親に聞いてみたところ、
「一度、民主党にも政権を取らせてみたら、日本が良くなると思うのよ」という。
岡田さんのあのCMも効果があるもんだなあと、不思議に感心したものである。
・そういえば国勢調査の書類を、家族が留守のときに届けにきたらしいのだけれど、弟が「間に合っています」と断りやがったというので、我が家では家族会議が開かれた。
責められてしゅんとなった弟は、切羽つまって「宗教の人やと思ったんや」と言い訳をしていた。
そこから政治は信仰とは言えないだろうかというような、迂路に話題を持っていこうとして失敗した弟は、次の日ケンタッキーフライドチキンを買ってきて家族に振舞った。
何週間も休んでいる間、BLOG・PETのチャッピーが、転進に次ぐ転進を重ね、沖縄攻防戦にも似た無謀なホームページ運営を行っているのを、まあいいやと思って見ていた。
チャッピーが何なのか、私はイマイチ理解してないのだけれど、まあ管理人氏が飼ってるだけあって頭が良くて、文字を解するらしい。
しかし所詮は獣であるので、いつまでもこうしてはいられない。
久方ぶりにお目を汚そうかと、キーボードを叩いている次第である。
今日は日曜日、21日だけれど、昨日はつまらぬ用事で徹夜して、今日は休みであったので、昼過ぎまでうつらうつらと悪い眠りを貪っていた。
隣の居間では、家族の者が見ているテレビがやかましい討論番組で、時折耳を刺すような鋭い悲鳴みたいのが聞こえてくる。
そんな夢うつつで耳にだけ聞いた話なので、正確度については期待しないでいただきたい。
討論番組は、後で新聞と照らし合わせたら『たかじん委員会』と書いていた。
『たかじん委員会』の、2005上半期未公開トークという奴で、色んなケンカの具合を流していたらしい。
その中で、多くの中国人を呼び、パネラーと話し合わせるという企画があったようだ。
私が聞いて悲しく思ったのは、その中の一つのやり取りであったはずである。
質問の大要「中国の歴史認識にも歪曲されている場合がある。あなた方中国人も、日本に来ているのだから、ぜひ国際的に認められている歴史、知識を得て帰国してもらいたい」
中国人返答「現在の中国人が教科書だけ見て判断しているわけではありません」
質問「では、何を見ているのか」
中国人返答「インターネットです。インターネットを見れば正しい歴史を書いているホームページがたくさんあります」
細部は全然違うと思うが、大要上のようなやり取りが行われていたはずだ。
中国人の答えを聞いて、いかにも若者らしいと微笑ましくなったと同時に、悲しくなったのは私だけだろうか。
自分の頼るべき、それも“正しさ”が求められる情報を得るのに、インターネットとしか言えない国とは何なのか。
インターネットの情報の方が楽だから、手を抜き一次文献の探索を放棄するようになった我が身の不明を恥じつつ、それと彼らの問題とは、全く質の違うものだと思う。
中国には中国ならではの暮らし方があるだろうことは分かるが、今中国人留学生の見せる様々な表情を見て、私どもは色々なことを考えなければならないのではないかとうつつに考えていた。
ちなみに、中国の伝統として、少なくとも文系の論文は読むのに苦労するものが多く、また玉石混交の度が高い。
彼らの世界では、それまでの研究史を総括すること自体が一本の論文に成り得るし、欧米の研究者の名前に適当な漢字を当ててしまうので一次文献を探し出すのにアホほど手間取る。
欧米だから別にいいやというのではなくて、一般に彼らは引用した文献や先行研究に敬意を払うポーズを取らない。
全てを飲み込んで一つの新たな物を生み出すのだという意識は、少なくとも学術論文の世界では枷としかなっていない。
彼らの伝統をまーたパクリ根性だよと笑うのはたやすいが、そこにある種の魅力があることは確かである。
でもせめて引用したら引用したことぐらい書いててほしいんだけれど。
それとも、最近はマシになったのかな、と、論文書くのにてんぱっていたので愚痴書きながらだらだらとこの稿終わります。
(了)
大阪府大阪市住之江区南港、ポートタウンの何番地に住んでいたかまでは忘れてしまった。
私は小さな頃、海を埋め立てて作られた海上都市で暮らしていた。
バブルが弾けるか弾けないかの頃、皆が狂った馬のように未来に向かって駆け抜けていた、その時分の話である。
ポートタウンは、海の上に建てられていたので、陸地とは数本の道路で結ばれた孤立した土地柄であった。
そのそれぞれに、簡単な検問所というのだろうか、道路を塞ぐバーが要所要所に建てられていて、なんとなく外界から遮断されたような印象を受ける。
太田房江知事が、大阪中之島を封鎖して、国際会議の議場にしようと誘致に懸命であるらしいが、ポートタウンを議場にしてはいかがだろう。
現在のポートタウンには、夢の後、諸行無常なる高層ビルが立ち並び、数百億かそれ以上の赤字を日々生み出している。
以前そこに住んでいたものとしては、そうして悪かったもの、失敗したものの象徴のように言われ続けるのが、私には辛くてならない。
当時この町は、大きく分けて三つの区域に分かれていた。
高層マンションばかりが並んだ住居と、煙突のにょきにょき生えた工場群、そして新たな発展と、後に来る退廃を予感させた広大な工事用の荒れ地である。
三つの地区は混じり合い、絡み合って、ただ進歩、未来都市というだけでない、不思議な時間がそこには流れていた。
たとえば、先ほど触れた検問所のすぐ裏には波型トタンが張り巡らせてあって、裏には野球場がいくつも入るほどの空き地が広がっていた。
私どもは裏手に捨てられていた検問所の備品を使って、検問所と塀を挟んだ対称の位置に秘密基地を作った。
また、近代的な駅の下には工事の失敗で空いた、空洞が広がっていて、ホームレスらの住処となっていた。
幼時、どこかに出かけた帰り、車で走る道路に沿って、幾筋もの街灯のラインが伸びて夢のような景観が望める。
その中にゴジラが立っている。というのが比喩ではない。
誰が何のために作ったものか知らないのだが、道路に沿った荒れ地には、十メートルを優に越えるゴジラが立っていた。
夜になると目に仕込まれたライトが光って、夜景にはものすごい空気が流れる。
私は幼い頃、そういう町に住んでいた。
工場地区が隣接しているので、公害とも無縁ではなかった。
小学校の校庭の、朝礼台に黄色い旗が出ると、光化学スモッグの印で、校庭に出て遊ぶことはできなくなる。
帰るときにも、寄り道をせず、急いで帰らされたものだった。
目の弱い子らは、そのたびに目を真っ赤にはらせていた。
しかし私たちは、それを悪いことだとはつゆ考えていなかった。
私どもにとっては、黄色の旗は、近代ビルが荒れ地に隣接しているのと同じ、隣合った世界の切り替えに過ぎなかったからである。
私は眼鏡の度が強いので、時折偏頭痛に悩まされることがある。
目のよい知り合いが、「目が悪いちゅうのは大変やなあ」と、心配してくれることもある。
だが私は、半ば本気で、ぼやけた視界とクリアな視界、二つの世界を切り替えて生きられないなんて、ほんに目明きはかわいそうにのお、と考えないこともない。
埋め立て地だったから、海は近く、風向きによっては潮のにおいがした。
ブランコの鎖などは皆錆びていた。
しかし当時の大阪湾は汚れていたので、とても泳げる海ではなくて、泳ぐためには人工の海岸に行く他なかった。
社会学習で、大和川の傍に建つパン工場を見学に行った。
湯気のたつ、手のひらほどのパンを食べながら、私たちは大和川の堤防によじ登って川の流れを見おろした。
先生が、「これが日本一汚れとる川や、よう見とけよ」と言ったが、その口調も、公害を見せようという感じではなく、むしろ面白いものを見せてやろうといった様子であった。
無論私たちが、ひどいものとして川を見たはずもない。
私は、公害のニュースを見てもこのように、どこか親しいものとして捉える傾向があるが、それが悪いことなのか、良いことなのか、この歳になっても分からない。
今年の梅雨が明けたあたりからだったか、アスベストの害を云々するニュースが流れて、時によっては新聞の一面を飾ることもあるようだ。
アスベストというと思い出すのが、私の出た高校、懐かしき母校のことである。
管理人氏とお会いしたのもそこである。
歴史の長い高等学校で、校舎は古ぼけて壊れた蛇口も多かった。
入学したその日、校長先生が誇らしげにこう言った。
「君たちは幸運だ。伝統ある校舎で勉強をし、卒業をするときには新しい校舎が見送ってくれる」
老朽化した校舎の、解体作業がすでに始まっていたころである。
結果から言うと、その後すぐに大阪府の財政が悪化して、工事費が滞ったらしい。
私が卒業したその後までも、新校舎の建つ目処はついにつかなかった。
だが繰り返すが、旧い校舎の解体は続けられていたのである。
授業中は、窓を開けないように指導されていた。
校舎を取り壊す際に舞う、色々な悪いものが教室に入り込まないようにであろう。
おそらくアスベストも日の光を浴びて、きらきらと舞っていたことだろう。
解体された校舎の前に、少し狭くなったグラウンドがあった。
体育の授業が始まると、腕立てをして、腹筋をして、グラウンドを何週かして、疲れた私どもは旧校舎の前にふらふらと戻って来る。
体育の先生が、胴間声を張り上げる。
「ほぅら深呼吸ー。 吸ってぇ、はい。 吐いてぇ、はい。 吸って、吐いてぇ、吸って、吐く」
(了)
昭和の六十年代、小学校教育の現場では、「せんせいあのね」という ――日記というか作文というか―― が流行ったのだと思う。
私の通っていた小学校では、「せんせいあのね」という日記帳を作って、毎日、その日あったことを書いては提出していた。
一人一人の駄文に目を通して、添削や感想をくださるのはさぞ大変だったろうと思う。
赤ペンの走り書きが、それでも三行を割ったことはない。
一人三分としても、3分×40人=120分。
先生ってのは、まことえらいものである。
私どもは、その頃は小さかったので、感想がうれしくて毎日熱心にページを埋めた。
一昨々年、引っ越しをした際の整理で、そのときのノートが見つかったので、懐かしくて手元にまとめておいた。
先週は管理人氏に黙って、内緒で、この記事をお休みさせていただいた。
なんとなく忙しいので、今週は、その日記の話をしてお茶を濁すというか、義理を果たそうと思うのである。
私はここ数年来、塾の講師をしていて、作文の添削などをする機会が増えた。
そして、講師の仕事を通して、教師という職業の大変さの片鱗を知ったつもりでいた。
私の同僚のベテランの先生で、これまでにいくつもの正業を経験された人がいる。
その先生が夏期講習の一番忙しい時分に、「なんやかんや言っても、教師が一番楽やね」と言った。
十分な準備を怠らない方なのである。
生徒全員のノートを集めて、通う学校ごとに手直しをされる。
一人三十分としても、30分×70人=2100分。
それを涼しい顔でこなしておられる。
私は若輩者なので、他の仕事をした経験はあまりない。
だから教師というのはえらいもんだと思っていたが、かの先生の言によると、教師以外の全ての職業は、なんとなんとどえらいものなのだろう。
到底想像もつかないが、私の父親はまだどうにか現役で、忙しい忙しいと言いながら、会社で見たDVDの話を家族に聞かせるが、あれは何なのだろう。
話を戻すと、私が昔書いた「せんせいあのね」の話なのである。
小学校低中学年の頃のものだとは思うが、学年が書いていないので、いつのものかきちんとは分からない。
せんせいあのね。
せんせい、今日ぼくは、おとうととすなばで、ましんえいゆうでんワタルごっこをしたよ。
おとうとはりゅうじん丸で、ぼくはせんじんまるです。
パパとママとおばあちゃんとイトーヨーカドーに行って買いました。
りゅうじん丸とせんじん丸をぶつけ合って、こわれたほうのまけになります。
じつは、おとうとのメカはかたのかんせつが外れているので、すぐにまけます。
だからぼくはたくさんかちます。だからとてもたのしかったです。(以下教師の添削)
弟さんとの遊びの様子、楽しそうな息づかいまで聞こえてくるようです。
ご家族の方におもちゃ買ってもらったのですか。
ちゃんとお礼を言いましたか? 大事につかってください。
今見直すと、先生、分からないマンガの話と弟にしかけられた不正については巧妙に言及を避けている様子がうかがえる。
「大事につかってください」も噴飯物だが、まあ当時私たちは喜んでいたのだから、そんなことは言いがかりに過ぎない。
問題は、先生の熱心さが高じて「せんせいあのね」に続く「せんせいもしも」を発案したことだった。
「せんせいもしも」とは、その日“起こらなかった”ことで、“起こればいいのになあ”と思うことを日記の形式で書くのである。
要するに子供の妄想を書いたものだと言ってよかろう。
これも引越しのどさくさで見つかってしまったので、最後にそちらを引用しようと思う。
せんせいもしも。
せんせい、今日ぼくが歩いていたら、空からくじらが降ってきたよ。
この間の二十三棟と同じところ(注1)からでした。
ぼくはびっくりしたけれど、二十四棟のだがしやさん(注2)に行ってメンコをいっぱい買いました。
そうしたらすごく大きなメンコがあたりました(注3)。
そのメンコをぼくのいえからおとしたら(注4)、風がふいてアメリカにとんでいった。
(注1) 当時、住んでいたマンションの二つ隣の二十三棟で投身があり、子供らの話題になっていた。
(注2) マンションの九階の一室で、なぜか駄菓子屋が営まれていた。
(注3) 一等はトランシーバーが、二等はお盆ほどのメンコが当たった。
(注4) 当時、マンションの高い階から、メンコや、スーパーボールや、つばを落とすのがはやった。ごめんなさい。
(以下教師の添削)
大きなメンコ遊びはとても楽しく遊べそうですね。先生まで楽しくなりました。
メンコは軽く、風に吹かれてどこまでもとんでいってしまう。
それがアメリカまで飛んでいったというのですから、すごい風です。
今ごろアメリカの子供が拾って、メンコがはやっているかもしれないですね。
せんせい。……どうして、前半に僕が書いた降ってきたクジラの話題を避けるのですか。
(了)
先日、深夜に『グレムリン』を放送していたので、仕事の手を休めて弟となんとなく見ていた。
その話をするので、『グレムリン』を知らない人は、多分なんのことだか分からないと思う。
水を与えてはいけないとか、十二時以降に食べ物やっちゃいけないとか、グレムリンを飼うには色々と難しいルールがある。
主役の青年はそれを、飼い主の老人から聞いていたが、その老人はどうやってルールを学んだのかで、弟と論争になった。
弟は一子相伝の口伝えが行われてきたのだと主張した。
私は数限りないトライ・アンド・エラーの繰り返しで徐々にルールが完成したのだと考えた。
ふぐの食い方のようなものだ。
結論なんて出るわけがないので、どちらでもいいのだけれど、公式見解はあるのだろうか。
酒を飲みながらテレビを囲んでいたので、そんなつもりはなかったけれど、二人とも酔っていたのかもしれない。
水をかぶってギズモが増える場面を見て、弟が庭にとび出して、五分ほど帰って来なかった。
満足そうな顔をして戻ってきたので、何をしたのかと聞いてみると、安寿にホースで水を掛けてきたのだという。
安寿は犬で、メスである。
母親が若いころ傾倒していた『安寿と厨子王』から採られているのだが、今では口に馴れてアンジュはアンジュで他のものではない。
私は男に生まれたけれど、私が女に生まれていたら名前は安寿になっていた。
で、まあ、そのアンジュに水を掛けてきたというのだから、無茶なことをする。
庭の隅に、コートの剥げたフライパンをビニルに包んで捨ててある。
熱伝導率の関係で、気持ちがいいらしくて、熱帯夜になってからこちら、フライパンの中で丸まって眠っている。
ギズモに水を掛けてはいけないので、アンジュも今頃真っ暗な庭の片隅で、もこもこと増えていやしないかと、酔った空想は留まりがつかなかった。
今朝、起きてみると、アンジュのわき腹にひどい怪我が出来て、フライパンの中でぺろぺろと傷口を舐めていた。
その辺りの肉がずるむけになって、五百円玉ほど毛皮が剥げ剥げになっているのである。
すぐにマキロンを塗って、酔いも冷めていたので、水で増えた悪いアンジュにやられたなどという気分ではなかった。
垣根が低いので、どこかからノラ猫が入ってきて、暗やみの中で猫の目は光るからアンジュがなんだろうと思って近寄って、そしてひっかかれたのだろう。
さっき様子を見に行ってきたら、傷口を下にして寝ていたので、上になるようにひっくり返したらしっぽを振っていた。
犬が怪我をしてびっくりしたせいで話がそれたが、『グレムリン』では、グレムリンが出てきたり活躍したりするとき、「ちゃらららっちゃちゃん、ちゃらららっちゃちゃん、ちゃらららっちゃらら、ちゃらっらん」といういたずらっぽい、印象的な曲が流れる。
曲を聞いてちょっと思い出したことがあったから、本当はその話をしたいのであった。
私が小学生の頃、『グレムリン』がクラス中で流行って、件の曲を口ずさむのが流行ったことがある。
ヤバいことが起こったとき ――大体「えんがちょ」と似たような場合に―― 、周りにいたものが口ずさむのである。
給食委員が重たい牛乳ビンのケースを運んできて、落として廊下が牛乳まみれになったことがある。
クラスメートらはわれ先に廊下に駆け出て、泣き出した給食委員を囲んで「ちゃらららっちゃちゃん、ちゃらららっちゃちゃん、ちゃらららっちゃらら、ちゃ、らっらん」と、言って跳ね回った。
少し太めで男子には好かれていなかった三村さん(仮名)という女の子がいた。
休み時間に階段の踊り場で、我々は彼女とすれ違った。
私たちは、三村さんに殴られると怖いので、少し離れてから「ちゃらららっちゃちゃん、ちゃらららっちゃちゃん、ちゃらららっちゃらら、ちゃ、らっらん」と、言って笑い合うのである。
高学年になってから、我が校の女子便所に花子さんがいるという噂が立った。
掃除の時間に、男子便所を掃除していた私と私の友達は、クラスメートにそそのかされて、花子さんを呼び出すために、忘れもしない、三階の奥の女子便所に足を踏み入れて、奥の個室の前に立った。
花子さんを呼び出すには、それぞれローカルな決まり、というか儀式がある。
私どもは、教わった通り、ドアを薬指で二十七回ノックして、その場でぐるぐると三周足踏みをして、二十何回か「ワンワン」と言っている最中に、ごつい腕に突然首根っこをつかまれ持ち上げられた。
体育教師にぶん殴られて、女子便所から引っ張り出された私たちを、見たこともない不思議な表情で、知り合いの連中が遠巻きに囲んでいた。
誰ともなく、例の『グレムリン』のメロディを口ずさむのが私の耳にも聞こえていた。
(了)
政治家が音頭を取って、「クール・ビズ」を着よう。つまり、ネクタイを外して涼しい格好をしよう、という試みが始まった。
アンケートでは圧倒的好評を博したらしいが、さて、実現性としてはどんなものだろう。
普及が遅いように見えるのは、ビズ・スタイルが格好悪いからではない。
慣習を破ることに畏怖を覚えるからだ。
中堅企業など、なかなか採用には踏み切らないのではないだろうか。
逆に若い起業であればあるほど、クール・ビズの採用がかえってステータスにもなるだろう。
私は暑がりなので、基本的にはクール・ビスにもサンセイなのである。
けれど、クール・ビズのせせこましい理念には必ずしも賛成できない。
涼しい服装をして、冷え性の女性に配慮したり、エアコンの設定温度を上げて、地球環境に配慮しようというのである。
私は涼しい格好をして、エアコンをがんがんに効かせる方がいいと思う。
涼しい格好をしても部屋をぬるくされるのでは、地球環境にいいのか知らぬが、クール・ビズ・スタイルを採用した自分へのご褒美がないではないか。
夏は涼しい方がいい。酒はぬるめの燗がいい。
結局私は、この試みを、形式ばったオフィスの服装の緩和化という側面からしか捉えていない。
というわけで、涼しい格好をしても部屋がぬるいのでは汗をかく。
オフィスには風がないので汗をかいても涼しくはならない。
気持ちとしてはますます暑くなる。
そもそも暑いから服を脱いで我慢しようというのが消極的だと私は思う。
こちとらバブルの真っ只中、金と科学が全てを解決できる時代に生まれた都会っ子である。
暑さを克服するには、金と科学で行うべきなのである。
クール・ビズはその意味でも私には精彩を欠いたものに映ってならない。
前置きが長くなったが、というわけで、私は去年話題になった空調服を購入した。
サックスのブルゾンで、背中に二つ扇風機がついているアレである。
金と科学は勝利した!
金といっても一万二千円のものだが、私の小遣いが月に一万五千円なので困る。
正にぎりぎりの綱渡り、私は週に二三度、大阪の中心地に出向いているが、ポッケットには二十七円しか入っていない。
トラブルが起こったらどうしようか、とも思うが、暑いので、空調服を買うのが先決だったから、そのときのことはそのとき考える。
見栄えがよくないというのは言われなくても分かっているから言わないでいただきたい。
私も見栄えについては言わない。ヘソ出しルックよりはましだ。
ここでは使い心地についてだけ書いてみる。
湿度にもよるのだろうが、「強」で作動させていると、ここ数日の昼日中に歩いていても不愉快ではない。
その程度に役に立つ。
昨日、バイクを修理に持っていったら、そこの主人が、お茶を勧めながら、「つかぬことをお聞きするが」と寄ってきた。
「これが例のアレですか」
「はい。空調服です」
というところから始まって、効果、値段と喋って、別れ際に主人は「今夜早速注文するよ!」と言っていた。
暑いところで作業せざるを得ない職種の方にとっては、必需品となるものと思われる。
燃費についてだが、これは今のところ良いとは言えない。
先ほど述べたように、金をほとんどつぎ込んでしまったので、充電器を買う余地がなかった。
今のところ、百均の八本入りマンガン電池で稼動させている。
「弱」「強」を適度に切り替えて使っていると、百円分の電池で六時間ほど連続稼動するようだ。
私は暑いところを歩くときだけ使っているので、これで大体一週間は持つ。
高いか安いかは人次第であろうが、コーヒー一本分で一週間なら、まあ、許せる範囲であろう。
まあそんな感じで空調服はクール・ビズの百倍素晴らしい。
塾に着ていくと、子供たちが先を争って袖を通し、くるくる回っては笑い合っている。
子供はなんにでも感じやすいから笑っているのであって、決して格好悪いから笑っているのではない。
(了)
白よりも黒の方がかっこうがいい。
よく、小学校のドッヂボールチームなんかの名前で、ブラック・なんちゃらズってのがある。
ガムにもブラック・ブラックという商品があったと思う。
私の妹は、いまだにブラック・ビスケッツの歌を風呂場で口ずさんでいる。
物心ついた時分の子どもたちにとって、黒はなにがなし、憧れの色となる。
白は純粋無垢だというのは西洋人の考え方で、そりゃあ彼らは白人なのだから白をいいものにするのは仕方がない。
明治以降、西洋の思想や文化がどっと日本に流れ込んできて、なるほど白は純粋なのかなあと私どもも考えるようになった。
それは現在でもメディアやまんがなどでは、そうした見方が幅を利かせているように見えるのだ。
しかし、本来我々黄色人種にとっての白は、白髪の白、灰炭の白で純粋なものではなかった。
様々なものが混ざり込んだ挙げ句の色が白であった。
我々にとっての白とは、本当は酸いも甘いも噛み締めた大人の色であったのだ。
だから、西洋文明と伝統とがないまぜになった現在の日本に生まれた子どもは、まず純粋な白にあくがれ、次に黒に飛びつき、ずっと大人になってから、本当の白の良さへの迂路を辿る。
そうまとめてしまって問題はないのかどうか知らないが、まあいいや。
さて。
私は小さい頃、大阪のポートタウン、海遊館という水族館のあるそばに住んでいた。
同じマンションの下の階には、個人が開いた日曜学校があって、そこの子どもと私とは仲がとても良かった。
日曜学校に通っていた話は、何ケ月か前のこの欄で少し触れたかと思う。
友人とは、小学校一年生から六年生になるまで、たまさか同じクラスだったので、私たちはますます仲がよくなっていった。
五年生の秋も過ぎようとする頃、そのポートタウンでは騎士ガンダムのカードダスがとても流行っていた。
カードは一枚二十円で、当時の子どもが大量に買えるものではなかった。
遊戯王やムシキングのブームとは、時代も状況も違っていた。
私たちは、習い事の帰りに買って食べなと親に渡された、コロッケ代三十円をこつこつ貯めて、マンションの七階にあった駄菓子屋に足を運んだ。
しかし私たち二人はもっともっとカードが欲しかったので、とうとう二人でカードを作ることにした。
私がアイディアを出して、友人が絵を書くという分担だったのであるが、今思うと不当に友人の手間が多かったような気がしてならない。
まあそれはともかく、クラスの人間などをネタにして、私どものカード作りは五十枚を越える盛況を博したのである。
カードはセイントセイヤのバインダーに入れて、私が持って帰って保管することになっていた。
そんなある日、私どもの間でブラックセイントが流行り始めた。
主役が黒人になったような敵が現れて、黒が好きな私どもの心をわしづかみにしたわけである。
私は、夕暮れ時机の上にカードを並べて、素晴らしいアイディアを思いついた。
先述したように、アイディアを出すのは、私の分担だったのである。
このカード五十枚を、鉛筆で真っ黒に塗ったら、ブラックセイントのようでさぞかしかっこういいことだろう。
思いついたら即実行。
やらずに後悔するよりも、やって後悔いたしましょう。
と、友人の日曜学校で少し前に教わったばかりでもあった。
結局夜更けまでかかって、全てのカードが黒く塗りつぶされ、鉛筆はてのひらに納まるぐらいにちびていた。
私は明日の朝、友人の喜ぶ顔が見られるだろうと楽しみにして、床についた。
明くる朝、惨状を知った友人が震えながら「白黒つけよう。」と言ったような漠然とした記憶があるのだが、これは自分の中で拵えた嘘かもしれない。
小学五年生がそんな言葉を知ってはいまい。
ともかく私たちは数日絶交し、それでも習い事も通学路も一緒だったからいつの間にか復縁して、六年生になってからカードダスの第二弾を作った。
彼の名前は、流れる香りと書いてルカという。
もちろん日本人だが、熱心なキリスト教の信者だった母親が、聖書からとってそのように名付けた。
高橋三郎の『ルカ伝講義』に「ルカは重厚な愛の人であり、困難に耐え抜く練達の士であった。」とある。
つまりは彼はそういう人物であったらしい。
(了)
JR福知山線は宝塚駅に接続しているが、私の通う大学のある路線の終着駅がこの宝塚駅である。
稀にだが徹夜をした次の日の朝など、うつらうつらして目が覚めると宝塚だった、ということがある。
同級の知り合いの中には、福知山線を使って通学している者もいる。
だからこの度の事故が、直接私に関係したというわけではないのだけれど、なんとなく身近で起きた悲哀という気がしてならない。
報道被害などとおおげさなことを言う気はないのだが、各局の報道姿勢は、私のそうした感傷とどこかくいちがっているような気がする。
たとえばコメンテーターが痛ましい表情で「地獄絵図のような車内」というときがそうだ。
あるいは遺族の未来や過去が物語として消費されていくのを見るとき。
我々はそこまで知る必要があるのだろうかと、そんなことを思ってチャンネルを変えたりする。
聞いてはみないが、誰にしもそうした経験はあるのではないか。
気まずい思いでテレビを消した後、しんとした静寂が部屋に広がっていく。
我々の黙祷は、その一瞬に生起し、だが私たちは私たちの生活に戻っていくのに違いない。
事件報道の問題点をここでは挙げてみたい。
たとえば先にも述べた「地獄絵図??」といったたとえの表現。
比喩は常に飛躍でしかなく、私たちを憶断の霧へ誘う。
同様の意味で、憶断に基づいた事件の物語化や、コメンテーターのつまらぬ意見も、廃されるべきであろう。
そして何より、生中継は救出作業の邪魔になったり、被害者の傷を毛羽立たせるようなことになるべきではない。
我々赤の他人の好奇心を満たすために、そんなに無茶をすることはないと私は思うのである。
そこで、私は報道被害を起こさないニュースを今から仮想したいと思う。
だが事件から間もないことでもあり、赤の他人ではない当事者がここをご覧になっていないとも限らない。
私はニュースの話をして、その材料に今回の事件を使おうと思っているが、どこかで踏み外さないとも限らない。
だから事件に心を痛めている方は、どうか以下の文章には目を通されないようにお願いする。
不謹慎なことを書くのが後ろめたいというわけではない。
だが失恋をした人の前で恋の話はつつしむものだ。
私は祖母をがんで亡くしたが、その晩年に私たち家族は病気の話を彼女の前ではしなかった。
どちらも恋や病気の話が後ろめたいわけではない。
同様の配慮で、ここでも関係された方をまず遠ざけようとするのである。
私の中に後ろめたい気持ちがもしあるとすれば、それは偶然の配で今日幸せに生きていることへの気後れでしかないだろう。
さて、20××年、私は大金持ちになった。
研究者になってもうかるわけがないので、宝くじに30回当たったり、万馬券を拾ったりしてなったのだと思う。
とにかく私は、報道被害を起こさないニュース番組を作ることを夢見て、ローカル局を買収してそこの取締役か何かになった。
確か随分前の2005年には、買収が話題になったこともあったが、今では企業買収は当たり前になっている。
だから私のローカル局買収も流行の尻馬に乗ったわけではなく、当たり前のことをしただけなのである。
勘違いする人が出るかもしれないから、ここに一言申し添えておく。
ある日、JR菊池山線で大規模な脱線事故が起きた。
いま第一報のテロップが流れたところだが、事故は年号が嘗胆になってから、過去最悪のものになるのではないかという。
各局テレビ局が早速ヘリを飛ばさせて現場を騒がせている。
我が愛すべきローカル局も、おっとり刀で現場に駆けつけたところのようだ……
アナ「えー、さて、はい。それでは中継の準備が整ったようですね。現場の仲原さん?」
現場、仲原マイクを右手でいじっている。
アナ「仲原さん。仲原さん?」
仲原「はいっ。はい、こちら現場の仲原です(と、せき込むように)」
アナ「仲原さん、そちらの様子はどんな状態ですか」
仲原「はい、こちら中継は事故処理に障らないよう、現場から10キロ離れたところに来ています」
アナ「はい。現場から10キロ離れたところの様子はどんな状態ですか」
仲原「そうですね。今回の事故は、大変なものだったと思われますが、さすがに10キロ離れますと、現場は静かな空気を取り戻しています。こちらを見てください。スズメも飛んでいます」
カメラズームしてスズメを映す。
アナ「事故を起こした車両はそちらから確認できますでしょうか」
仲原「――はい。ここからでは、事故車両は全く確認できないような状態です。はい、確認できていません」
アナ「全く、見えない状況ですか」
仲原「はい。それだけに事故の大きさを物語っているように思います」
スズメ、小春日和の空をチュ、チュと旋回して舞う。
アナ「――」
仲原「――先ほど、通りがかった人にインタビューをしておりますので、そちらの映像をご覧下さい」
アナ「…………映りますか? あっ映りました、はい」
仲原が町の人に「すみません、ちょっとよろしいですか」と呼びかけている映像に切り替わる。
人A「えーっ、事故が起きたんですかぁ!?」
仲原、厳粛にうなずく。
「怖いですね……」と言って、町人立ち去る。
仲原、カメラの方へ向き直って、「このように、周囲の住民たちも不安を押し隠せないでいる様子がうかがえます」
仲原また、とおりかかった急ぎ足の人にマイクを向ける。
仲原「さきほど、菊池山線の方で脱線事故が起こったことをご存知ですか」
人B、ハンカチで口元を押さえたまま。
仲原「まずい」という顔をする。
人B「ええ……ちょっと、信じられ、たくないのですけれど、知り合いが乗っていた、というのを聞きましたので、向かっているところ、です」
仲原「そ、そ、そうでしたか。それは、また、あの、なんだ。どうぞお急ぎください」
人B、急ぎ足で立ち去る。
その悲しげな背中。
アナ「仲原ぁ!!」
仲原「はいぃぃ!」
アナ「犠牲者の心を踏みにじるとは貴っ様どういう了見か!!」
仲原「すみません! これは私の不徳の致…」
アナ「あれだ。日勤行きだな」
仲原「すみませんすみません、放送法第一条っ、バラモンクシャトリアバイシャメディアの人間!!」
と、叫んでいる途中で中継は切られる。
アナ、再びにこやかな顔を作って、
アナ「現場は以上のように大変混乱しているわけですが、吉岡さんはこの事故をどのようにご覧になられますか」
吉岡、椅子の上で威儀を正す。
吉岡「そうですね。憶断は出来ませんので、詳しい状況などについてはJRの発表を待って、ということになりますが、どうやら列車が脱線したことは間違いなさそうです」
アナ「列車が脱線したわけですね」
吉岡「脱線ということは、列車がレールから外れている。つまりこれは大変な事故だったということが出来るでしょう」
アナ「ところで吉岡さん、この事故の原因といったことについては何かお分かりになりますでしょうか」
吉岡「そうですね。憶断は許されませんが、少なくとも走っていた列車がレールを踏み越えた、これが脱線の直接の原因になったということは確かでしょう」
アナ「なるほどなるほど」
吉岡「レールの幅が106.7センチであったということも確かですね」
アナ「なるほど」
吉岡「つまり、列車が1メートルを越えるレールを乗り越えて、しかも脱線していった。そこに私は厳粛なニュートン力学の意思の発現というものを感じてしまうわけです」
アナ「なるほど。やはりそれだけの大事故ですと、乗客は脱線の瞬間、大変な恐怖を味わったのでしょうね」
吉岡「いや、乗客が何を感じ取ったか我々には分かりません。確実なのは、菊池山線で脱線事故が起きた。そのため周辺に警察が集まっている。この二点です」
アナ「一部では今回の事故の原因について運転手の技量の問題が取りざたされているようですが」
吉岡「いやあそれも憶断です」
アナ「そうです。私にも臆断だって分かってるんですよ。ですがやりにくい、ですねえ」
アナ、吉岡、さっきから何となく居心地が悪そうにしている。
ちなみに吉岡の隣りの座席に円広志が座っていたが、一報が流れた直後のCM明けに、ぬいぐるみに差し替えられていた。
モットーは報道被害0。
視聴者よりは被害者を。
人の救出邪魔するものは、車夫馬丁にも劣るなり。
(了)
職場に並べていたムーミンズランチが、ある朝一つ消えていた。
ムーミンの人形がおまけについた食玩で、中でもシークレットの「冬のムーミンの家」は内々自慢だったのだが、これは同僚の誰にも通じない自慢である。
それがなくなっていた。
買ってから随分経っていたから、置かれていた周りに薄くホコリが積もっていたのが、丸い跡に残って見えるのが寂しい。
こんなことを言いたくはないのだが、私の通っているのは小中学生の塾なので、賑やかな子供たちがしばしば出入りする。
その中にふと気の迷った者が居て、すっと手を伸ばしても誰も気のつくものではない。
塾だからそれくらいに騒がしい。
多分そういうことなのだろうと思う。
それから授業を二三持ったけれど、あちらとこちらの間に、なんとなくわだかまりがあるような気がして、話と話の切れ間が静かになることがある。
いつもより少し疲れて事務室に帰って、冷たくなった梅こぶ茶はまずいのだが、自分が入れたのだから、全部飲み干して家に帰った。
ちなみになくなったムーミンの家は、パソコンの裏でホコリにまみれて転げ落ちていた。
誰かの袖か何かが触れて、落ちたのだろう。
塾だから事務室はそれくらい騒がしい。
終わってから考えてみれば、物が当たりやすそうなところに置いてあるのであった。
人を疑うのはよくないと思う。
まして、身の回りの者を疑うというのは、芯に卑しいところがあるのに違いないから、不徳の致すところと言う他ない。
つい数日前に起きた後味の悪い思い出である。
これはまた別の話なのだが、駅の帰り道で左手に畑の続いた小道がある。
手前は長らく荒れたままなのだが、奥まったところで色々なものを植えているらしい。
枯れたものや、色彩のない葉も茎が一体になって、何とはなく物寂しげな風情を年中かもしている。
畑の周りは、つまり私の歩く小道に面した一角は鉄線で囲われている。
その柵に、畑の主人が自筆の俳句をかけているのが目に留まる。
よく絵を描くサイトが一月ごとに絵を差し替えたりする。
あれと同じで、一月、あるいは二月おきに俳句をかけかえて、荒れた畑との配合を通行人に楽しませようと言うのだろう。
自作の俳句ではなくて、蕉門俳諧が多いようだが、専門外なのでよく分からないものも多い。
「菜の花や月は東に日は西に」なんてのがかかっていたこともある。
ただし管見の限りでは、明治以降の俳句はかからない。
多分、好きでは、ないのだろう。
風景を詠んだものがもっとも多いが、時には「働いても働いても」と平坦な字で書かれた料紙が、破れてもそのままにされていることがある。
そんな時は道を通るたびに、ここの主は大変なのかなあ、と、邪推をして、それが随分楽しい。
畑は俳句との配合に応じて、滝になったり秋の野になったりする。
いつでも枯れ野の風情を漂わせている畑だから、借景の材料としては、誠に結構なのである。
今月の初めごろ、主が初めて絵をかけたので、しばらくは変な気持ちがした。
しかも、画題がピカソの「泣く女」なのである。
今日まだ絵はかけかえられない。
主人に何かあったのだろうかと、私は楽しく邪推して、枯れ野に浮かぶ彼の身を案じているような気もする。
(了)
新年度で皆々様はお忙しいだろう。
私の身辺も、おそらくは管理人氏の身辺も次第にせわしなくなってきた。
ちょっと安請け合いをしたせいで、二十日までに仕上げないといけない用事が出来たので、今日は手抜きをしようと思う。
手抜きというのは、自分の好きな話をしようということで、他人にはちっとも面白くないかもしれない、ということだ。
森鴎外が明治四十四年に発表した「流行」という作品があるが、彼の文学的変遷に大きく関わらないこともあってか、あまり知られていない。
この頃の作品だと、自伝的な風采を持つ「妄想」か「半日」のヴァリエットである「蛇」などが有名であろう。
我々が親しい鴎外は、高校の教科書に載ることが多い「舞姫」である。
「舞姫」を含む初期の三部作は文語体で書かれており、どうしてわざわざ読み難い物を教科書に上げて、生徒の鴎外離れを促進させるのやら、分からない。
これは結局、カリキュラムを使って鴎外に親しませるのではなくて、鴎外をダシにして文語体を読ませようとするから生まれる弊害なのだろう。
一時の中断を挟んで、明治が終わろうとする頃、鴎外は二度目の文学的出発を遂げる。
その頃には文語体か口語体かなんて小難しい議論もひと段落ついて、鴎外は読みやすい口語体を使うようになっている。
教科書にその頃の作品が載っていれば、と思うのだが、今となっては詮無いことである。
ゆとり教育の導入で、教科書から漱石鴎外は消え、難しいも簡単もなくなってしまった。
私は文系なので理系の方にはまた別の意見もあろうが、面白いものをしっかり読ませるがよかろうと思う。
話が逸れてしまったが、本来したいのは明治四十四年に発表された「流行」の話なのである。
この頃の鴎外は、一般に身辺小説と呼ばれる身の回りの見聞に材料を取った作品を記すようになる。
鴎外はビビリで書評子の反応に逐一神経を尖らせていた。
怪異譚として知られる「心中」に「僕はお金が話した儘をそつくりここに書かうと思ふ。頃日僕の書く物の総ては、神聖なる評論壇が、『上手な落語のやうだ』と云ふ紋切型の一言で褒めてくれることになつてゐるが、若し今度も同じマンシヨン・オノレエルを頂戴したら、それをそつくりお金にお祝儀に遣れば好いことになる。」と書いたのがちょうどこの頃である。
マンシヨン・オノレエルとは何のことだか調べてみないから分からない。
鴎外の小心なところや知識をひけらかすところが我慢ならない向きもあるようだが、こんな所も可愛いではないかと私は思う。
日本の二大文豪は漱石と鴎外だと言われるが、「文豪」という紋切型の一言は多くのあわいを覆い隠している。
文庫で出ているものではなく、全集の中から好きなものを拾い読みしてみるととても楽しい。
鴎外には翻訳物もたくさんあって、ポーの同作を訳した「うずしほ」などが私には親しい。
鴎外の文章は実に手堅く上手い。
当時の自然主義の作家よりもよほどリアリズムに徹しているというのは、これも彼に冠せられるお決まりの評言であるけれども、これは女中にやってよい程度の的を得ない紋切型ではない。
「流行」は三越が発刊した雑誌「三越」に発表された作品である。
豪華な屋敷に住む男性の触れる物がことごとく流行していく。
流行を生み出す源泉を擬人化して描いた変り種の作品で、それが「三越」に掲載されているのは意味深い。
鴎外は三越の「流行会」に所属していたことでも知られる。
実はそんなには参加しなかったらしいのだが、当時の知識人たちの懇親会が定期的に開かれて、経緯が雑誌に載るというシステムは面白い。
彼は正に(実質は別として)流行を生み出す中心にいたのであり、「流行」の男性は鴎外その人の暗示でもあるだろう。
だが鴎外は「流行」にまつわるモラルの問題に眉をひそめることを忘れない。
なんだか星新一にでもありそうなお洒落なショートショートで、私はそこらの芥川賞なんかより面白いと思うが、家族はそれより韓流ドラマの方が面白いと言った。
(了)
・ZAQは、子供たちをネットに潜む悪意からは守ってくれるかもしれないが、お兄ちゃんを覗き見る現実に潜む妹の悪意には全く無反応だ。
・ZAQは、お父さんがパソコンを使うとき、そっとネットに潜む悪意を素通りさせてくれる。
・妹はZAQの解除方法を知っている。
・ところで韓国館のパビリオンは、手をかざすとスクリーンの魚が近づいてくるのと墨絵の木々が自動生成されるのと、古いジャバ・スクリプトで動いているように思えてならない。
(了)
世間が竹島で騒いでいるといっても、騒いでいるのはネットの連中だけなので、私の老いた二親は、韓国ドラマを一日に二つも三つも見てご満悦でいる。
二人とも韓流ブームから韓国に関わっているので、竹島の問題についても始終韓国に同情的であり、「あげちゃえばいいのに」などと言う。
私とは意見を共にしないのだが、家族でそんな難しい話はしないのだから、我が家は平穏である。
本当に竹島が欲しいのか、どうか、私ども日本人には窺い知れぬところがあるが、それにしても彼らはどうして暴れているのだろう。
理屈を言って、きちんと抗議をすれば良いがと思うのである。
インドから仏教が排斥されたように、儒教が韓国から失われたのだろうか。
まあ国旗を焼くのは、私はソウルに旅行したから知っているのだが、あそこは寒いから、暖を取りたいのであろう。
これから気候が穏やかになっていけば、自然国旗を焼くと暑くなるので、暴動も治まるのだろうかと思う。
それに新しい国旗を輸出して、我々の外貨稼ぎにしてもいい。
それともあの国旗は、彼等が焼くためにわざわざ拵えた、バッタもんなのだろうか。
そうだとしたら、下請けのおばちゃんは、何を思いながら赤丸を染めているのだろうと他人事ながら不憫な気がする。
私の研究室には留学生が多く、彼らはもちろん、自分の意見が容れられなくて暴れたりはしていない。
礼儀も正しく、彼等を通して見る韓国は私にとって決して悪い国ではない。
また、私が旅行で行ったときのソウルも、観光都市だから当然であるが、悪い印象は受けなかった。
私が妹への土産に韓国語版『テニスの王子様』を買おうとして飛び込んだ本屋の主人は、「イクラ、イクラ、ネダン、ほら」と、日本語しか話さない痴呆のような私に誠実に対応してくれた。
ソウルは日本語の通じるよいところである。
日本が西欧に誤ったイメージで伝わっているように、韓国の反日活動を映す報道も、ある一面を切り取ったものではあるのだろう。
昨今、韓国をネットで取り上げている方々は、それを分かった上でなお面白いからとネタにしている。
私はその辺りの機微、匙加減が分からないから、まずい事を言ってしまうかもしれない。
この話もここらで終わらせて、他の話をしようと思う。
ただ気になるのは、上記の留学生さんがこの間、海外土産と言ってドリアンのチップスをかついできて、私にも一つ食わせて下さった。
果物の王様と呼ばれるドリアンは、臭いので有名だ。
研究室の全部の窓をすぐ開け放して、私はすぐに口を漱いだが、都市ガスに似た臭いが、三時間ほど咽喉から込み上げて、随分苦しまされた。
ひょっとしたらあれは、ささやかな反日行動だったのかも知れない。
さて、話を戻すのだが、一ヶ月ほど前の話だから、あらすじから書くべきかと思う。
私は管理人氏に連れられて、先月雪深い時分に、高野山に登って一泊をした。
その旅行記を、時系列順に書き散らしていったら、今日までかかってしまった。
そこで今日は二日目の朝、お坊さん達と混ざってお勤めを終えたところなのである。
これから荷物をまとめて、チェック・アウトを終えて、さあ、奥の院に行こうと思う。
先日は糸のような雨が夕方から降り始めたが、今朝もまだ雨の止む様子はなく、氏は昨日売店で買っていたビニル傘を広げた。
先日に比べ観光客が増えたらしくて、どことなく辺りがざわついて人影もまばらではないいる。
一面に積もった雪のところどころ氷になって、準備をしていなかった私どもの靴は時々滑って転びそうになった。
転んだら、昨日悪口を言ったお大師様のせいだと二人で言い合った。
転ばなければ、バランス感覚を磨いた日頃の修練のおかげであろう。
我々は無信心だからか、悪いことだけ相手に押し付けて、滑りやすい雪道を進む。
道端に、霜の下りた犬の糞が転がっていた。
私があやうく踏みかけたので、直前に氏が声を掛けてくれた。
おかげで足を踏み避けた。
もうお分かりだろう。
犬の糞を設置したのはお大師様で、踏まずに済んだのは管理人氏のおかげである。
私どもの信念は、このようなお験しに遭ってなお決して揺るがない。
左右を二十万基の墓に囲まれた昨日と同じ細道を、奥の院に向かってザク、ザク、と歩いて行く。
五分間隔ぐらいだったろう、後方が騒がしくなったので振り返ると、遠方から来たらしい年配のツアー客が固まって私たちを追い越していく。
案内役の人は、さした傘がふらふら揺れながら、観光客に顔を向けて、したがって進行方向に背を向けたまま、器用に歩いて来る。
淀みない説明は、何百度繰り返したものだろう。
「今、右に見えますのが、足利何代将軍何々のお墓で、建立されるとき何々があったそうなんですね。ああ、左見ましょう。あの左の遠くに見える、大きいのがあるでしょう。…」
隅に寄って道を空けた私どもを、団体客が笑いさざめきながら追い越していく。
滑りやすい雪の坂道を、後ろ向きにひょいひょいと歩いていって、転んだら後頭部を打って、大変なことになるのではないかと少し心配したけれど、慣れたアテンダントにとってアクシデントは稀なのだろう。
きっと彼に聞いたら、お大師様のおかげで転ばないとでも言ったろう。
我々の最終目的地は奥の院であって、弘法大使の修行場を拝むつもりでいたが、管理人氏は下調べをして来ていて、細道の途中に二三用事があると言う。
その一つが織田信長の墓で、奥まった道からさらに段々を上がったところにあった。
誰もが知る大名のものとしては、驚くほど小さい。
それにしても、本能寺で信長の首は見つからなかったはずだが、だとすればこの墓に誰が眠っているのだろう。
私はそんなことも知らなかった、墓前に管理人氏が額づいて手を合わせた。
それきり一言も言わず静かな時間が流れる。
それから、鞄から、昨日食べなかった塩味のカップヌードルを出して、墓の雪を払ってちょこんと供えたらしい。
元の細道に戻ってから、「敵に塩を送る」と嬉しそうに言っていたが、私には何の事か分からない。
よく覚えていないので詳述しないが、その後で秀吉の墓も見て、氏が写真を撮っていたからネガが残っているかもしれない。
信長の墓とは対照的で、他の二十万基に合わせる遠慮を微塵も感じない、やたらと豪華な墓だった。
まるで古墳である。いかにも秀吉らしい、と面白く見物した。
もう一つ氏の希望というのが、姿見の井戸に自分の顔を映してみたいというのだった。
井戸も私は知らなかったのだが、あばら家のような稲荷の傍らに小さな井戸があって、底に水が淀んでいる。
その井戸を覗き込んで、姿が映らなかったら、というのは明るさの加減で見えなかったりしたら、その人はやがて死ぬ運命にあるというのである。
高野山もそんなものを名物にして地図に載せるなと思う次第であるが、行きたいというのだから仕方がないし、本音では私もその井戸の底を一度見てみたい。
色々探して、掃除をしていた無愛想なおじさんに聞いて、ようやく井戸を見つけたが、見落とすのも無理はないと思えるようなちっぽけな井戸であった。
管理人氏は早速鞄を背負い直して、井戸に半身出して覗き込んだ。
待っていたら、しばらくして顔を上げて、「何も見えない」という。
雨の降る中だから、太陽の光が底まで射さぬのであろう。
ああ死ぬのかなと思ったら、携帯電話のバックライトを光らせて、明るさの足しにして、どうにか自分の姿を水に映そうとし出した。
人は最後まで生きようとするものなのだなと思う。
しばらくしてどうやら輪郭が見えたというので、安心して、氏の玉の緒はつながっているらしい。
いよいよ奥の院へ向かうことにした。
しかし、実は奥の院は周りをぐるりと回っただけで入らず帰ったので、特に書くことがないから、もう筆を下ろそうと思う。
暗いお堂の中で、坊主が沢山アニマトロニクスのように動いていたので、怖くなって、止めたのである。
管理人氏と二人で、停まったバスに乗り込んで、がたがた揺られ揺られ山を降りて帰った。
(了)
今日は予定では「最終高野山道行記聞」と題して、管理人氏との旅行記の締めを飾るつもりでいた。
しかし私事が重なってしまい、おまけに半年ほど鳴りをしずめていた偏頭痛がズキズキと痛むので、何週間か前の記憶を掘り出すのに手間がかかる。
そちらの記事はまた今度ということにして、今日は別の話をしようかと思う。
ちなみに私事というのは、私が勤めている塾の作文指導のことであって、高校の公立後期試験が間近に近づいているので忙しい。
ここ一月ほどは普段国語を取っていない連中も混ぜて、週二回一日に二本ずつ、つまり週に四本の作文を書かせているので、したがって、週に四本×人数分の添削をしなくてはならなくなった。
止むを得ないとはいえ、撒いた種を刈り取っている内に、私は昔から目が弱いので、そのせいか知らないが、偏頭痛になってこの文章の冒頭に戻る。
そんなわけなので、お客様の皆様には、旅行記もこっちも、役に立たないことでは同じだから、どうぞお許し願いたい。
作文指導というのは、色々減点されづらい型というのがあって、それに当てはめていくと、大体の生徒は十二、三点ぐらいはコンスタントに取れるようになってくる。
具体例の前に内容をまとめた書き出しを置くとか、具体例には自分の体験を書くとか、結論は詳しく書くとかいうのがそれであって、面白みはないのだが、時間がないから仕方がない。
そうやって作文の内容を均質化していくと、各人の質に一つの壁が見えてくる。
そつはないけれど十四点だな、という作文と、十七点前後を取る作文の間には、先述した攻略法では埋めることのできない、純然とした質の差がある。
それは一つには伝えたいことを題名に合うように加工して書くか、どうか、という違いであって、いくらミスがなくとも伝えたいことのない作文は、ただのハリボテで、読んでいて面白みもあまりない。
ここで書いたのは、並の作文と上手い作文との違いだけれど、もちろん、並と下手な作文との間にも同様の違いがある。
下手な作文には二つのパターンがあって、単に漢字が書けない、情景が書けない、文が照応していない、字が汚い、という、普通に下手な者がいる。
これは仕方がないので、後三ヶ月あれば矯正できたかもしれないが、お互いの不明により今回の受験作文では十一点前後の点数だろうと思う。
ここでは詳しく取り上げないが、もう一つは歪んでいて普通でないので点数が取れないタイプの者である。
さすがに一桁台はいなくなったのだが、それでも時の流れの速きを悔やむ次第である。
ああ、そういえば、ついこの間書かせて今も私の手もとにある作文の中にこんなのがある。
題名は「親切心」。
バスで座っていたら、目の前に大きな荷物をかついで、ヨボヨボの老いたお婆さんが来たので、心苦しくなって席をゆずった、というのが具体例である。
まあ、お分かりだろうが、彼は下手な部類の作文書きなのである。
その作文の末尾に近く、こんな一文があった。
「そのお婆さんは僕に何度もお礼をした。」
上に引用した一文は私が添削した後のものである。
原文はこうなっていた。
「そのおばあさんはぼくに何度もお札をだした。」(表記点-2点)
お前は年寄り相手にカツアゲしたのか。
「だした」の「だ」は、「だ、である」型の末尾の消し忘れであるらしい。
もちろん彼は、添削後にみられるような情景を描こうとしたのである。
この間会った時に、「いくら貰ってん」と聞いたら、「全部二千円札やった」と言って笑っていた。
私は笑い話にしてもいいけれど、君にとっては、笑い話ではないのだがなあ。
公立後期まで、もう後一週間を切った。
受験される皆々様には、どうぞぜひに頑張っていただきたい。
話は元に戻るが、偏頭痛にはノーシンが効くということを、私はつい先日知った。
頭痛とは中学生時分からの付き合いで、救急車で運ばれたことが一度だけある。
最初、目の端で鈍い七色の歯車が回っているように見えて、段々その範囲が広がって目が見え難くなる。
この時点では痛みがない。
やがて目はすっきりと見えるようになるが、こめかみがズキンズキンと脈拍に合わせて、飛び上がるように痛くなる。
足が宙を踏むように頼りなくなってくる。
こうなるともう仕方がないので、布団をかぶって、目を無理やり閉じて、痛みが去るまで耐えるほかはない。
人は天災と四百四病には謙虚であらねばならない。
私は頭痛にノーシンが効くとは知らなかった。
というのは、昔々、偏頭痛に転げまわって頭痛薬に手を伸ばそうとした当時、母親が、「薬は飲み過ぎると効かんようになる。ノーシンはいざという時に取っとけ!」と言ったのである。
そうして温タオルを絞って頭に載せて、薬を仕舞って帰った。
だから私はいざという時のために頭痛薬を取っておこうと思って、以来十年間使わなかった。
しかし私は頭痛の夜を過ごしながら考えた。
ひどくて、転げそうで救急車まで呼んだことのある頭痛こそが「いざという時」なのではなかろうか。
ノーシンを飲んだら、一時間で頭痛が治まった。
私にはこんなまぬけな勘違いが時々ある。
小学生の頃、造成地をスコップで掘って、秘密基地を作っていたら、崩れて指が挟まれて真赤に腫れた。
泣き泣き家に帰ったら、祖母が泣きそうな顔をして、「おう、おう。えらい腫れてしもうて。大丈夫やゆうすけ。アロエを貼ればすぐ治る」と言って、丹精をかけたアロエを鉢ごと抱えて持って来た。
祖母の大切なアロエを切り売りして指に巻くのだが、腫れは一向に治まらないどころか、他の指の二倍くらいに膨れていく。
その指は骨折していて、半月もしてから病院に行ったので、今でも左の中指だけが逆に反れて戻らない。
祖母は数年前に亡くなった。
曲がった指は昔を想うよすがになるが、偏頭痛は残念ながら何の悦びもなく、時折私の平和な寝込みを奪っていく。
番外でいらない話を書いたついでであるから、自分のホームページの宣伝をしておこうと思う。
私は内田百間という作家が好きで、よく読んでいるから、この間内田百間のホームページを作ってネット上にも公開した。
どこにもリンクを張っていなくて、昔は頑張った検索ページへの登録なんかもしなくなったから、仕方ないのだが、カウンタが回らないことがもう夥しい。
そこでリンクを張って、更新はあんまりしないからリピーターはないにせよ、とにかく一度来客を増やそうと私はもくろむのである。
(http://www.geocities.jp/yusuky1192/index.html)
よく掲示板なんかでこういう宣伝の書き込みがあって、すぐに管理人に削除されている。
しかしまあブログの本文であれば削除はされまいと思う。
ざまあみろ、である。
(了)
BSEの問題で、日本が輸入を再開しないので、アメリカ人はじれて、焦って、ブッシュ政権は今随分突き上げられているらしい。
向こうの下院議員が、「日本の言うように検査対象の牛を、生後二十ヶ月にまで伸ばしてやった。これ以上何が不満なのだ」と憤っているとも聞く。
そうは言っても、アジアの人間には繊細で細かいところがある。
全頭検査でないと不安だと、私が幼い頃可愛がってくれた伯父が言うので、私もなるほど全頭検査がいいだろうと思う。
農薬をヘリで撒くおおざっぱな国の、しかも議員さんには、分からない話だろう。
その問題を措いて考えても、南北アメリカ大陸からは、人をおおざっぱにする悪いガスが出ているのではないかと思う。
フライドポテトのスーパーサイズは、冗談だとしか思えないが、彼らはもりもり食べて平気でいる。
『インディペンデンス・デイ』で大統領が演説をするところで、彼らは立ち上がって大声援を送るという。
私もそうそう外人と交流があるわけではないので、以下は狭い経験からの憶断になるがお許し願いたい。
私の通っている大学院には海外からの留学生が多く、その中にアジアからでない留学生の方がちらほらとおられる。
マチネー先輩はそんな一人である。
身体は大きく、西洋人にも似合わぬ遠慮しいで、――というのは、日本で肩身の狭い思いをしているのかもしれない―― 気がよく、先年調べ物を手伝ったらガムをくれて、まあおいしかった。
いい人なのである。
マチネーというのは仮名だから、どなたかに素性の分かることはないだろうが、念の為、彼が研究されている作者名・作品名をそれぞれ変えておく。
その点ご容赦願いたい。
マチネー先輩は、梶基井次郎の『冬のハエ』という作品を日本で研究されている。
彼の成果を発表する機会が先年度あり、私も拝聴させていただいたのである。
『冬のハエ』は、確か青空文庫に入っているからググッて読んでいただけるといいのだけれど、私が野暮な気を廻すまでもなく、いくらかの方はご存知だろう。
梶基は自らも結核に犯され、結核患者の研ぎ澄まされた精神と美しい風物を描いた作品をいくつか遺した。
『冬のハエ』もその中の一つで、その中にこんな一節がある。
私はそんなところには一種の嗅覚でも持っているかのように、堀割に沿った娼家の家並みのなかへ出てしまった。(中略)私は二度ほど同じ道を廻り、そして最後に一軒の家へ這入った。私は疲れた身体に熱い酒をそそぎ入れた。しかし私は酔わなかった。酌に来た女は秋刀魚船の話をした。船員の腕にふさわしい逞しい健康そうな女だった。その一人は私に婬をすすめた。私はその金を払ったまま、港のありかをきいて外へ出てしまったのである。
(引用は青空文庫より)
先輩はこの箇所を、結核患者である「私」が病を乗りこえ、性欲に目覚め、明日を見つめていく描写だと、確かそんな風に解釈なさった。
これはもう大分前の話で、私はこんなところで欠席裁判を開いて彼への反論を繰り広げるわけではない。
ただ日本人と外国人の感性の違いをみた好個の例として、ここに先輩をご足労させている。
私は、この箇所は「健康そうな女」に対比された「私」が、淫に気が乗らず外へふらふらと出た場面だと思っていたので、そういう質問をした。
すると先輩は、怪訝そうな顔をして、質問の意図を二三度聞き返した。
そうして、決まりきったことを話すような口ぶりで、こんなことを言った。
「そりゃあ、この後「私」は散歩を終えて、帰って、Sex をするんだと思いますよ」
その場には女性もいたが、院生というのは劫を経た猫みたいなもので、露骨な表現を用いても誰も顔を赤らめやしない。
前後の描写との整合などから引用箇所の解釈について彼と論じたが、意見は終始一貫していた。
結核は乗りこえるべきものであって、明日には希望が待っているというのが、彼の揺るがぬ信念であった。
彼の前で自分の意見をまとめようと喋りながら、私は生まれついてのズレというものを感じざるを得なかった。
頭に『インディペンデンス・デイ』の演説に歓声上げる客なんてものが浮かんだりした。
マチネー先輩は、そんな何に限らずマッチョな考え方をする先輩であった。
猪突猛進のお国柄では、それはそれで敬すべきものなのだとは思う。
だが、波がささやかなあわいを打ち消してしまうことが往々にしてある。
それが日本人の機微というものではないかと思う。
文化論の方面では語りつくされていることだけれど、日本の繊細さを悟るのに、私の場合はこんな迂路を通って、ようやくたどり着いたわけである。
話を戻して、高野山の山の上では、まだ一日目の夜の膳が出たところである。
お膳の中身の話は私は全く詳しくないので、写真を見て各人ご想像いただければと思う。
なんだか豆腐のフルコースみたいなもので、鍋やら生麩に般若湯と、精進料理の限界に挑戦したような気もして、おいしかった。
おひつの御飯を一度ずつお代わりして、腹が一杯になった。
コタツに潜ってサッカー日朝戦の結果や、「トリビアの泉」を見ていたら、管理人氏が寝入ったり、また目を覚ましたりした。
うつらうつらしながら、いらぬ話をして、電気を消したのは十二時近くになってのことだったかと思う。
夜中に一度トイレに立ったら、襖を開けた途端身が引き締まるような風が吹き込んだ。
宿房に泊ると、明け方に行われるお勤めに混じって頭を下げるという予定がある。
それに合わせた起床時間は随分早く、二人とも、目覚ましが鳴るまでは熟睡していたらしい。
不意に、朝のつとめての高野山に、大音量で「ふたりはプリキュア」のOPソングが鳴り響いた。
それが目覚ましの着メロだった。
私は、安らかな夢を破られて暖かい布団を跳ね除けて呆然とした。
氏は鳴り続ける携帯に、のろのろと手を伸ばしてようやく音楽が止まった。
目覚ましを掛けたのは管理人氏であって決して私ではない。
お勤めが行われる本堂へ向かう途中に、目の前で、ざざっと雪が落ちて私たちの旅情を新たにした。
雪はそれ自身の重みで落ちるのだろうが、本堂では我々我慢の足りない観光客のためにストーブをかんかんに燃やしてくれていて、その近くが暖かい。
そのせいであるような気もした。
暖流と寒流の境目が空気にもあるようで、少し離れると空気は絞るように冷たく、坊さんたちがそのまたずっと奥の方で蝋燭に灯をともしたりしている。
私たちがストーブのそばの、比較的温かい ――といっても十度はなかったろうが―― 所に、慣れない正座をしたら、すぐに坊さんたちの読経が始まった。
昨夜の客は、私たち二人だけだったのかもしれない。
チェックインのとき、風呂場の時間が男女別で分かれているということを聞かされたので、他に女の客がいるものだとばかり思っていた。
また、私どもが風呂場へ駆け込んだとき、体重量りに載って尻を叩いていた年配の人がいた。
お客とばかり思っていたのだが、どうやら、坊主の尻を見たらしい。
あまりよくないものを見た。
家でもストーブをつけたまま、何かのはずみで灯かりを消したりしたとき、ストーブが赤く輝いて、目が痛くなるようなことがある。
ストーブは暖房器具であると同時に、照明器具であるのだなとそんなとき思う。
本堂は暗く、外の明かりはほとんど入って来ない。
本尊の周りを囲むように立てられた蝋燭が、金銀の飾り物をうっすらと照らし出している。
ストーブの周りはそちらとは桁外れに明るくなっていて、私どもの横顔は、真赤に熱を持っているように見える。
坊さんは薄い一重を肩にかけていたが寒そうな様子もなく、中には裸足もいるらしい。
私たちの後ろには、外国人向けかと思われる椅子が何脚か置かれている。
ひどく場違いな感じを受けた。
坊主の読経は続いているけれど、彼らとこちらの席の間には、明らかに見えない線引きがあった。
坊さんは皆親切だったけれど、これはやらせぬぞという気概をどことなく感じた気がする。
私は本堂の闇の奥のその向こうに、私に分からぬ正体を見極めるような気持ちになって、心を澄まして座っていた。
そのうちに氏が正座を崩して胡坐をかいた。
後で聞くと、氏もまた何か別のことを考えていたらしい。
読経が終わりに近づいた頃、坊さんがこちらに近づいて、「お焼香を」と言った。
その声も氏には聞こえていなかった。
暫らく待っても氏が動かないので、私が先に立っていって、三度焼香をして下がったら、氏も三回お焼香をした。
読経が長すぎて、ぼうっとしてきたら、ざざざ、ずさっ、という聞いたこともない音が頭上で起こった。
私は先ほどのように雪が滑り落ちたのだろうと思った。
だがその音はどうしても、何か生き物が本堂の上に飛び降りたような音にしか聞こえなかったのが不思議だった。
猫にしては大きすぎるし、獏というには小さい。
ちょうど弘法大師空海が屋根に降りたような、そのぐらいの音が聞こえて、私は天井を見上げた。
(了)
高野山に旅行した話の続きをする。
よく年寄りは話が長いといって、校長先生の話などは特に長くて聞いていて眠たくなってくる。
私は年寄りではないが、後三回ほどお話を続けさせていただきたいと思う。
週に一度、日曜日だけだから助かったものの、毎日だったら読む側も辟易するであろう。
今更ながら、日曜版を設定なさった管理人氏の慧眼に敬意を表する次第である。
もっとも、氏は「あははははははははははは!」と狂ってしまわれたようにもみえる。
敬するべきか、敬して遠ざけるべきか、その辺りは後の動向を見なければわからない。
宿房にもいわゆるチェックイン・アウトがあって、私どもが寺に入ったのは太陽の傾き始めた午後四時前のことだった。
二月の日は短いというが、まだ時間はある。
相談するという程のこともなく、見物に行こうと話がまとまって、下ろした腰をすぐにまた上げて部屋を出た。
ちゃちな鍵を掛けて、ホテルでいうフロントに預けて出るところまで普通の旅館と変わらない。
廊下は壁が風を防いでいるだけで、気温は外と大差がない。
スッと冷え込んだ廊下の隅に、ストーブで暖められた土間のような部屋があって、商家の番頭のような親父さんがあぐらをかいていた。
そこがフロントである。
鍵を預けて、管理人氏が時間のかかる靴をうごうごはいて、外に出たら一面の雪が白くて夕方前なのにまぶしかった。
二人してデジカメを取り出して、早速目の前の鐘堂をパチリパチリ撮ったけれど、後で現像してみたら、白く飛んで何が映っているのか分からないのが多かった。
さて落ち着いて、どこに行こうと地図を取り出したものの、前回坊さんの言葉で引用したように、「お山はどこも見所」で見所がありすぎて、どこを見ればいいのか見当がつかない。
世界遺産の美しい雪景色を、安いカメラで撮ったら、白く色飛びがした。
それと同じ様に、全部が見所でも、安い鑑賞者にとっては白い写真と同然だったかも知れない。
もっとも当時そんな殊勝な後悔をしたわけではなく、しばらくして刈萱堂に行くことが決まって私たちは歩き出した。
刈萱堂には寺に伝わる因縁が分かりやすくパネルになっていて、回廊をぐるりと一巡りするとすっかり因縁が呑み込め有難い気持ちになる。
氏はうかうかと土産物に見入っていたせいで、店番の坊主に詰め寄られて、何か小さなものを買っていた。
生き別れた父子が、仏の導きで、高野山にて運命の出会いを果たす。
そういう刈萱堂の因縁を、私は不勉強にして知らなかった。
数十枚にわたるパネルを、車窓の風景程度の感心を持って見回したけれど、あまり有難い気持ちにはならなかった。
そもそもこういう寺では因縁ではなくシンボルというか、偶像が据えてあって、それを拝むものではないのだろうか。
そういうものはほとんど見当たらなかった。
パネルがつきた向こうに、もう出口の明かりがほの白く延びている。
その突き当たりに、物語の父子と関わりのある仏様があるという、暗い段々があって奥の方はみえなかった。
賽銭を落として、拍手を無闇に打って、建物を出た途端にため息をつくような気持ちがした。
見ると管理人氏があての外れたような顔をしている。
「あそこに仏像が飾ってるっていうから、目をこらしたけれど、見えなかった」
「なかったんちゃうかな」
「なかったら、パネルの意味ないなあ」
「もっと賽銭を入れたら、ディズニーの It's a small world みたいな灯かりがついて、仏像が出て来たんやろうけどな」
数十枚のパネルには、外国人観光客に向けて英訳がつけられていて、ボランティア有志の心遣いを見る思いがした。
段々が撞木の音曲に乗せて動いたら、おおざっぱな外人が大喜びするような気がするのだけれど、それとも違うかしら。
まだ夕食には時間があったので、奥の院へ続く道を、歩けるところまで歩いて、日が暮れたら引き返そうという大雑把な計画が立った。
奥の院へ続く道は石の敷き詰められた一直線の長い道で、一キロほどあるらしい。
森を切り開いているから、素人目には屋久杉くらい太く見える木々が幾百本も空を突き抜けている。
今日は寒いから、見渡す限りに雪が積もっていた。
左右の視界を埋めるように、二十万基の墓石が立っている。
話が変わるようだが、後一月ほどで開催される愛知の万博は、二三年で箱物をこしらえて、辺りが急に賑々しくなってきたようだ。
また、開催期間が終わる秋には万博条約に基づいて、箱物は壊され、あるいは移転されなければならないことに決まっている。
だから大阪万博の行われた大阪千里の丘には、今では太陽の塔だけが残されて当時の面影を留めない。
六千四百万人を賑やかしたアメリカ館やソ連館の鉄骨は、取り壊された後、埋め立てに使われて、千里の丘を高くした上に、ソ連はなくなってしまった。
「朝に死に、夕に生るるならい、ただ水の泡にぞ似たりける」ということであり、無常は世俗の間にこそあったのではないかと思う。
それに比べると、二十万基の墓石は千年の間にばらばらに立てられて、一つ一つに我々の窺い知らぬ因縁があるのだろう。
私共は軽口を叩いて歩いているその左右に、二十万を越える骨が外気よりも冷たくなって埋まっているのだが、そんなことは想像しようとしても想像が出来ない。
世界遺産条約が作られたのは最近だが、その前からずっとこの一道筋は守られ今もお墓は増え続けている。
何せ江崎グリコ一族のお墓があるぐらいだ。
歳を取った私の母親は、死んだら骨を宇宙にまけまけと言うけれど、金があったらお山に埋めてやろうかなとも思う。
それはそうと、お大師様は今も亡くなっておらず、奥の院のさらにその奥で修行をなさっている。
だから我々凡俗は、この細道に入る前に手を清め、口を漱がなければならない。
二月の手水鉢から落ちる水は、凍ってこそいなかったものの、身を切るような冷たさでいっそ清々しい。
そうして這入ったのだが、口は清めたはずなのに、二人ともお大師様の軽口ばかり叩いて止まない。
かえって舌の滑りがよくなったようにさえ思える。
くうちゃんは修行で忙しそうだから、忙しさに紛れて、我々のしゃべくりを聞き漏らしていればいいがと思う。
誰もいないその夕暮れ道を歩いていると、どかんと石田三成の墓が立っていた。
島津家の墓も、武田信玄勝頼の墓もある。
信長や秀吉の墓もここにあるのだが、この日はそこまで行かずに帰った。
有名人の名前にどかりどかりと脅かされている内、段々辺りは暗くなるし、雨が落ち始めるしで、真ん中ぐらいの見当にあった分かれ道から俗世に帰って、そのまま宿に帰って来たのだが、あの雨を降らしたのは誰だろう。
宿に帰る頃には本降りになりかけていた。
帰る途中、二十万基の中にすっとロケットにしか見えないものが立っていた。
種子島のH-2Aロケットを銀色に塗ったような代物で、到底お墓には見えない。
遠目でしか見なかったが、人の肩幅くらいあるようであった。
雨を避けながら、管理人氏の袖を引っぱって聞いてみた。
「あれ、なんやろう」
「ロケットやな」
「やっぱりロケットか」
するとああ、あれはあれや、と、氏がおもしろそうな顔をした。
「分かった」
「ん?」
「ノドン打ち込んで来たとき、あれに御大師さん乗せて逃がす為のもんやろう」
噴煙を上げ二十万基をなぎ倒しなぎ倒し、発射されるロケットの中で肩をすぼめ息を潜める、弘法大使空海が目に浮かぶような気がするなと思ったら、雨が急に強くなって遠くの墓石が霧に煙った。
「帰らなな」
「でも帰る前に売店で、ラーメン買って宿房に帰ろう」
(了)
この一文は、管理人氏と世界遺産である高野山に登った話の続きである。
そもそも二人で山に登ることになったきっかけは、昨年の参議院選挙投票日にはきざしていたらしい。
投票を終えた後私は突然気が向いて、高野山に登りに行った。
その面白くもない話を管理人氏にもしたのだったが、そのせいで氏は登りたくなっていたらしい。
だが参議院選挙の頃は暑かったから、車窓から吹き込む風も気持ちがよかった。
二月は寒かったから、車窓は固く閉じて開くことがなかった。
山の気候は下界より十度も低かったから、快適に過ごすことができた。
冬山の気候は下より十度も低かったから、歩いても歩いても汗をかかなかった。
単なる愚痴である。
そんなことは管理人氏にはどちらでもよかったろうが、私は二度登ったことになるので、どうしても二つの経験を比較してしまう。
私の住む街から高野山までは一筋道で、電車を乗り換えずに行くことができる。
ケーブルカーの乗車賃が高いので、片道一千円くらいかかるのだが、つながり自体は良いわけだ。
いい立地だと思う方がいらっしゃるかとも思う。
だが私は参議院選挙の行われたその日、三千円しか持たずに旅路についたのであった。
今考えて、どうしてあんな妄動をしたのかさっぱり分からない。
心の内にどこか鬱屈するものがあって、吹き飛ばしたかったのだろうか。
それは分からないけれど、汽車は一筋道を爽快に走り抜けて高野山が見えてきた。
ケーブルカーで山腹に降りた後、バスに乗り換えることになる。
氏と訪れたときに、歩けるものかなと思って駅の人に聞いたところ、一時間の雪中行軍になるという。
しからば無理だということで、二度とも私はバスでお山に引き上げてもらった。
しかし、お金の問題は常に我々を縛り付ける。
一度目のとき、ポケットには千八百円弱しか入っていなかったことを思い出しては、今でも冷汗をかく。
バスで細道を揺られながら、頭でそんな暗算ばかりしていたので、風景はさっぱり頭に入って来なかった。
私は小学校の頃、算盤三級暗算五級だった。
その暗算力に照らしてみるに、どうも山頂までは行けそうにない。
しかし、ではどこまで行けるかが判然としない。
暗算は五級だったし、脳みそがガタガタ揺られているので仕方がない。
不安になって、とうとう入口の女人堂の傍の停車駅で降りてしまった。
そんなところで降りるのは、私一人だった。
開けた現在では、女性であっても奥に行く。
そういうツアーがある。
私はお金がないばかりに、男女平等の叫ばれるこのご時勢に、人夫以下の扱いを受けて、女人堂を見て、帰りのバスに乗ってそのまま帰って行った。
今思うと、選挙の日に行ったのがまずかったのかも知れない。
奥の院に入る前には一礼と手水での手洗いが欠かせない。
世俗極まった投票用紙に指を汚し、手も洗わずに登ろうとした若造を、お大師様が見逃さなかったのかとも反省する。
だが、宗教ほど俗なものはないという考え方もある。
結局どっちがどっちだか分からなかったので、今回は余分に万札を財布に突っ込んで、万全の準備を期して管理人氏の後をついて行った。
悪口を書く気ではないのだが、感謝の思いが、あるいは先方には失礼に当たるかもしれない。
泊まらせていただいた宿房の名前を伏せて御田石寺とでもしておく。
足首まで埋まる雪を分けて、御田石寺の門を叩いたのは夕刻近くになってからだった。
迎えに出てくれた大きな坊さんに招き入れられて靴を脱ぐとぱらぱら氷が落ちていく。
「雪国」めいた感慨を私が覚えている間、管理人氏はしゃがんで何かうごうごしておられた。
氏の靴は、脱ぐのもはくのもちょっと時間のかかる靴である。
寺の中は明りをつけておらず、薄暗い。
この時に氏が「陰影礼賛」と呟いたような気がするが、ひょっとしたらそれは朝の礼拝のときだったかもしれない。
見渡す限りの暗い畳の海を越えていくのだが、畳の上に大統領でも歩けそうな赤絨毯が一筋伸びている。
客の足を気遣ってのことなのか、踏み荒らされる畳を気遣ってのことなのか。
どちらでもいいが、もし絨毯がなかったら、広くて暗い畳のどこを歩いていいのか分からなかったので私は安心した。
私どもの入った日輪の間は、丁寧に温められていて、入った途端私の眼鏡が曇ったほどである。
管理人氏は、真中に据えられたコタツが嬉しいと言って早速足を差し入れた。
服を脱いで、荷物を置いて私たちがくつろぐ間、似たような坊さんが二三人出入りして、手もとが落ち着いていなかった。
叙述の順序を破って、時間を少し飛ばすが次回またすぐに戻す。
布団を敷いてもらっている間、あちらも無言、こちらも無言でテレビは点いていなかった。
お互い構えているような調子で、息が詰まって仕方なかったが、もしかしたら坊さんはサッカーの行方に気をやって無言だったのかとも思う。
敷き終わる頃になって、管理人氏はよっぽど旅慣れた様子で、宿房の周りの見どころを尋ねていた。
坊さんは力仕事に息を弾ませ、しかし困ったように、「お山が全部見所ですのでね」と言った。
(了)