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2005年04月16日

人権擁護法案再考(続え書き2)

抽象的な総論規定よりも各論規定の積み上げを

 私は、「人権侵害」「差別」という広範な規定の下に広い裁量を認めるやり方ではなく、民事法・刑事法あるいは労働法などの個々の法規に落とし込んだ具体的な規制を積み上げるべきだと考えている。人権委員会が広範な分野で人権擁護の任に当たるのなら尚更だ。そもそも規制すべき人権侵害とは、具体的な法規に違反する諸行為のうち、民事・刑事手続でくみ上げられにくい軽微なものとすべきだからである。
 また、これは同時に人権侵害・差別の定義の曖昧さを解消していく極めて有効な手段にもなるだろう。

「差別を定義づける」というのは倒錯である

 反対派が「差別の定義が曖昧である」としたのに対して、@多様な「差別」を定義することは現実問題として困難だし、A何が差別かを決めること自体言葉狩りなど新たな問題を生むのではないか、という反論が見られた。
 @については上記の「各論の積み上げ」の議論がそのまま再反論なるのでここではAの方について考えたい。

 私は表現や言論というものは、皮肉や毒を含んだ物言いはおろか真っ当な議論においても多少の人権侵害的・差別的な内容は混入してしまうと考えている。そして、問題はそれらを全部取り除くことではなく(そんなこと現実的には不可能である)、どの程度までは「必要悪」として受忍し、どこからが人権委員会なり法なりで規制すべき悪質なものと認定するかにあるはずだ。
 これは法律による各種規制一般に言えることだが、規制すべきものの類型・性質だけではなく規制対象の違法性の「程度」も視野に入れなければならない。発想としては、人権侵害を規制し個人の人権を保護するという目的が達せられるうち、最小限度の規制を検討すべき事となろう。つまり、差別の定義で言えば「差別とは何か」ではなく、人権擁護法の目的を達成するのに必要な規制をすべき「差別」とは差別的な「行為」の内どの程度以上の悪質なものとすべきか、ということになる。
 そして規制されるべきレベルの差別「行為」については、明文化するなり現行法規を通すなりして相当程度具体化できるだろう。

 確かに、完全に「人権侵害」や「差別」を定義することは不可能である。文言において解釈の幅を持たせる必要性があることも認める。しかし、一方で、表現行為などの自由を担保するため、できうる限り定義の明確性は追求すべきであることは言うまでもない。広範な人権侵害に対応するために曖昧な規定のままにすべきというのは、あまりに無邪気な発想であるとさえ思う。

 以上より、Aについては、規制のあり方自体を再考すべきである、と再反論しておく。
(この項つづく)

《関連記事》
ダメなもの「人権擁護法案」
人権擁護法案再考(覚え書き1)
・人権擁護法案再考(覚え書き2)

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2005年04月14日

人権擁護法案再考(続え書き1)

 最初に、以前書いたダメなもの「人権擁護法案」について。
 アップ後、あちこちでなされている議論に目を通していると「ちょっと感情的に書きすぎたな」と思うようになった。特に、令状主義云々の箇所は、行政処分は強制力を伴わないので令状主義に反しないことや、現に人権擁護法案と似たような規制を有する法案は山ほどあることを知った。この点については一端持論を撤回することにする。

 ちょっと今猛烈に忙しいのでこの法案についてフォローする時間がないのだが、一応自分なりに見聞した範囲で自分の意見を述べておこうと思う。いかほどの意味があるのかはわからないが、少なくとも私自身のストレス発散にはなりそうだから良しとしておく。

「人権侵害」を十把一絡げに扱うのは果たして効率的か?

 まず私が気になったのは、このことについての具体的な議論があまりなされていないことである。不思議なことに肯定派も「現実にある人権侵害は規制されるべき」と言われなくてもわかっているような抽象的なことしか書かれていなかったりする。
 人権擁護法案の条文に目を通すと、規制されるべき人権侵害はけっこう多岐にわたる。

 (人権侵害等の禁止)
第三条 何人も、他人に対し、次に掲げる行為その他の人権侵害をしてはならない。
 一 次に掲げる不当な差別的取扱い
  イ 国又は地方公共団体の職員その他法令により公務に従事する者としての立場において人種等を理由としてする不当な差別的取扱い
  ロ 業として対価を得て物品、不動産、権利又は役務を提供する者としての立場において人種等を理由としてする不当な差別的取扱い
  ハ 事業主としての立場において労働者の採用又は労働条件その他労働関係に関する事項について人種等を理由としてする不当な差別的取扱い(雇用の分野における男女の均等な機会及び待遇の確保等に関する法律(昭和四十七年法律第百十三号)第八条第二項に規定する定めに基づく不当な差別的取扱い及び同条第三項に規定する理由に基づく解雇を含む。)
 二 次に掲げる不当な差別的言動等
  イ 特定の者に対し、その者の有する人種等の属性を理由としてする侮辱、嫌がらせその他の不当な差別的言動
  ロ 特定の者に対し、職務上の地位を利用し、その者の意に反してする性的な言動
 三 特定の者に対して有する優越的な立場においてその者に対してする虐待
2 何人も、次に掲げる行為をしてはならない。
 一 人種等の共通の属性を有する不特定多数の者に対して当該属性を理由として前項第一号に規定する不当な差別的取扱いをすることを助長し、又は誘発する目的で、当該不特定多数の者が当該属性を有することを容易に識別することを可能とする情報を文書の頒布、掲示その他これらに類する方法で公然と摘示する行為
 二 人種等の共通の属性を有する不特定多数の者に対して当該属性を理由として前項第一号に規定する不当な差別的取扱いをする意思を広告、掲示その他これらに類する方法で公然と表示する行為

 読んでいて疑問に思うのは、こんなに広範な行為を「人権侵害」でくくって一所で解決する必要があるのか、ということである。以下二つほど例を挙げてみる。

・事業主としての立場において労働者の採用又は労働条件その他労働関係に関する事項について人種等を理由としてする不当な差別的取扱い(雇用の分野における男女の均等な機会及び待遇の確保等に関する法律(昭和四十七年法律第百十三号)第八条第二項に規定する定めに基づく不当な差別的取扱い及び同条第三項に規定する理由に基づく解雇を含む。)

 これは労働法の分野で規定すべきことだと思う。しかもこれは労使問題でもあるのだから、わざわざ別個に人権委員で扱わなくても労使問題の一環として処理する方が合理的なのではないか。

・国又は地方公共団体の職員その他法令により公務に従事する者としての立場において人種等を理由としてする不当な差別的取扱い

 これは本来公務員法か公務員の内部規則に定めるべき事だろう。その上で、警察の監察室のように役所内にこれらを取り扱う部署を作れば、わざわざこれらの問題を人権委員に付託する必要もなくなるだろう。

「人権侵害」でくくって何でもかんでも人権委員会に付託するのが合理的で能率的な方法だとは思えない。
(この項つづく)

《関連記事》
ダメなもの「人権擁護法案」
・人権擁護法案再考(覚え書き1)
人権擁護法案再考(覚え書き2)

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2005年01月19日

水曜小論:犯罪に絡む表現の規制について(2)

 このシリーズを書いていると、何かやたらとロリコンの肩を持っているようで正直「辛いなぁ」と思わなくもない。が、それでも敢えて記事を書くのは、「常識」に寄りかかっているだけで性や犯罪について深く検討しようとしない知的怠慢と、自己の見解に潜む差別的な偏見に対して驚くべきまでに無自覚な態度に納得のいかないものを感じるからである。
 だから、ロリコンに義理立てしているつもりは更々無いのだが、こういう事を書いてると私までロリコン呼ばわりされかねないのかなぁ、などと思ったりしてへこんでしまったりもする。orz

 前置きはこのくらいにして本題に入る。ちなみに、前回の分はこちら
 今回は「2.児童ポルノに限らず、そういった表現が特定犯罪を助長するとして規制すべきという見方はあまりに一面的ではないか?」について考えてみたい。
 なお、話を簡単にするために、とりあえず今回は事件に照らして「ロリコン」に話の照準を絞ることにする。

 まず確認しておきたいことは、ロリコンかどうかと少女に虐待を加えるかどうかとは基本的には別問題である、ということである。
 一口にロリコンと言っても、その内容は千差万別である。ブルマ姿の少女の絵を描いて喜んでいる二次コンの入った人畜無害系から、就学年齢以下の子に性行為を強要する鬼畜系まで色々ある。ただ、注意しておかなければならないのは、大多数は実在の少女にいたずら(というか危害)を加えるような危険な奴ではない、ということである。
 四象限で整理すると以下のようになる。

@ロリコン(変態)でなく、 Aロリコン(変態)でなく
 犯罪行為に及ばない。   犯罪行為に出る

Bロリコン(変態)であり、 Cロリコン(変態)であり
 犯罪行為に及ばない。   犯罪行為に出る

 で、これを踏まえた上で、前回も取り上げた大谷昭宏のような意見が出てくるわけである。すなわち、「書くのもはばかれるような幼女や少女を性的に弄ぶというよりは、加虐的、嗜虐的な傾向の強いもの」が世の中に出回っていると、中にはそれに触発・助長されて犯罪行為に走る奴がいる。だから、何らかの歯止めを掛ける必要がある、というものである。

 一見説得的のようにも見えるが、よくよく考えると非常に底の浅い意見である。

 まず、先ほどの四象限を利用するなら、大谷はCだけを見て規制論の正当性を訴えているわけである。しかし、私はBも視野に入れるべきだと思う。すなわち、現状ではロリコンのマンガやアニメで満足している連中が、規制を厳しくすることで欲求不満のはけ口が無くなり、Cへ向かわないかについても検討すべきではないのか。
 これはポルノや性風俗産業の必要悪論(そんな名前かどうかは知らないけれど)などでさんざ言い尽くされてきたことである。今後ロリコン表現を規制したことで「欲望のはけ口が無くなった」として同様の犯罪に出た奴が出てきたら、大谷はどう釈明するのだろう。

 次に、ロリコン表現物による触発・助長を言うが、今回の鬼畜・小林薫に限っていってもそのような触発・助長効果の因果関係は蓋然性レベルでも立証されていない。
 逮捕時の一部報道では、母親が亡くなったことでおかしくなり始めたとか、女性に相手にされなかったり冷たくあしらわれたことで女性に対して歪んだ感情を抱くようになった(だから弱い女性である女児への加害行為へつながった、らしい)などと色々言われている。だとすると、触発・助長するのはロリコンだけじゃないことになる。じゃあ、ロリコンの規制と同様、世の女性にもきしょいオタク系の男を冷たくあしらわず笑顔で話を聞いてやるなどある程度相手をする義務を課すべきだろう(むしろこっちの方がよっぽどこの手の犯罪の抑止につながりそうである)。ついでに、母親にも死なない義務を課してしまえばいいのである
 つまり何が言いたいかというと、要は「わかりやすい答えにすぐ飛びつくな」ということである。ロリコンが悪いだの、母の死が屈折のきっかけだの、そういう外部的な事情に原因を求めれば求めるほど、同じような境遇にありながら鬼畜・小林だけが今回のような卑劣で残忍な反抗に及んだという鬼畜・小林の「特異性」がどんどん浮き彫りになると言う皮肉な結果となる。大谷は、やっぱり犯罪行為に及ぶ者には、それだけの精神的な飛躍をさせる「何か」があるのではとは思わないのだろうか。

 あと、「ロリコンと犯罪は関係ない」という声に対し、

 世の中にはさまざまな人がいる。みんながみんな、きちんと境界を設けられるものではない。そうである以上、なんらかの歯止めをかけることが必要なのではないか。
 (大谷昭宏「フラッシュアップ」(日刊スポーツ 平成17年1月4日))

というのはさすがに乱暴過ぎる。じゃあ、鬼畜・小林の使用したケータイや車だって犯罪行為に供されている以上(というか、これらが犯罪に供されている事例なんて星の数ほどある)、その販売にも当然規制をかけるべきではないのか?
 私は規制がいけないと言っているのではない。規制するならするでいいのだが、それには統計的な資料なり何なりで、その危険性と、原因と危険性との因果関係の立証をしなければならない、と言っているだけである。

 次回、ロリコン表現の規制の範囲とその正当性について書くことにする。
(この項つづく)

《関連記事》
水曜小論:犯罪に絡む表現の規制について(1)
・水曜小論:犯罪に絡む表現の規制について(2)

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2005年01月05日

水曜小論:犯罪に絡む表現の規制について(1)

 昨年の終わり頃、奈良県で起きた幼女誘拐殺人事件の犯人が捕まった。犯人の小林薫(一瞬ドランクドラゴン・塚地かと思った)は典型的なロリコンだとかとも言われているらしく、少なくとも過去にも幼女がらみの犯罪歴(つまり前科)があったのは確からしい。
 この事件を受けて、警察では性犯罪者の前歴をチェックする、いわゆるミーガン法のような制度の導入を検討しているそうである。女児をもつ家庭の自衛、あるいは元性犯罪者の再犯抑止効果を考えると、導入に特に反対する気はない。

 ただ、こういう事件が起きるとすぐ表現を規制したがる声が聞かれる。一例として大谷昭宏の「フラッシュアップ」を挙げておく(現在は削除されている)が*、果たして事はそう単純だろうか。

* なお、大谷の当該記事についてはバーチャルネット思想アイドルやえ十四歳の方で詳細な反論がなされていることを付け加えておく。私もやえ等の議論にほぼ同意である。

 いくつか論点を挙げて整理しておく。

1.ロリコンを変態と断じるのはたやすいが、じゃあ変態とそうでないところの境界はどこか?
2.児童ポルノに限らず、そういった表現が特定犯罪を助長するとして規制すべきという見方はあまりに一面的ではないか?
3.児童ポルノや性暴力の表現についてはいかなる理由に基づき、いかなる範囲で規制すべきか。

 今回は「1.ロリコンを変態と断じるのはたやすいが、じゃあ変態とそうでないところの境界はどこか?」について述べてみたい。

 別に私は殊更ロリコン系の変態を擁護するつもりもないし、そんな義理もない。が、この手の事件が起きるとすぐ頭ごなしに「変態」と切って捨てる向きがあるが、これにはどうしても疑問を抱かざるを得ない。じゃあそもそも「変態」とは何なのか、明確な定義付けをできるものなのか?(出来るもんならやってみろ)と思うからである。

 今回は一部に下ネタを含みます。下ネタが嫌いな人は読むのをやめといた方が良いかもしれません。
 あと、未成年へ。一応「R指定」としておきますが、別にそんなエロくもないと思いますので、特に読みたいというのなら別に止めはしません。が、警告を読んだ上で敢えて乗り越えたのは君の判断であることを忘れないように。

 岸田秀は、我々人間は本能の壊れた動物であると述べている。性に限っても、動物の性行動は全て本能で規律されているのに対し、人間の性行動は千差万別である。性行動だけではない、性的な嗜好も千差万別である。異性に対する好みの千差万別は言うに及ばず、年齢(いわゆるロリ・ショタから熟女マニア、老人好きなんてのもいるらしい)、性別(同性愛者)、対象(人ではなく足、胸、果ては制服などに性欲を感じるフェティシズムなど)、一々挙げていればキリがない。
 これだけバラエティーが豊かなのは、本能に規律された「正解」がないからである。ただ、「正解」がないでは困るので、我々は「文化」によって性的本能に代わる性行動の規範を得ている。
 が、これは所詮は後から与えられた情報に過ぎない。だからそれからはみ出す者が多数いるわけだし、その「規範」の中においても各人の趣味・嗜好が多様化している。

 こうして考えると、皆それぞれどこか「変」なのではないだろうか。
 確かに常識という一定の枠を与えることにより変態を浮かび上がらせることは、ある程度なら出来るのかも知れない。としても、大上段に他者を「変態だ」という意見を見ると、「じゃあそういうあんたはどうなんだ。そこまで明確に他人を変態扱いする以上、変態と普通の基準を出せ」と言いたくもなってしまう。

 ちなみに、現在一般に常識と思われていることでも変わることは十分あり得る。現にフェラチオ*などは、元々風俗嬢のみが使うテクニックだったのが、ビデオデッキとAVの普及により一般にも広がったと言われている。常識を振りかざすのは勝手だが、それを根拠にする以上、その常識自体が流動性を有することについては自覚的である必要があろう。

* フェラチオをご存じないという方はこちらをご参照下さい。ただし、18歳未満は閲覧禁止! あと、自己責任で閲覧して下さい。当方はリンク先を閲覧したことの責任を一切負いませんのであしからず。
 それにしても…へぇっ…俺が使うテクじゃないけど、勉強になるなぁ。

 話を元に戻す。ここまで読んできた方の中には「だっしーは明確な区別が出来ないからといって区別自体を否定するのか?」と誤解された方もいらっしゃるかもしれない。が、そうではない。「普通」と「変態」とは截然と分けられるような概念ではなく、あくまで「偏差」の問題であり、こういう思考の整理が出来ていないことは得てして 「変態」の側にいる連中はどんどんエスカレートして犯罪に走るというような差別的な偏見の温床となることを指摘したかっただけである。
 よくよく考えてみれば、ロリコンの中にだってブルマをはいた小学生のイラストを描いて満足している人畜無害なロリコンもいるだろうし、若い成人女性に性的欲求を覚える「常識」的な強姦犯人だっているわけである(ただし強姦自体に興奮を覚えるサディスティックな強姦犯人は除く)。
 以下は項を改めて書くが、問題は変態かどうかなのではなく、他者の性的自由や身体といったものに対する法益(法的な利益のこと)の侵害があったかどうかなのである。
(この項つづく)

《関連記事》
・水曜小論:犯罪に絡む表現の規制について(1)
水曜小論:犯罪に絡む表現の規制について(2)

《リンク先》
・バーチャルネット思想アイドルやえ十四歳「『フィギュア萌え族』とやらを考える(1)
   『バーチャルネット思想アイドルやえ十四歳
・『フェラチオ&風俗テクニック』(18禁! 閲覧は自己責任で!)

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2004年12月20日

ダメなもの「裁判員制度」(1)

 今週は民主主義についてあれこれ書こうと思っていたのですが、あさってのほうこうBlog様で裁判員制度の記事を拝読したので、さるさる日記時代に書いた「裁判員制度は知的増税である」(2004年9月3日)を再度再録します(「再度再録」は誤植でも重言でもありません。さるさる日記→HP→これ、と二度再録していますから)。
 あと、これは今週書いていくつもりの民主主義の議論と多少とも関連しなくもないので、単なるネタの使い回しとも違います(功を奏するかどうかはわかりませんが、ネタ振りのつもりです)。

 実を申しますと、あさってのほうこう様の仰ることに私も共感を覚えますし、お上意識から脱却し、国政に対する権利と責任を自覚する本当の意味での「国民主権」が実現されることも素晴らしいことだと思います。
 ただ、水は低きに流れるように、そういう理想(というと語弊があるかな、プラス面くらいの意味でご理解下さい)よりも、庶民感覚とはかけ離れた「市民感覚」の介入を許す危険(マイナス面)が遙かに大きいように私は思います。一口に言えば、「国民の司法教育効果<『市民』の司法介入」となるおそれが強いように思われてなりません。
 あさってのほうこう様の仰ることには共感を覚えると先ほど書きました。そのために裁判員制度の導入が果たしてふさわしいのか、その辺は追々論じていこうと思います。その第一弾としてまず、裁判員制度に対する私の危惧を掲載(再録)させていただきます。


裁判員制度は知的増税である

 現在、裁判員制度実施に向け与党で協議が続いている(注:2004年3月25日現在)。裁判員制度の目的は、簡単に言えば、世間知らずの裁判官のトンデモ判決が増えているので、一般庶民の感覚・価値判断を裁判に導入しましょう、というものである。
 しかし、私はこの裁判員制度には反対である。
 理由は二つある。
 まず第一に、裁判員と裁判官による審理の場が、市民運動系・左翼系などの特定イデオロギーを信奉するような一部の「ノイズィー・マイノリティ」の独壇場になる虞があるからだ。
 新聞アンケートなどを見ても、裁判員制度導入には賛成票も多いが、それ以上に裁判員制度は負担であるという意見が多かった。仕事もあるのに裁判員などやってられない、というのが大多数の意見であると推測される。
 そういう一般庶民が負担にしか思わない中で、積極的かつ熱心に取り組むだろう人というのはどういう人だろうか? 死刑廃止論者や加害者の人権保護に熱心な方々などのいわゆる左翼系・人権派であろうことは容易に想像がつく。
 しかも、裁判員制度が適用されるのは、殺人などの重大事件に限定されている。一般人ならば精神的に構えたり、あるいは怯んだりするが、「死刑は適用させない」という信念の人なら積極的に飛びつくだろう。その懸念は大きい。
 教科書問題の採択の場でも、それに限らず地域社会の会合などの場でも、そういった方々が高圧的に持論を展開し、他の(裁判員制度において反映して欲しい感覚・価値判断を有する一般庶民の)方々はその声に押されて何も言わなくなる、というのはよく聞く話だ。一般庶民には「熱心な人(概してこういう人々は「多様な意見」などと言う割には他者の意見に非寛容である)」に対して議論をする余裕も熱意も無いことの方が多い。
 裁判員制度によって一部「市民」の意見のみが反映される虞が強いことが反対理由の第一である。

 第二の理由は、もっと簡単かつ国民の負担の少ない方法で目的を達成できるのではないか、ということである。
 裁判員制度の負担は一般国民にとってあまりに大きすぎる。しかも、これははっきり言って「知的増税」に他ならない。「裁判員制度」「国民主権」「国民が主人公」と言えば聞こえが良いが、要はプロのだらしなさのツケを国民がかぶっているだけである。
 司法に国民の意見を反映させるのに裁判員制度を導入するのは、鶏を割くのに牛刀を用いるようなものである。
 そもそも、国民の声が司法に反映されないのは、裁判の審理を国民が知る機会が少ないことにあると考える。裁判は一般に公開されているとはいえ、平日に裁判を傍聴できる人なんてほんの一握りに過ぎない。本当に裁判の公開を目指すなら、もっと簡単にアクセスできるようにすべきである。
 そこで私は、裁判を「スカパー!」などの衛星放送のテレビで公開すれば十分だと考える(もちろん、強姦・強制わいせつなどの非常にデリケートな裁判については例外措置を考慮すべきであることは言うまでもない)。国民がまず簡単に裁判を見ることができるようにする。国民の声を司法に反映するという目的のためには、こちらの方が先決だろう。
 最後に。司法と国民の意識とのずれを解消するという目的は正しいものだと思うし、それはどんどん推し進めていくべきだと思う。しかし、それをする手段として、裁判員制度という国民を司法の社会に呼びつけるようなやりかたには納得できない。所詮法曹社会も役人社会ということだろうか。
(了)

《トラックバック送信先》
・「裁判員制度お上意識から脱却しよう!
   『あさってのほうこうBlog

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2004年12月13日

ダメなもの「夫婦別姓」(2)

《前書き》

 もう決まり文句のようになってきた感も否めませんが、更新が遅れてすみません。出来るだけ間に合うようにアップしようとは思っているのですが、多忙ゆえ、なかなかそうも参りません。申し訳ありません。
 さて、前回の記事についてよし様からコメントを頂戴しました。それを踏まえて今回は直接別姓論とは関係しないかもですが、「新姓の創出」などについて書かせて頂きます。

 以下は本文。


姓とは「ファミリーネーム」である

 前回も紹介した「たかじんのそこまで言って委員会」で、田嶋陽子は執拗なまでに姓にこだわる発言をしていた。「田嶋陽子」が自分の名前であり、それが変わることは自分が自分でなくなる、というようなことも言っていた。
 正直、そこまで姓にこだわる心情を私は理解できない。

 まず、生まれてから死ぬまでずっと同じ氏名であることが当然であり、それが当然であるということに何らの疑問も差し挟まないことが不思議でならない。
 歴史を紐解けば、幼名があったり、主君の名の一字を拝領したり、何かの折りに改名したりといった例は嫌と言うほど散見される。それに、身も蓋もないことを言えば明治以前まで日本国民の大多数はそもそも姓自体が無かったのである。
 心情の違いと言われればそこまでなのかも知れないが、どうにも理解できない(別に理解したくもないのだが)。

 次に、田嶋はなぜ自分が「姓」にこだわるかを分析したことがあるのだろうか、と疑わざるを得ない。
 田嶋が姓をどのように捉えるにせよ、一般に姓とは家・家族の帰属を示す「ファミリーネーム」である。自分の真意はどうあれ、客観的に見れば、姓に固執することは家(生家)に縛られているという側面が否定できない。普段は男性の無意識的な女性差別意識を指摘したり家制度を激しく批判する田嶋なのに、自分の姓へのこだわりが無意識のうちに家制度思想に縛られているのではないか、とは考えたこともないように思われる。

 結局、姓とは「ファミリーネーム」である。血縁関係を示す基準と言っても良い。だから、田嶋が姓も含めてパーソナルネームとしていることについて、(姓の意味づけについてどこまで個人の自由を認めるべきかという問題もあるが)その前提がちょっとおかしいと言わざるを得ない。

いわゆる「新姓の創出」について

 別姓推進派の論理で一つ合点がいかないのは、なぜそこまで旧来の姓(生家の姓)に固執するかということである。
 仕事上の不都合は、旧姓や通称名の使用の慣行を定着させれば済む話である。一方だけ改姓するのが不平等だとか差別だとか言うのなら、選択的夫婦別姓など「個人の自由」の名の下に差別を温存する妥協的な制度と言わざるを得ない。一方の改姓を不平等・差別と見なす以上、「別姓」にするか「新姓に統一」するかしかないはずだ。

 私は子供の姓をどうするかで両家が揉めるような危険を回避することなどから、夫婦は同姓であるべきだと考える。しかし、その同姓が夫または妻のどちらかの姓でなければならないとは思わない。
 つまり、私は婚姻に際し、どちらかの姓に統一するかの他に新たな姓を創出し、その姓で統一することも認めるべきだと考えている。
 この案については、保守派から「世代間での断絶を誘発する」という批判があるかも知れない。しかし、現在婚姻に伴い姓を変更した多数の女性が実家と断絶したとは思っていないだろうし、断絶するわけもない。そもそもこういう批判自体に「嫁に行く」「夫の家に入る」という考え方が根強く残っているのではないか(ってか、バリバリの「保守派」なら当然の帰結なのかな?)。
 家族を「個人の尊厳と両性の本質的平等」に基づく夫婦とその子と規定するなら(「核家族」の定義そのものである)、新たに家族を作るに際し、新しい姓を名乗ることがあってもいいように思う。

 それに、新姓の創出を認めることには他にも実益がある。
 例えば、現行制度では真弓杜夫という人と森尾真由美という人が結婚すれば、夫か妻のどちらかが「もりお・もりお」「まゆみ・まゆみ」とならざるを得ない。が、新姓の創出を認めればそれを回避することも可能である。
 また、名前がかぶる以外にも「名前のハードル」事例はいくらでも考えられる。いちいち挙げればキリがないが、極端な話、原守という人と宅間真希という人が結婚すれば、「宅間守」か「はらまき」になってしまう。
 名前がかぶるのは便利そうな気もするが、「はらまき」には同情を覚えてしまう。中には「はらまき」になることを決意して結婚された女性に夫への愛の強さを感じる人もいるかも知れないが、「はらまき」を乗り越えた愛とされること自体不憫な気がする。

 そう言えば、うちの父が昔「藤原不二子」という人の話をしてくれたことがある。不二子さんのお父さんが「どうせ嫁に行って名字が変わるんだから」と「不二子」にしたそうなのだが(不二子さんのお父さんは娘が「藤原某」という男性を好きになる可能性を考慮しなかったのだろうか)、その藤原不二子さんは私の父に、
「私、結婚出来なかったら一生『藤原不二子』です」
と言ったそうである。なかなかに切実な台詞だ。
 藤原不二子さんが今どうされているのかは全く存じないが、ご結婚されて姓を変えられていること祈らずにはいられない(個人的には「峰」姓の男性と結婚していて欲しい)。

(この項つづく)

《関連記事》
ダメなもの「田嶋陽子」(1)
ダメなもの「夫婦別姓」(1)
・ダメなもの「夫婦別姓」(2)
お説ごもっとも! だって証拠の貴女が言うんだもの。

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2004年12月11日

ダメなもの「夫婦別姓」(1)

《お詫び》

 今回の記事のアップがかなり遅れてしまいました。申し訳ありません。
 色々忙しかったのもあるのですが、正直なところネタとモチベーションを切らしていました。
 で、2004年12月12日の昼に放送されていた「たかじんのそこまで言って委員会」(讀賣テレビ系)を観ていたのですが、あの番組は良い番組だと改めて思いました。おそらくTVの中では(あくまでTVの中で、ですが)一番見るに耐える議論を展開していますし、かなり踏み込んだ話題も扱います。そして何より、私にネタとモチベーションを与えてくれたのが素晴らしい!
 同番組の具体的な内容については番組HPユウコさん憂国日記を参照下さい。

 以下は本文。


 始めにお断り(言い訳?)しておく。
 今回の論考は、あまりオリジナルなものはない。なぜなら、私としては宮崎哲弥の主張にほぼ賛成だからだ(詳細は宮崎『正義の見方』を参照頂きたい)。
 私の基本的なスタンスは、選択的夫婦別姓制度に反対であり、同姓・改姓の不都合については旧姓・通称名の使用を認めれば解決する(むしろ、これについては夫婦別姓問題に関係なく広まって欲しいと思っている)、というものである。
 あと、論述としては個々の論点について断片的に述べるスタイルをとるつもりである(そういう意味では後でまとめることを予定したカードメモ的な書き方になるかも知れない)。
 なお、参考サイトとして『夫婦別姓の法律学』を挙げておく。

現行民法の規定はそんなに差別的か?

「たかじんのそこまで言って委員会」では、田嶋陽子が「結婚する際に90%以上が男の姓に統一しているのは差別感の表れだ」とか、お得意の「女にだけ負担を強要するな」とか言っていたのだが、これは夫婦別姓制度を導入する理由にはならない。
 これと同様の意見については以前に拙文で反駁したことがあるが、これは社会の慣習の問題である。現行の民法では750条で夫婦間の姓の統一を規定するのみで、男性側に合わせるべき法的な強制は一切ない。そうすると、婚姻に際して女性側の姓に合わせることも別に変なことではないという意識作りをしていくのが筋ではないか。夫婦の姓を男性側の姓に合わせることの代替案として夫婦別姓を作ったって、女性側に合わせるということの違和感(物珍しさ)が消えるわけではない。
 要は、「差別意識」(それを「差別」というかどうかについては大きな疑問符がつくが)の問題と法制度の問題は別個の問題なのである。

* ちなみに、女性差別に敏感なはずの田嶋陽子や福島瑞穂よりも、世の若い男性の意識はよっぽど「進んでいる」。番組中に宮崎がNHKの世論調査についておおざっぱに触れていたのだが、若い男性の30%近くが「どちらの姓にするか特にこだわらない」と回答していたそうである。

* 実は、私も結婚するときに妻方の姓を名乗ってもいいと考えている。そのときは旧姓を通称名かペンネームのように用いるのも良いな、などと高校生の頃から考えたりもしていた。
 が、宮崎はこれをすでにやっているそうである(宮崎哲弥の「宮崎」とは彼の旧姓でありペンネームなのだそうである)。似たようなことを考える人は掃いて捨てるほどいるものだと普段から思ってはいたのだが、なんだか先を越されたようで悔しかったりもする。
…これは余談。

姓に縛られているのは別姓論者も一緒

 現行制度を「男性(男系)優位の家思想の残滓」だと別姓推進派は批判するが、実は彼らこそ姓に縛られているのだ(ちなみに、繰り返し述べているように、男性の姓に合わせるのが圧倒的なのは社会の慣習の問題であり、別姓云々とは本質的には関係ない)。
 彼らが縛られているのは、実家の姓にである。結婚しても生まれたときから使っている実家の姓に固執するのが「家思想」でなくて何だというのだろうか。

 別姓論者の中には、「昔の日本は夫婦別姓だった(源頼朝の妻は「北条政子」である、など)」などと「保守派」を批判するものがある(大学の家族法の教授もこのようなことを仰っていた)。
 しかし、昔の日本の別姓制度は実家に強く縛られた「家思想」に基づく夫婦別姓である。別姓推進派の基本思想からすれば、かかる日本の「伝統」に基づく別姓制度は根拠とできるはずがない。
(この項つづく)

《関連記事》
ダメなもの「田嶋陽子」(1)
・ダメなもの「夫婦別姓」(1)
ダメなもの「夫婦別姓」(2)
お説ごもっとも! だって証拠の貴女が言うんだもの。

《参考文献》
・宮崎哲弥『正義の見方』(新潮Oh!文庫)

《リンク先》
・「たかじんのそこまで言って委員会」(讀賣テレビ系)
・『ユウコの憂国資料室
・『夫婦別姓の法律学

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2004年11月02日

ダメなもの「執行猶予制度」

《前書き》
 ここのところ日記の更新が遅れがちですが、何だかんだと多忙なためです。申し訳ございません。
 もっとも、昨日今日はブログライター「BlogWrite」の導入に追いまくらていただけなのですが(重ねてお詫び申し上げます)。ともかく、執筆環境はぐっと良くなりました。草稿の書きためと、[Enter]キーを押すと段落を改めてしまう(つまり、間に一行入ってしまう。普通の改行をするには[Shift]+[Enter]を押さないといけない)という点では若干不便にはなりましたが、やっぱり圧倒的に書きやすくなりました。
 作業効率が上がったことにより、これからはどんどん更新していけるといいのですが、リンク探してきて貼り付ける手間も、テーマが見つからず悩むことも、テーマについて考えたりするスピード自体もそのままなので(端的に言えば本質的な部分ではパワーアップしていない、ということ)、過度のご期待はされないように願います。ってか、誰も期待なんかしてないか。

 以下は本文。


 父親とドラマのウソについて話しているときの話である。
 たまたま私が、
「よく『懲役5年、執行猶予7年』なんていい加減な判決下してたりするけど、執行猶予は3年以下の懲役・禁固刑にしかつかんし、執行猶予も1年以上5年以内でしかつかん(刑法25条)こと、知らんのかなぁ。もうちょっと調べて脚本書けよ」
と言ったとき、父がこう言った。
「でもな、5年以内でしか執行猶予がつかんと言うのもおかしな話と違うか?
 父は何気なく言ったようだが、私にとっては正直衝撃だった。

 よく考えてみれば、執行猶予制度を一律5年以内に制限する合理的な理由はない。特に、強姦犯人などは嗜好の問題なので治るものではないとも言われており、再犯可能性が高いのは統計上明らかである。そういった人間に実刑を食らわせないのなら、10年、20年の間ずっと執行猶予をつけ続けることである程度再犯可能性を押さえられるのではないか。

 それに、執行猶予判決なら犯罪を犯しさえしなければ娑婆で自由に暮らせるのだ。警察の監視の目が多少あるだろうが、私に言わせれば、再犯可能性の高い犯罪を犯しておいて実刑を食らわず自由放免になろうという考えの方が勘違いなのではないのか。あまりに図々しいと私は思う。

 死刑と無期懲役(実質は懲役20年)というというがあまりに大きく、そちらは議論にもなるが、こういった重罰化も検討に値するのではないだろうか。犯罪結果についての反省と贖罪の意識を本人に委ね、社会生活の中で更正させるという執行猶予制度の趣旨に鑑みれば、長期の執行猶予による法の威嚇も、犯罪の誘惑を受けがちな犯罪者のためになると私は考える。

 法律を学ぶ上で、法律を知らない一般人が感じる素朴な感情を忘れないようにといつも思っている。でも、気づかない間に「法律における当然の常識」に染まり思考が硬直していたようだ。前提や常識を疑ってかかる大切さを、父に改めて教えられたと思う。
(了)

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2004年10月09日

ダメなもの「憲法9条とその信者」

 いつも拝読している名塚元哉『あんた何様?日記』の2004年10月9日分に興味深い記事が載っていた。その記事を取り上げる前に、日記のタイトル「ひろ志です。正直、こんなに怒られるとは思わんかったとです。」はツボをつかれて笑ってしまった。うまいなぁ。
 それはともかく、毎日新聞の記事は以下のようなものである。前回とつながっていなくもないか。

■憲法9条にノーベル賞を! 9月に会結成、印刷労組を中心に全国運動/大阪
◇「平和の重みを知ってほしい」
 戦争放棄をうたう憲法9条に、ノーベル平和賞を――。8日の同賞発表を前に、こんな運動が全国で展開され、大阪でも盛り上がりを見せている。印刷出版業の労働組合を中心に「『憲法9条にノーベル平和賞を!』の会」(東京都文京区)を9月初旬に結成。9条の英訳文をプリントしたTシャツ販売やビラ配布が進められ、今後は海外にも呼びかけていく。
 中小の印刷会社の労組で作る「全国印刷出版産業労働組合総連合会」(約8000人)の女性組合員らが、「市民にわかりやすい形で、9条を取り上げたい」と企画。会を結成して、英訳文をデザインしたTシャツ3000枚を制作し、「憲法9条にもっと光を」と訴えるビラ約4万枚を街頭などで配布している。
 平和賞は個人や団体が対象。受賞の可能性は低いが、同会には市民から約200件のはがきやメールが寄せられ、「署名を集めてノーベル財団に送ったらどうか」「世界中の新聞に意見広告を出そう」などの提案もある。
 同会事務局の小澤晴美さん(40)は「受賞の可能性は別にして、9条の重みを多くの人に知ってもらいたい」と話している。(後略)【鵜塚健】
 (毎日新聞2004年10月8日)

 その前に「平和を維持する国防の重み」を知るのが先だろう。どうやら彼らは、日本の憲法第9条が諸外国から見て一国平和主義を夢想する無責任憲法だと思われていることをご存じないようだ。
 司馬遼太郎はかつて憲法9条をもてはやす連中を「念仏平和主義」と名付けた。司馬の言うとおり、平和とは憲法9条を念仏かお題目のように唱えておけば成就されるものではない。今のところ日本が戦禍に見舞われないのは単に米軍と自衛隊により周辺国とのパワーバランスが保たれているからに過ぎない。

憲法9条は憲法の目的に違反している

 憲法9条は、憲法学の通説に従えば2項によって戦力の保持が禁止され、交戦権も認められていないので自衛隊は違憲だと思うし、自衛戦争も出来ないことになる。実は私もこの解釈自体は妥当だと思う。条文を読む限りそう解するのが一番妥当だと思うからだ。
 しかし、私はこの憲法9条の2項自体が憲法の理念・目的に反するものであり違憲だと解している。従って、9条については軍隊の保持を含めた自主防衛を認める形での改正が必要と考えている。

 前回簡単に説明したように、国家の目的は国民の人格的生存(* ここでの意味は、ただ生きているだけではない、個人の尊厳が保障されたかたちでの生存くらいに解して頂きたい)を保障することに尽きる。個人が尊厳をもって生きられる社会を保障するのが国家の任務である。
 なのに、憲法は9条でもって軍隊の保持はおろか交戦権も否認している。これは、日本人が他国の侵略にあった場合、無抵抗を貫き死か服従を選ばなければならないことを意味する。
 ここに背理がある。国家は国民の人格的生存を保障するための存在であるはずなのに、9条によって日本人は人格的生存を捨てなければならない場合があるのだ。小学校から習う日本国憲法の三大柱は「国民主権」「基本的人権の尊重」「戦争放棄(平和主義)」であるが、これらは有事には矛盾した原理となってしまう。侵略に対して戦争を放棄すれば国民主権と基本的人権の尊重が守れなくなり、前二者を守るためには戦争をするしかない。根本的な理念に矛盾がある以上、「9条のために死ね」という論者(森永卓郎がかつてそんな発言をしたらしい。詳細は『あんた何様?日記2004年3月30日分を参照のこと)でもない限り、前者の選択した採れないはずである。

軍事力のない外交に効果は望めない

 この選択を避けるために、辻元清美などはかつて「日本が侵略されたり戦争に巻き込まれたりしないよう外交努力をするのだ」というような事を言っていた。前文にも「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して」とあるので、外交によって解決すべきだという意見も聞かれた(多分後者は辻元のものではなかったと思うが)。
 しかし、これは外交というものを全く理解していない発言と言わざるを得ない。そもそも、外交とは武力を行使しない戦争であり、戦争とは外交の一手段(最終手段)なのである。ちなみに、日本が米国に強く出られないのも安全保障を米国に頼り切っているからである(一般的な親米保守派の意見)。
 いざというときに軍事力に訴えられ打撃を受けるかどうかは相手の出方を決定的に変えてしまう。アメリカの外交が強いのもそこにあると言えよう。逆に、日本は警告を発するだけでほとんど軍事力を行使しないから、他国はやりたい放題である。中国は日本が実力行使に出ないことを見越して日本の海域で海軍演習を行っている。韓国は日本が実力行使に訴えても取り返すという心配がないから竹島を実行支配(侵略)している。北朝鮮に至っては、日本人を多数拉致するに及んでいる。「平和を愛する諸国民の公正と信義」とやらは一体どこに通用するというのだろうか。
 これは土下座外交をいくらエスカレートしても解決しない。余計舐められるのが関の山だからだ。それに、国税の拠出など軍事力で威嚇してくる公正も信義もない国に卑屈に応じるのは国民の人格的生存(国民一人一人の個人の尊厳)を著しく害しているとも言える。

御利益があるなら憲法に全部書いておけ

 上記の記事の人たちは、Tシャツを配ることで9条の理念が広まると本気で考えているのだろうか。もしそうなら宗教の域に達している。そうだとしても、おめでたいのは脳内にとどめておいてほしい。海外にまでそのおめでたさで恥をばらまかないで頂きたい。
 最後に、9条があるから日本は戦後ずっと平和だったと思っている人に言いたい。なら、護憲などと世迷い言を言わず、以下の条文を憲法に書き足すべく改憲を主張すべきではないのか。
「全て国民は、悪いことをする権利を放棄する」
 さぞかし平和が訪れることだろうと思う。
(了)

《リンク先》
・名塚元哉「ひろ志です。「正直、こんなに怒られるとは思わんかったとです。」
 〃「森永チョコレート
   『あんた何様?日記』 

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2004年10月02日

ダメなもの「性犯罪の法定刑」

 いつも拝読している『灼熱の釘』に強姦犯人についての記事が載っていた。性犯罪やその処罰については思うところがあるので、今回はそれについて述べたい。

 まず、現在の刑法では性犯罪の量刑はどの程度かを概観しておく。刑法典では、わいせつ罪として第22章にまとめられている。が、中には公然わいせつ罪やわいせつ物陳列罪といった、おバカな犯罪もあるので、ここでは俗にいう「性犯罪」に限って挙げる。

(強制わいせつ)
第176条 13歳以上の男女に対し、暴行又は脅迫を用いてわいせつな行為をした者は、6月以上7年以下の懲役に処する。13歳未満の男女に対し、わいせつな行為をした者も、同様とする。

(強姦) 第177条
暴行又は脅迫を用いて13歳以上の女子を姦淫した者は、強姦の罪とし、2年以上の有期懲役に処する。13歳未満の女子を姦淫した者も、同様とする。

(準強制わいせつ及び準強姦)
第178条 人の心神喪失若しくは抗拒不能に乗じ、又は心神を喪失させ、若しくは抗拒不能にさせて、わいせつな行為をし、又は姦淫した者は、前2条の例による。

第179条、180条 省略

(強制わいせつ等致死傷)
第181条 第176条から第179条までの罪を犯し、よって人を死傷させた者は、無期又は3年以上の懲役に処する。

 全般的に量刑が軽すぎる。
 単純な比較だけでは言えないが、財産犯である強盗罪(刑法236条)ですら5年以上の有期懲役なのに、女性の肉体と精神に大きな傷を残す強姦罪が2年以上というのはあまりに軽すぎる。
 致死傷の結果が生じた場合はこれが更に顕著である。強盗致死罪なら死刑か無期懲役しかない(刑法240条)。これに対して強姦致死傷罪は無期または3年以上の有期懲役である。女性の体を蹂躙した上にその命まで奪った犯人の生命は国が保障してくれるそうだ。そんなバカな話があるか。
 フェミニストはこれに激怒しないのだろうか? 日本の刑法は明治以来、ずっと女性の肉体・精神を蹂躙して死に至らしめるという女性の尊厳を根底から踏みにじる蛮行よりも、財産を脅し取ったついでに人を殺す方が罪が重いとしているのだ。フェミニストからそのような主張が聞かれたという話は寡聞にして知らない。

 結論から言えば、強姦罪も法定刑を上げるべきである。スーパーフリー事件を受けて集団強姦罪を新設する際に、法定刑を2年以上から3年以上にするそうだが、それでは生ぬるい。せめて「死刑、無期、または3年以上の懲役」*くらいにしてほしい。被害者は心に深い傷(ある意味死ぬよりつらい苦しみ)を負い、中には自殺する人もいる。婚約が破談になったりと幸せをぶち壊される人がほとんどだ。周囲の偏見や好奇の視線もある(詳しくは ここを参照されたい)。告訴する段になってはセカンドレイプ・サードレイプが待っている。犯罪後もこれだけの苦しみを強いる強姦という犯罪に対し、極刑で報いることがそれほど行き過ぎだとは思わない。

ちなみに、これは現行の殺人罪の量刑である。
 なお、今度法定刑を引き上げる際に殺人罪は5年以上に引き上げられるらしい。「さすがに生きてる強姦と死んでる殺人が一緒ってのはまずいだろう」というのがその理由だそうだ。

 しかも、強姦犯人は再犯可能性が高い(60%が再犯に及んでいる)。こうなると、初犯段階で極刑も踏まえた厳罰に処するしかあるまい。宮刑、あるいはロボトミー手術なんてのもいいかもしれない。

 あと、これは日垣隆が指摘している*ことだが、男性に対する肛門姦や女性に対するそれは強制わいせつ罪にしからならない。少女を襲った際にも、犯した部位が肛門なら6月以上7年以下になるのだ。精神的な苦痛はほぼ同じであるのに、である。立法論としては強姦罪と擬似強姦行為をまとめた犯罪類型を作るべきだろう。もちろん、量刑は死刑を見据えた重いものにすべきである。

これについて日垣の参考図書を挙げておく。
偽善系』(文春文庫)
裁判官に気をつけろ!』(角川書店)
そして殺人者は野に放たれる』(新潮社)

 何の罪もない女性を襲い、力でねじ伏せ陵辱の限りを尽くす鬼畜を優しく遇する現状は、私には到底理解できない。
(了)

《参考文献》
・日垣隆『偽善系』(文春文庫)
 〃『裁判官に気をつけろ!』(角川書店)
 〃『そして殺人者は野に放たれる』(新潮社)

《リンク先》
・『レイプ、強姦魔殺人事件 記録保管所

《トラックバック送信先》
・burn_nail「欲望をのために人を苦しめる奴は死刑でいい
   『灼熱の釘

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2004年09月25日

ダメなもの「死刑は犯罪を抑止しない」

《前書き》

 どうでも良いことですが、今回で「ダメなものはダメ」日記はめでたく連載50回を迎えました(拍手)。しかも、前口上とゆうすけ氏の文章を除いての50回です(更に拍手!)。飽きっぽくて何事も長続きしない私が二ヶ月以上も毎日文章を執筆してきたなんて、ちょっと自分でも驚きです。
 今度は百を目指してがんばりますので今後ともよろしくお願い申し上げます。あと、皆様からご感想をいただけるとやる気がもっと出てきます。コメントの方も是非是非お願いします。

 なお、今回は掲示板にご意見を寄せて頂いたburn_nail様の書き込みを参考にさせて頂いております。

 以下は本文。


 死刑廃止論者が主張している「死刑は犯罪を抑止しない」というのは本当だろうか。

 まず、死刑廃止論者がよく主張する「死刑を廃止しても犯罪が激増していないことは統計上証明されている」というもの。これもよく考えてみれば本当かどうか極めて疑わしい。
 確かに、アメリカで何度か死刑廃止後の犯罪増加率を調べたことはあるそうだが、いずれもはっきりしたデータは出ていない、というのが現状のようだ。犯罪発生率は捜査機関や量刑あるいは景気など、それこそ様々な要素が複雑に絡み合って初めて決定されるものであるからはっきりした結論が出せなくても当然であろう。
 死刑の犯罪抑止力について統計上はっきりとした結論が出せないということは、死刑の犯罪抑止力について統計からだけでは「わからない」というだけであり、死刑の犯罪抑止力が無いことを証明されたわけではない。西洋の論理学を築いてきた哲学者たちは、都合良く結論を置き換える死刑廃止論者をどのような気持ちで見ているのだろうか。

 ちなみに、アムネスティの間違った統計について、日垣隆は『偽善系』などで次のように指摘している。

 アムネスティ・インターナショナル日本支部編『知っていますか? 死刑と人権 一問一答』(解放出版社)は、あたかも死刑廃止国が大半であるかのように書き、一覧表を載せて、死刑廃止が百五か国、残地が九十ヵ国としている。だが、彼らの分類によっても全面的に廃止したAは六十八ヵ国だけであり、通常犯罪でのみ廃止したBや死刑執行をしばらくしていないだけのCは、Aとは本質的に異なる。しかも、Aとされるイタリアの憲法二七条には例外規定があり、したがってBとすべき国だ。同じくデンマークやベルギーなどもAではなくBである。
 アジア人やアフリカ人は計算もできないと、彼らは本気で思っているらしい。

 私は、最後の日垣の理解は好意的に過ぎると思う。単に頭が悪いかイデオロギーにとち狂って客観的に資料を検討できていないだけだと思う。

 百歩譲って、厳罰化を進めれば死刑を廃止しても犯罪抑止力は担保できるとすれば、なぜ死刑廃止論者は死刑の廃止とセットで厳罰化を主張しないのだろうか。
 日本の場合、死刑を廃止してしまうと無期懲役が最高刑になるが、無期懲役は実質懲役十数年というのが現状である。これではあまりに量刑が軽すぎるので、現在の日本では死刑に犯罪抑止力があることを認めることになるはずだ。。
 死刑廃止論者はすぐに欧米を引き合いに出すが、欧米諸国は総じて日本より量刑が重い。イギリスでは五歳の子供にも終身刑を食らわせたりしている。死刑制度問題に取り組み色々調べながら、量刑などの刑罰制度全体については比較しなかったのだろうか。もしそうならずいぶんと近視眼的な研究法だし、気づいていながら死刑廃止と重罰化という代案をセットで主張しないなら、死刑肯定派から「あいつらは加害者の人権だけを偏重し、被害者や一般人の人権や治安のことなんて何も考えていない」と批判されても仕方なかろう。
 どちらにしろ説得的な主張とはとても思えない。

* ちなみに、日本の刑罰の不当なまで軽さについては抜本的な改革を必要とする、と私は思っている。が、これは今回のテーマではないので、論じるのは別の機会に譲る。

 また、長尾龍一「憲法問題入門」(ちくま新書・絶版)には死刑廃止論の論拠の一つに、「終身刑と死刑の威嚇力に大差はない(犯行の瞬間、犯人は興奮しているか、逃げられると思っている)」とある(ちなみに、長尾は死刑存続・廃止については言明していない)。
 しかし、これは故殺(カッとなって殺す)の場合であり、謀殺(計画殺人)の場合に妥当するのか甚だ疑問である。
 たいていの人が死を恐怖するのだから、死刑が本能的恐怖を覚えさせ、以て死刑にも当然犯罪抑止力を期待できるとするのは説得力がないのだろうか。私を含め「死刑になるのは割に合わない」として殺人や強盗などの凶悪犯罪を思いとどまる人間や、「終身刑も嫌だが、死刑はもっと嫌」という人は十分多数派だと思う。
 ちなみに、死刑制度が謀殺を防いだ一例として、前述の日垣隆が挙げられる。日垣は子供の頃に弟を13歳の少年に殺されている。詳細は前掲87頁をご覧いただきたいが、弟を殺した少年が翌日から何もなかったかのようにのうのうと学校に登校し、何も知らないクラスメイトといつも通り笑っていたそうである。弟が勝手に死んだかのような扱いを受けたことについて日垣は「少なくとも私は死刑制度が日本になければ、彼と教師たちを殺していた」と述べている。

 これでも死刑に犯罪抑止力がない、と言えるのだろうか。私にはとてもそうは思えない。
(了)

《参考文献》
・日垣隆『偽善系』(文春文庫)
・アムネスティ・インターナショナル日本支部編『知っていますか? 死刑と人権 一問一答』(解放出版社)

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2004年09月24日

ダメなもの「刑事裁判 〜裁判傍聴記〜」(5)

第三章 これが交通「事故」だとぉ!?

 最後のおっさんは正直、かなりひどかった。交通事故の事案なのに罪名が四つか五つもついていたのだ。罪名のてんこ盛りである。
 それにしてもこのおっさん、見るからに柄が悪い。「ヤ」のつく商売をしてそうだ。

 表の「おしながき」には審理とあったが、判決の予定だったそうだ。が、始まる前に初老の弁護人がいそいそと検察官に近寄り何か言っている。どうでもいいことだが、弁護人はひょろひょろしていて、夏目漱石の「坊ちゃん」に出てきたうらなり君をそのまま年取らせたようだった
 例によって弁論が再開された。示談金を払ったそうである。
 ただ、その払い方というのがまた凄い。今朝になって(!)示談金の残りである3万5千円を、郵便小為替で被害者の元に郵送したというのだ。郵便小為替のコピーを証拠として提出していた。ただ、時間的な余裕がなかったために配達証明書は証拠に出来なかったとか。うらなり弁護人は手に伝票のようなしわしわの小さな白い紙を持ち、媚びるような笑顔を浮かべながら検察の方に近づいていく。

弁護人「これ、証拠化する時間無かったんですけど、事実上の証拠ということで、ね」

 検察官は苦笑していた。少なくともそのように私には見えた。困ったような顔をしていたのは確実だ。
 うらなり弁護人はそのしわしわの紙を今度は裁判官に見せる。

弁護人「これ、証拠化する時間無かったんですけど、事実上の証拠ということで、ね」

 裁判官はうんざりしたような顔でわかりました、と言っていた。手が一瞬「しっ、しっ」と野良犬を追い払うような仕草をしたように見えたのは気のせいか
 裁判官は例によってまた判決を手直しし始めた。二三分ほど手直しをしただろうか。改めて判決を下した。

 判決。懲役十月。
 ただし、三年の執行猶予がついた。

 判決理由を聞いて私は驚いた。罪となるべき事実があまりにひどいからである。
 まず、おっさんは無免許だった。その無免許のおっさんが、車検の通ってない車を運転していた。もちろん自賠責保険にも未加入である。で、ファミレスか何かから出る際に交通法規を破る乱暴な運転をし前を走っていた原付の兄ちゃんをはね、両足に加療17日の打撲・挫傷を負わせている
 何でこんなおっさんに執行猶予がつくのだ? 怪我こそ比較的軽かったのかもしれないが、その犯行態様はある意味で不通の交通事故よりも悪質である。裁判官も判決理由中で「被告人の遵法精神の欠如が著しいことは否めない」とまで言っておきながら、その遵法精神の欠如が著しいおっさんを娑婆に出すとはどういう了見だ!?
 なんでこんなやつに執行猶予を、と判決を立って聞いているおっさんを見て私は驚いた。
 おっさんの両手の小指が無かったからである
 強面で柄が悪そうで、その上縁(エンコ)も詰めているとくれば、これは正真正銘のヤクザ屋さんではないか!?
 そう考えると、車の件も俄然きな臭くなってくる。車検切れの車を転がしていたのも、単に車検を踏み倒してたのではなく、訳ありの車だったのじゃないか? 「ナニワ金融道」に出てきた取り込み詐欺の横流し品などかもしれない(もっとも、これは立証困難だろうけど)。

 それはさておくとしても、このおっさんは絶対またやる断言してもいい。今回は交通事故でおっさんの無免許運転、怪しげな車の運転などの犯罪行為が発覚したが、普通はこういう犯罪行為が発覚することなんてほとんどないのだろう。要はスピード違反の取り締まりや俗に言う「ねずみとり」と一緒なのだ。おっさんも運が悪かったくらいにしか思っていないのではないか。そのおそれは十分ある。
 更に怖いのは、おっさんが同じ事を繰り返して再び事故を起こしたとき、その事故も加療17日「程度」で済む保証などはどこにもない、ということである。そのときの被害者が人権屋さんになる確率はもっと下がる。この割を食うのはいつも真面目に生きている庶民だ。
 量刑が軽すぎる実刑に処すべきだったと私は今も信じている

 裁判が全て終わり、おっさんとうらなり弁護士は外へでた。おっさんは外へ出るとき、裁判官の方に会釈した。殊勝なことで。
 外で話していたので出にくかったが、待つのも何なので私も外へ出る。おっさんの横を通ったときに、おっさんとうらなり弁護士の会話が聞こえた。

おっさん「先生、あいつ、誰でっか?」
うらなり「さぁ? 傍聴人とちゃいますかぁ?」

 おい、またかよ…。ってかおっさん、裁判よりも俺のことが気になってたのか!?
 もういい加減うんざりした。

 今回、刑事訴訟を見ていろんな意味で勉強になった。犯罪者のこと、刑事裁判のこと、訴訟経済の大切さ、ありふれた裁判の傍聴人は珍獣扱いされかねないこと、そして量刑の軽さ…
 みなさんも機会があれば是非法廷へ足を運ぶことをお薦めする。
(了)

《関連記事》
ダメなもの「刑事裁判 裁判傍聴記」(1)
ダメなもの「刑事裁判 裁判傍聴記」(2)
ダメなもの「刑事裁判 裁判傍聴記」(3)
ダメなもの「刑事裁判 裁判傍聴記」(4)
・ダメなもの「刑事裁判 裁判傍聴記」(5)

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2004年09月23日

ダメなもの「刑事裁判 〜裁判傍聴記〜」(4)

第二章 常習窃盗の累犯・丸刈りの兄ちゃん

 おっさんの審理が終わると、弁護士は退出。おっさんは再び手錠と腰縄をつけられていた。そのとき僕と目があったおっさんは、「お前、誰やねん?」というような目つきで睨まれた。をいをい、いいじゃねえかyo! 「裁判を傍聴するのは国民の権利なんだぞう」と心の中で反論する。

 続いて入ってきたのは丸刈りの細い兄ちゃんであった。何か黒を基調とした上にあれこれプリントされた派手なTシャツにだぼだぼのジーンズを履いている。服装こそまだ明るいが、顔はオウムの信者みたいだった。

 表の「おしながき」には判決とあったので、判決文を読み上げるだけかと思っていたが、弁護人が何やら裁判官に書類を提出している。
 裁判が始まると、裁判官がこう言った。

裁判官「えー、今法廷で判決をする予定でしたが、弁護人から新たな証拠調べ請求がありましたので弁論を再開します」

 へー、こんなことがあるんだ。ならこの兄ちゃんの判決は聞けなさそうである。判決の書き直しかぁ、裁判官も大変だねぇ、などと傍聴席の私は勝手に同情していた。
 証拠というのは、兄ちゃんが盗んだ被害金額合計八万円の弁償と示談の成立というものであった。判決ぎりぎりになってから示談かよ。
 どうやらこの示談金は被告人の母親が支払ったものらしい。示談金を払うのは被告人のためにならないと今まで支払いを拒否していたが、やはり被害者は関係ないのだから、被害金の弁償だけはしておいた方が良いと弁償したのだとか。どうせ弁護人が少しでも罪を軽くするためにと頼み込んだ、いわば最後のあがきだろう。「お母さんは君のことを諦めたわけではないんだからね」などと諭しているのが胡散臭く感じられて仕方がない。
 裁判官は新たな証拠の追加を受け、少しの間小忙しく手元の書類に書き込んだりしていた。数分後、裁判官は顔を上げた。

裁判官「えー、では改めて判決を下します」

 えっ、嘘っ!? もう判決しちゃうの? 書き直さなくて良いの?
 事前に証拠調べ請求がなされることを知っていたのだろうか。それとも、今になって示談したって判決の大勢には影響しないと言うことか。
 裁判官が判決書を読み上げる。

裁判官「被告人を懲役二年六月に処す」

 実刑判決だった。控訴しない限り、この兄ちゃんはムショ入りだ。
 続いて、裁判官は判決理由をかいつまんで読み上げ、説明する。それをかいつまんで説明すると以下の通り。

 まず、被告人は過去に覚醒剤取締法違反、及び窃盗二件の前科があり、法を遵守する意思が極めて弱いと言える。
 つぎに、犯行の動機についてであるが、生活に困窮したわけでもないのに単なる金ほしさから犯行に出たものであり、酌量の余地無はない。

 そして、犯行の形態についてであるが、あらかじめマイナスドライバーを準備した上で、パチンコ屋の駐車場に止めてあった車のドアを所携のマイナスドライバーでこじ開け、以て金品など計8万円相当を奪った本件犯行は計画的であり、悪質である。

 また、逃走時に警察官の制止を聞かず、その警察官を車で引きずるに及んでいる。警察官に怪我がほとんど無かったから良かったものの、一歩間違えれば重大な死傷結果を招いていたかもしれない大変危険な行為であったことに変わりはない。

 以上より、厳罰を以て処するを相当する。

 ただし、一方で被害金額を弁償したことは評価されるので、罪を減軽し被告人を懲役二年六月に処するを相当とする。

 これだけ前科があって、これだけのことをやっておきながら二年六月かぁ。軽すぎやしないか、量刑が
 それに常習犯なのである。本当に8万円しかやってないのか? 余罪がありそうな気がする(ちなみに、これが偏見に基づく発言であることは百も承知である)。
 それに、逃走時には警察官を車で引きずっているのである。「大変危険な行為である」と認めるなら、もうちょっと罪を重くすべきではないだろうか。
 私の心に、日本の量刑の軽さという疑問がむくむくと膨らんできた。

 兄ちゃんが退廷するとき、こちらをものすごい形相で睨んできた。またしても、「お前、誰やねん!」光線だ。「見せもんとちゃうぞ、コラァ!」的な非難の色すら伺えた。
 だから、裁判を傍聴するのは国民の権利だっつってるだろうが!(あんたにゃあ言ってないが、ってかさっきのおっさんにも言ってはいないか…テヘ)

 次の裁判のため、隣に座っていた弁護士とおっさんが法廷に入る。次は交通事故の審理だそうだ。どうでも良いが、このおっさん、どう見てもカタギには見えんのだが…
(この項つづく)

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ダメなもの「刑事裁判 裁判傍聴記」(1)
ダメなもの「刑事裁判 裁判傍聴記」(2)
ダメなもの「刑事裁判 裁判傍聴記」(3)
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ダメなもの「刑事裁判 裁判傍聴記」(5)

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2004年09月22日

ダメなもの「刑事裁判 〜裁判傍聴記〜」(3)

第一章 覚醒剤取締法違反のおっさん

後半戦 ぐだぐだの情状

 あらかたの証拠調べが終わると、今度は被告人調書の取調べに移る。
 この被告人調書にはおっさんの約50年にわたる人生の歩みが凝縮されていた。ざっと要約すると以下の通りになる。

・最終学歴、中卒。(高校中退だったかも)
・20年ほど前に覚醒剤使用で捕まる。
・結婚、二人か三人の子を授かるも、愛人が出来て離婚。愛人の方と再婚する。ちなみに、それ以降前妻と子どもたちに全く連絡を取っていない。
・様々な職を転々とする。この間に後妻(元愛人)と離婚。
・数年前、某地方都市で情状証人(後に出てくる)の経営する家屋解体業者でしばらく働く。
・一年ほど前に免停になって仕事を辞め、職を求めて西成へ出てくる。
・西成での孤独な生活に寂しさを覚え、再びシャブに手を出す。
初めは週一ペースだった覚醒剤が、一年間で日に3度打たねばならない体になる
・逮捕。現在に至る。

 一言で形容するなら「人生、行き当たりばったり」だろう。あるいは「行き当たりばったり人生」だろうか。どちらも大差ない、と言ってしまえばそれまでだが。
 弁護人と検察官で交互に尋問したうち、やや突っ込んで訊かれたのは、何故西成に行ったのかである。
 弁護人は西成にしか職がなかったからだと主張した。確かに、この不景気だ。彼には西成の日雇い労働しか思い浮かばなかったのかもしれない。
 これに対し、検察官はシャブが手に入り易いからではないかと主張した。こうなると20年前の前科が効いてくる。「西成では路上で簡単に覚醒剤が手にはいることを知っていたか」という検察官の質問にも、知ってはいたと答えている。とすると、覚醒剤が手に入りやすいことは知っていたが、職を求めて西成へ行ったというおっさんの発言はにわかには信じられなくなってくる。
 正直、職と覚醒剤の両方を求めて行ったのではないか、と私は思った。

 続いて情状証拠の取調べに移った。
 まず、弁護側は情状証人の取調べを請求した。検察官が同意し、裁判官が証拠決定。証人尋問が始まる。
 すると、隣(といってもかなり距離が離れていたが)に座っていたおっさんが立ち上がり、法廷内に入る。その際、廷吏から宣誓書を渡される。そう言えば前の裁判が終わるのを廊下で待っているときに、廷吏が証人に「ハンコついて下さい」とかやってたな。
 証人が証言台に立つと、廷吏が突然「起立!」と言った。全員が立ち上がる。私もそれにならう。おっさんが偽証をしない旨書かれた宣誓書を読み上げると(宣誓)、着席を許された。

 証人は、先に触れた、昔おっさんが働いていた家屋解体業者の社長である。証人はおっさんを再び雇うことを証言した。仕事の面ではあてがあるから執行猶予をつけてくれ、という弁護人の戦略だろう。証人はおっさんが仕事を辞めた後もちょくちょく連絡を取り合っていたという。
 検察官も反対尋問をする。「証人は本当に被告人を雇いますか?」「被告人は使えますか?」「周りの人間にはこの人を雇うことを言いますか?」「周りの人間が一緒に働きたくないと辞めたりしませんか?」など(当然のことなんだけど)厳しい質問をする。

 証人尋問が終わると、再び被告人が呼ばれた。甲一号証、おっさんの別れた妻子の手紙の取調べが始まる。弁護士が色々いいところをピックアップして読むが、それでも「全く連絡をくれず、今回このような形で連絡を受け大変ショックを覚えています」「(被告人が)罪を償って一日も早く社会復帰してくれることを望みます」という内容。全体的には「 今更何?」という感じが否めない文面だった。後で検察官がおっさんに尋問したときも「この手紙、私も読ませてもらいましたけど…どっちかというとこれ、一緒にがんばろうというよりは、自分で立ち直って、それから会いに来て、という感じの突き放されたお手紙ですね」みたいなことを言われる始末である。

 最後に被告人が尋問されたときも、弁護人はもう一回やり直せるようなことを強調して訊く。おっさんには80を越す親がいるそうで、おっさんは「その親の世話などを少しでもしたい。また、別れた妻子にいくらかでもお金を送りたい」と殊勝なことを言っていた。ただ、 全体的にはおっさんの返しがもう一つだ

 検察官は被告人に、自分の遊び(おっさんはパチンコをよくやるらしい)を我慢して、親の介護や別れた妻子に金を送るなんて出来るのか、と訊いていた。おっさんは「そら、やります」とは言っていたものの、何か誠意が感じられない。さっきから「これ言えばいいんでしょう的な生返事が多いのだ。
 あまりに生返事が続くので検察官が少し業を煮やしたようで、「あなた、本当に自分のやったこと、覚醒剤の恐ろしさわかってるか? 何で法律で覚醒剤が禁止されてるか言ってみて下さい」と怒り気味に訊いた一面もあった。
 あと、検察官に突っ込まれたのは某地方都市にかえって証人の世話になる際の住居である。おっさんは「最初の一ヶ月は車で寝起きしてでもがんばって、給料が出たらそれで住むところを探します」と言っていた。おいおい、弁護人、証人に「最初は住むところも私が面倒見ます」くらい言わせておくべきだったのではないか。少なくとも、家屋解体業をしながら車で一ヶ月以上も生活するなんて、このおっさんにはどう考えても無理やぞ。
 検察官は最後に「お手紙なんかを見ても、あなたは覚醒剤の誘惑も一人で断ち切らないといけないことになる。その上親の介護や別れた妻子に送金もしなければならい。これをやり遂げるにはよほどの意志の強さが必要だけど、出来ますか?」と質問した。出来るわけがない
 私はそう思った。

 そして最後の手続きに入る。検察官の論告求刑。検察官は、近時覚醒剤事犯が増加していることやおっさんの前科を挙げ、厳罰に処すべきであると主張した。
 これに対する弁護人の最終弁論。弁護人は、おっさんに実刑を食らわせると、せっかく面倒見てくれる人(証人)がいるのにその話もパアになるから、社会内での更正(すなわち執行猶予)に依るべきだと主張した。
 裁判官が最後に被告人に発言を促す。

裁判官「最後に、被告人。言っておきたいことはありますか?」
被告人「あのー、今回こんなしょうもないことで捕まってしまいましたが…これからは心を入れ替えてがんばります」

 し、しょうもないことって… 言いたいことはわからんでもないが、もっと他に言い方があるだろう。覚醒剤使用で捕まったことを「しょうもない」と言ってるようにも取られかねんぞ。
 ここまでの手続きが約50分。最後の最後に私は「だめだこりゃ」と思ったのであった。
(この項つづく)

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2004年09月21日

ダメなもの「刑事裁判 〜裁判傍聴記〜」(2)

第一章 覚醒剤取締法違反のおっさん

前半戦 証拠調べ

* 今回はあまり「ダメなもの」は出てこないと思うが、次回以降の前振りと言うことでご寛恕頂きたい。

 法廷内は思ったよりも暗かった。傍聴席は一列しかなかった。驚くほど狭い。これでは病院の待合いの方がましなくらいだ。傍聴人は証人と、あとは被告人の関係者のようだ。事件に関係ない傍聴人は私一人だけだった。

 一件目は覚醒剤取締法違反の審理だった。
 裁判官と検察官はそのまま、先ほど廊下で私の隣で待っていた弁護士が向かって右側の席に着く。
 奥から灰色の制服を着た二人に連れられて被疑者が入ってきた。いかつい体に四角い顔を乗せた、角刈り頭の初老の男性だった。ちょうど私の目の前で腰縄がほどかれて手錠が外される。おっさんは柵の前の長ベンチに、警備員二人に挟まれて座った。ちなみに、私は「警備員二人」と言ったが、実のところ正式には何と呼ぶべきか知らない。

 裁判が始まった。
 まず裁判官がおっさん(=被告人)に名前、本籍、住所を尋ねる。これから裁く奴が誰かをまず確認する「人定質問」という奴だ。

* 最初にお断りしておく。以下の会話は記憶だけで書いているので、細かい発言内容や言い回しが当日のそれとは違うことをご了承頂きたい。

裁判官「名前は?」
被告人「****」
裁判官「本籍は?」
被告人「**********」
裁判官「現住所は?」
被告人「えーっと、住所は…」
裁判官「居住地は?」
被告人「大阪府大阪市西成区********」

 おっさんはどうやら西成の愛隣地区(旧・釜ヶ崎)にある簡易ホテルに住んでいるようだ。日雇いのおっちゃんたちが住んでいる一泊600円かそこいらの素泊まりのところだろう。嘘か真か、たくさんの客を泊めるために、表向きは三階建て、中にはいると五階建て、という消防法を思いっきり無視した構造になっているとかいないとか聞いたことがある。
 話がそれた。元に戻る。

 人定質問が終わると、検察官が起訴状を朗読する。刑事訴訟法の教科書通りの進行だ。

…あの、私という傍聴人がいるんですから、もうちょっと大きな声で読んで頂けませんかね。マイクでしゃべってるなら、こっちにも聞こえるようにして頂きたいのですが…

 意外だったのは起訴状朗読が思ったよりも短かったことだ。西成の新今宮近くの路上で売人から覚醒剤を買い、件の簡易ホテルでなんたらとかいう片仮名の薬物(要は覚醒剤)を体内に注射した。あとは薬物を断続的に使用していたとか。五分もかからなかった。
 林真須美だの麻原だの、起訴状の朗読に何時間もかかったとかいうニュースでしか聞いたことがなかったから、起訴状朗読とはもっと時間のかかるものだとばかり思っていた。思いこみとは怖いものである。

 起訴状朗読が終わると、裁判官はおっさんに黙秘権を告知した。

裁判官「あなたには黙秘権が認められています。話したくないことがあれば話さなくても構いませんし、答えたくない質問に対しては沈黙をもって答えとすることも認められます。また、あなたが当法廷において発言したことは、有利不利を問わず証拠となります」

 裁判官は続けて質問する。罪状認否というやつだ。

裁判官「被告人、あなたは今検察官が申し立てた事実に間違いがないと認めますか?」
被告人「はい、間違いありません」
裁判官「弁護人は?」
弁護人「はい、間違いありません」

 弁護人が何と言ったかはほとんど聞こえなかったが、事実関係でははなっから争うつもりが無いのは明白だった。

 日本では、被告人が罪状を認めても証拠調べを省くことは出来ないので、証拠調べの手続きに移ることになる。
 まず、検察官が冒頭陳述をする。冒頭陳述とは、検察官が証拠により証明しようとする事実を明らかにすることである。おっさんがシャブをどこで手に入れ、どこで使ったかを立証する旨、検察官が述べた。
 そして証拠調べ請求である。弁護士は書証に対して争う姿勢を見せず、検察側の書証に全て同意していた。裁判官により証拠決定がなされ、証拠調べに進む。
 検察官は証拠の内訳を飛ばし飛ばし説明していく。甲一号証から三号証までが被告人の調書などで、四号証から七号証辺りまでが注射器、覚醒剤、尿検査の結果、あとはおっさんの腕に残っていた注射痕。色々あって、十号証か乙何号証かでおっさんの前科が出てきた。このおっさん、20年ほど前にも覚醒剤で捕まっていたそうだ。

* 追記
 供述調書は乙号証だったはずなので、後から考えると聞き間違いか記憶違いだと思う。

 全部の説明がざっと終ったところで証拠が提出される。検察官がまず証拠(といっても紙の束である)を二通書記官に渡し、そのうち一通がまず裁判官に、もう一通は弁護士に渡された。

 ここまでで、約20分から30分。本当に流れ作業である。印象としては裁判と言うより会議か事務仕事だ。ドラマなんかではこの辺の事実関係で争い倒すが、普通の事件など所詮こんなものなのだろう。ルーティンワークで淡々と裁判が進められてゆく。
 一瞬、私には手前で座っているおっさんが、ベルトコンベアーの上を流れてゆく「うまい棒」とかぶって見えた。もっとも、おっさんは「うまい棒」と違って流れてゆくわけもなく、ずっと私の眼前に背中を丸めて座ってはいるのだが

 この後は、被告人調書等の請求と取り調べ、そして情状に関する立証と続く。長くなってしまったのでここで一度中断し、続きは次回に回すことにする。
(この項つづく)

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2004年09月20日

ダメなもの「刑事裁判 〜裁判傍聴記〜」(1)

序章 だっしー検察へ行く

 今年の春、私は交通事故を目撃した。
 事故後現場に残ってその場で現場検証に協力し、その後警察で調書も取られた。
 そのときの警察の対応の悪さには言いたいことが山ほどある。それをここで思いっきり暴露してもいいのだが、やめておくことにする。担当の検事さんは非常に腰の低いいい人だったし、これは本題でないからだ。
 でも、ちょっとだけ(笑)。私は偉そうに「警察に協力してやってるんだ」などというつもりも、警察に恩を着せるつもりも毛頭無い。だが、被害者のため、真実発見のため、そして捜査機関のため、事故の解決に協力しようと時間を割いて足を運んでいるのであるしかも、交通事故係の「皆様」に「失礼します」と頭を下げて挨拶しているのである担当以外の人間でも、目が合った奴は会釈の一つくらいしたらどうたお前らの親も警察学校も、お前らに「挨拶」すら教えてないのかよ

 警察で調書をとられてからしばらく後、今度は検察からお呼びがかかった。検事が話を聞かせてほしいとのこと。他に目撃者もいないので、私が見たままを話す必要があることは明白だし、それに法曹を目指すものとして良い経験もしくは勉強になる(特に刑訴の)と喜び勇んで検察へ赴いた(不謹慎?)。

 事情聴取は昼からだっだが、少し早めに着いてしまった。中途半端だったが、検察の待合室で待たせてもらった。向こうには手錠をされた人が、屈強な男数人に囲まれて座っている。なにやら話をしている。

被疑者「刑事さん、ちょっと手錠キツいっすわ。弛めて下さいよ」
刑事 「おーそうか、すまんすまん。これくらいでええか」
被疑者「あー助かります」
刑事 「今逃げてもええんやで」
被疑者「そんな、逃げないっすよ(笑)」
刑事 「そうかー。ははははは」

 何なんだ、このゆるゆるな空気は!? 同じ手錠でも(同じでもないか)名古屋刑務所の受刑者は全く逆だったというのに。必罰主義と人権保障のせめぎ合いはどこへやらそこにあったのは和気藹々とした男たちの団らんだったたとえ男の一人が手錠をしていても、そこにあったのは紛れもなく団らんだった
 でも、まぁそれもいいだろう。

kawatezyou.jpg


 こんなふざけたパフォーマンスよりはよっぽどましだからだ。

 その後も刑事たちはなにやら雑談をしていた。聞くとはなしに聞いていると、彼らの凶行犯係では現在、同僚の鞄の中に鯖や鰯の缶詰をこっそり入れるのが流行っているそうだ。鞄の持ち主はその事実を知らぬまま「何か重いなぁ」と持って帰り、家に帰ってから気づくのだそうである。今度私も誰かにやってみよう。

 しばらくして、事務官に呼ばれて部屋に招かれた。クーラーの効きが良すぎる部屋だった。
 そのときのことも詳しく書きたいのだが、どうも被疑者が私の目撃証言と全く違ったことを言っているそうなので、おそらく否認事件(ごく簡単に言えばドラマなんかで丁々発止やってるような裁判)になることが予想される。なので、私の見た事件の詳細は、公判終了後まで公開を自粛させて頂くことにする。

 一時間半ほどで事情聴取は終わった。調書に指印を押すときに、
「警察は右一指(右の人差し指)、検察は左一指。『ざこ検マル潮』で読んだとおりや!」
などと内心ではミーハー丸出しで浮かれていたことを告白しておく。
 それにしても、検事が読み上げるのをパソコンに打ち込んでいく事務官の打鍵速度の速いこと速いこと。私はM式などに溺れてすっかりいい気になっていたと猛省した。もっとも、こちらは考えながら書いたり何かを見ながら書いたりするので一概には比較できない。負け惜しみじゃないよ。

 せっかくだから、近くにある裁判所で裁判を見ていくことにした。
 民事は審理がダラダラしそうなので、一発で審理を片づけてしまう刑事事件を選ぶ。罪状にも証拠にも同意し、情状証人で酌量減軽を狙う大抵の事件は審理が40分から1時間で終わると聞いていたので、そっちの方が手続きの勉強になるだろう。
 刑事法廷を見てみると、午後3時から覚醒剤事犯の新件がある。これにしよう。後は4時から常習窃盗の累犯の判決、4時10分からは交通事故の審理。続けて傍聴することに決める。

 初めての法廷傍聴でちょっとしたどきどきしていた。前の審理が押しているようで、なかなかお目当ての事件が始まらない。今考えれば、途中からでも傍聴に入っても良かったのだろうが、勝手のわからない私は入ることを躊躇してしまった。ドアの小窓を開け、視力の悪い目をこらして覗いてみると、証言台のところでなにやら女の人が泣いているように見えた。前の事件も覚醒剤事犯の審理である。おそらく母親の泣き落としか何かだろう。くそう、見たかったな。
 結局、前の裁判が終わるまで待った。

 長引いた前の事件が終わり、私はうきうきして入室した。しかし、いざ裁判が始まると、そこで展開されていたのは私の予想を遙かに超えるだめだこりゃだったのである。
(この項つづく)

《関連記事》
・ダメなもの「刑事裁判 裁判傍聴記」(1)
ダメなもの「刑事裁判 裁判傍聴記」(2)
ダメなもの「刑事裁判 裁判傍聴記」(3)
ダメなもの「刑事裁判 裁判傍聴記」(4)
ダメなもの「刑事裁判 裁判傍聴記」(5)

《参考文献》
・高田靖彦『ざこ検マル潮』(小学館) 

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2004年09月14日

ダメなもの「悪態の容認と残虐な刑罰禁止論」

 2004年9月14日午前10時、宅間守に死刑が執行された。

 こういう凶悪犯罪がやりきれないのは、宅間を死刑にしても、殺された八人の児童は戻ってこないということだろう。
 しかも、宅間には改悛の情が一切見られなかった。そればかりか、被害者の遺族の神経を逆なでするような悪態ばかりついていた。「死刑にしてくれ」と言い放つに至っては、(それが宅間の精一杯の虚勢であることはわかっていながらも)極刑に処すことすら奴の望みを叶えてしまうようで悔しい。判決の言い渡しの時、最後の最後まで宅間は被害者遺族の神経を逆なでするような暴言を吐き続けた

 判決の場に至ってまで、被害者の遺族は宅間に傷つけられなければならなかったのだろうか。
 私はそうは思わない。宅間は被害者遺族の神経を逆なですることでストレスを発散していた。ならば、それを封じるべきではなかったか。私としては、何の罪もない児童を八人も殺しておいて開き直っているクズに、更に被害者遺族を罵倒するような機会を与えてしまっていたことが不満でならない。被害者・遺族の心を徒に傷つけるという意味での「再犯」を野放しにしているようなものではないか。
 法改正して、宅間のような罵倒を繰り返す人間には、さるぐつわなりSMの口枷なりつけさせて法廷に出させてもいいと思う。それも空しいことかもしれないが、あのクズに暴言を吐く機会を与えてしまっていたことがものすごく腹立たしい。喚けないことで奴の中に少しでも鬱憤がたまるのなら黙らせてやりたかった。

 宅間に己のしたことを思い知らせるためには、ただ死刑に処すだけでは生ぬるい。死ぬほどつらい目に、死ぬまで遭わせるべきだ。あのクズの言うように、八人もの命はあのクズ一人の命と到底引き合わない。その上誰も内心を裁くことは出来ない。改心はおろか良心の疼きくらいは感じさせたいがそれも出来ないからだ。
 こういうとき、残虐な刑罰もある意味で少しは救いになるのではないかと思う。心の疼きを感じない以上、肉体的苦痛を与えるしかないからだ。少なくとも「こんなきつい目に遭うならあんなことするんじゃなかった」と思わせられる可能性があるし、(たとえそれが空しい一時的なものであっても)こちら側もカタルシスを得られるだろう。
 これが低次元の復讐感情であると言われても構わない。こっちはそんなこと百も承知で言っている。それを踏まえた上で、敢えてそれでもしないよりはましだと思っているだけである。
 むしろ、高次元な倫理が何の足しになると言うのか。死刑制度やその執行に反対するなら、死刑廃止論者はまず死刑囚のところに行って罪の意識を目覚めさせてこい。前非を悔いて死刑よりつらい苦しみを背負って生きるようになったなら、私も死刑に反対してやる(そっちの方が死刑より厳しい罰だからだ)。しかし、「残虐だ」「低次元の報復倫理だ」などと抽象的な理屈を振り回すだけで、一般人の処罰感情を否定するだけの悟りきったようなきれい事(きれい事とも思わないが)を声高に叫ぶだけでは、無責任のそしりは避けられまい。少なくとも、一般多数人の処罰感情を充足できない空理空論が、一般多数人に受け入れられるとは思わない(現に受け入れられていない)。

 凶悪事件の犯人が開き直っているのを見ていて一番悔しく思うのは、「取り返しのつかない現実」というものの残酷さである。被害は取り戻せない上に、犯人の心の中には踏み込めない。「やった者勝ち」になってしまうことはある意味どうしようもない。しかし、その現実がどうしようもなく腹立たしい。
 宅間の死刑が執行されても、やり場のない怒りと悲しみが胸中を去来する。それが悔しくてならない。
(了)

《リンク先》
・名塚元哉「裏韓流は「核の冬のソナタ」で持ちきり!
   『あんた何様?日記

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