抽象的な総論規定よりも各論規定の積み上げを
私は、「人権侵害」「差別」という広範な規定の下に広い裁量を認めるやり方ではなく、民事法・刑事法あるいは労働法などの個々の法規に落とし込んだ具体的な規制を積み上げるべきだと考えている。人権委員会が広範な分野で人権擁護の任に当たるのなら尚更だ。そもそも規制すべき人権侵害とは、具体的な法規に違反する諸行為のうち、民事・刑事手続でくみ上げられにくい軽微なものとすべきだからである。
また、これは同時に人権侵害・差別の定義の曖昧さを解消していく極めて有効な手段にもなるだろう。
「差別を定義づける」というのは倒錯である
反対派が「差別の定義が曖昧である」としたのに対して、@多様な「差別」を定義することは現実問題として困難だし、A何が差別かを決めること自体言葉狩りなど新たな問題を生むのではないか、という反論が見られた。
@については上記の「各論の積み上げ」の議論がそのまま再反論なるのでここではAの方について考えたい。
私は表現や言論というものは、皮肉や毒を含んだ物言いはおろか真っ当な議論においても多少の人権侵害的・差別的な内容は混入してしまうと考えている。そして、問題はそれらを全部取り除くことではなく(そんなこと現実的には不可能である)、どの程度までは「必要悪」として受忍し、どこからが人権委員会なり法なりで規制すべき悪質なものと認定するかにあるはずだ。
これは法律による各種規制一般に言えることだが、規制すべきものの類型・性質だけではなく規制対象の違法性の「程度」も視野に入れなければならない。発想としては、人権侵害を規制し個人の人権を保護するという目的が達せられるうち、最小限度の規制を検討すべき事となろう。つまり、差別の定義で言えば「差別とは何か」ではなく、人権擁護法の目的を達成するのに必要な規制をすべき「差別」とは差別的な「行為」の内どの程度以上の悪質なものとすべきか、ということになる。
そして規制されるべきレベルの差別「行為」については、明文化するなり現行法規を通すなりして相当程度具体化できるだろう。
確かに、完全に「人権侵害」や「差別」を定義することは不可能である。文言において解釈の幅を持たせる必要性があることも認める。しかし、一方で、表現行為などの自由を担保するため、できうる限り定義の明確性は追求すべきであることは言うまでもない。広範な人権侵害に対応するために曖昧な規定のままにすべきというのは、あまりに無邪気な発想であるとさえ思う。
以上より、Aについては、規制のあり方自体を再考すべきである、と再反論しておく。
(この項つづく)
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