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2005年02月03日

ヤングジャンプの本宮ひろ志への制裁?

 本宮ひろ志と言えば、昨年「国が燃える」という作品で南京大虐殺について描いたためにボロカスに叩かれた漫画家である。
 その本宮の最近のヒット作と言えば、「サラリーマン金太郎」である。ドラマ化までされた同作の文庫化が最近始まったが、同作が連載されていたのもヤングジャンプ誌(集英社)である。

 で、そのヤングジャンプ誌で最近始まったのが、鬼才・漫☆画太郎の「珍入社員金太郎」である。
 第一話を立ち読みしたのだが、最初の数頁から笑いをこらえるのに必死にならざるを得なかった。「サラ金」の方では主人公・矢島金太郎は赤ん坊をおんぶしていたが、「珍入」の多摩金太郎の方はおしめだけした裸の老婆をおんぶしている。いきなり眉間を鉄アレイで殴りつけるような反則技だ。
 第一話から面白さ全開だったか、特に面白いのは原作をパロった部分である。「サラ金」の矢島が出社初日にひたすら鉛筆を削るのは、多摩金太郎も同様である。ただし、多摩金太郎は丸太のような太い鉛筆をまさかりで削っていた。後ろでは赤ん坊でなく裸の老婆が四つんばいになって「ばーぶー」とか言っている。もう二度とまともに「サラ金」を読めなくなってしまった。

 それにしてもこの連載、タイミング的には「国が燃える」事件で叩かれまくった本宮ひろ志に追い打ちをかけているようにしか見えない。水に落ちた犬を打つようなことを、「サラ金」と「国が燃える」を連載していたヤングジャンプ誌がしているのである。正直、編集部の意図がわからない。

 それはともかく、今のところこの「珍入社員金太郎」は2005年最高のパロディ作品である。好みは別れので、大丈夫な人にだけオススメする。
(了)

《関連記事》
ダメなもの「本宮ひろ志『国が燃える』への抗議デモ」
ダメなもの「本宮ひろ志『国が燃える』休載」(1)
ダメなもの「本宮ひろ志『国が燃える』休載」(2)
・ヤングジャンプの本宮ひろ志への制裁?

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2005年01月28日

金レビ:安彦良和「機動戦士ガンダム THE ORIGIN」(角川書店)

 この作品の読者の大多数は、恐らくアニメのガンダムをみていた人だと思う。そうすると、私のようにこれを読んでガンダムのストーリーを一から知ろうとする人間は少数派なんだろう。しかも、「富野節」などの周辺の知識を断片的に抱えながら読む人間はもっと少数派なんだろうと思う。
 そう言う意味では、私は非常に特殊な読者だと言えるのかも知れない。
 以下、簡単に感想を。

ストーリーについて

 面白くないわけではないのだが、正直あんまり引き込まるほどのものを感じない。これは恐らく「名作」という評判が私の期待値のハードルを上げたからだと思う。だから「へぇっ、ガンダムってこういう話やったんや」と納得しながら読んだのが率直な所である。

絵について

 正直言って、この手のタッチはあまり好きではない。絵がうまいのは認めるが、何というか、全体的にぼやーっとした感じがあり、それがどうもなじめないのだ。
 これは『聖闘士星矢』などのジャンプ系のはっきりした線の絵(と言って良いのかな?)で育って来たせいかもしれない。最近でも、近くにある漫画は青木雄二や福本伸行といったはっきりした線の絵ばかりである。

 そういえば、ぼやーっとしたというか人物と背景とにメリハリがない絵は昔から苦手だった気がする。『幽遊白書』の後半や『ジョジョの奇妙な冒険』の後半の絵なんかも初見で敬遠してしまい、後々読んでみてハマるというパターンだった。
 ついでにもう少し思い出すと、昔、源氏物語の粗筋を知るために大和和紀『あさきゆめみし』を読んだことがある。あれは途中で投げ出してしまった。最悪の絵だったと言っていい。線が細くてはっきりしない上に、どいつもこいつも同じような顔をしているので見分けがつかなかったからだ。漫画で手っ取り早く源氏のストーリーを押さえようと思った私の目論見は脆くも崩れ去った。『あさきゆめみし』については、いつか色鉛筆で「紫の上→紫」「葵→緑」と額にマークを付けながら読んで「復讐」してやろう、と思っている。
「ジ・オリジン」の方は『あさきゆめみし』ほどではないが、背景と人物が同じタッチで描かれていて見にくいと感じることがある(安彦の『虹色のトロツキー』を読んでいるときも同じ事を感じた)。

 あと、吹き出しの描き方なんかが古くさいと感じる。山岸涼子『日出処の天子』なんかもそうだったが、吹き出しがコマの端にひっついておらず浮いているのである。もっとも、これは別に慣れてしまえば気にはならないのだが。

セリフが良い!

 やっぱガンダムと言えば「富野節」でしょう。ストーリーは知らなくても名ゼリフは断片的に知っていたので、それらが出てきたときは、

キタ━━━━(゚∀゚)━━━━ッ!!

である。

 認めたくないものだな
 自分自身の
 若さ故のあやまちというものを……

 後から冷静に考えれば、「ザク一個小隊を全滅させといてなに斜に構えとんねん」と突っ込んでしまうが、やっぱりかっこいい。

 わたしの弟
 諸君らが愛してくれた
 ガルマ・ザビは死んだ!
 何故だ!!


 坊や……だからさ……

 これもかっこいい! 性格上、一生「坊や」の側にいそうな私にはこのセリフは一生使えないだろう。

 ザクとは違うのだよ、ザクとはっ!!

 CMでもこのセリフは使われていたはずである(聞いた覚えがある)。私は一時期このセリフを濫用していた。

 新しいケータイを買った時、
友達「そのケータイ、凄いな!」
私 「フフ、ザクと違うのだよ、ザクとは!

 ボーリングでターキー(三回連続ストライクの方)を出した時、
友達「おーっ、すっげーっ!」
私 「フフ、ザクとは違うのだよ、ザクとは!

 非常に便利な言葉だった。

 でも、個人的に一番好きなのはアムロのこのセリフだ。

 二度もぶった
 親父にだってぶたれたことないのにィ!!

 うわははははははははは!!
 何を自慢してるんだかよくわからないところが(・∀・)イイ!!
(了)

《関連記事》
今更ながらファーストガンダムを…
・金レビ:安彦良和『機動戦士ガンダム THE ORIGIN』

《参考文献》
・安彦良和『機動戦士ガンダム THE ORIGIN
 〃『虹色のトロツキー』(中公文庫)
・車田正美『聖闘士星矢』(集英社文庫)
・荒木飛呂彦『ジョジョの奇妙な冒険』(集英社文庫)
・富樫義博『幽遊白書』(集英社)
・大和和紀『あさきゆめみし』(講談社漫画文庫)
・山岸涼子『日出処の天子』(白泉社文庫)

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2005年01月27日

今更ながらファーストガンダムを…

 子どもの頃から、私はガンダムのアニメをほとんど観たことがない。友達の持ってたSDガンダムのカードダスを見せてもらったり、ゲームボーイの『ナイトガンダム物語』や武者ガンダムのゲームはやったりしていたが、ストーリー自体は全然知らなかった。唯一買ったガンプラはSDのナイトガンダムだけだ(って、SDはガンプラと呼んで良いのかな?)。だから全然ストーリーを知らないでここまで生きてきたことになる。

 改めて振り返ると、これだけマニアックな自分がガンダムのストーリーを全く知らないというのも不思議な話ではある。行く先々にガンオタが、それこそ山のようにいたというのに。

 ガンダムに何となく興味がわき出したのはここ数年のことだ。大学時代、メールの文末に「ジーク・ジオン」と書いて寄越すT先輩や(これは一度だけだったが)、合宿のバスを待つ間「∀ガンダムは初めてZ以降の商業主義から脱却してファーストの頃に戻ったんだよ!!」と熱弁をふるいまくっていたO先輩(こうしてみるとロクな先輩がいないような…orz)を見るにつけ、そこまでこの人たちの心をつかむガンダムってどんな話なんだろうかという漠然とした興味が少しづつわいてきた、のだと思う。
 といっても、同回生の主将だった奴が下宿や部室にガンプラを飾っているのを見ると、「その玩具もって田舎へ帰れ、里芋小僧!」と心ない言葉を心中で発していたのだから、興味の度合いもたかが知れている(もしかすると、みんなが知っている「ガンダム」という超有名な作品を自分だけ知らないということに劣等感を感じていたのかも知れない…などと一瞬思ったりもしたが、多分興味が向かなかっただけだろう)。

「ファーストガンダム(一番初めのガンダムをこう呼ぶそうだ)は名作だ」というのもこういう人たちから聞いていたので、いつかは観てみたいとは思っていた。安彦良和が「機動戦士ガンダム THE ORIGIN」(角川書店)を連載し始めた時も食指がそそられないではなかったが、買うのは躊躇われた。

 そんな私の背中を押したのは「ケロロ軍曹」である。
 ケロロ軍曹があまりにガンプラに執心している姿を見ているうちに、ガンダムに興味がわいてきた。そういえば安彦良和の漫画も結構な巻数が出ている。しかもわりとアニメに沿って話が進んでいるらしい。ここいらで読んでみよう。

 で、試しに一巻を買って読んでみた。
 この続きは次回のレビューで。
(この項つづく)

《関連記事》
・今更ながらファーストガンダムを…
金レビ:安彦良和『機動戦士ガンダム THE ORIGIN』

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2005年01月14日

金レビ:秋山駿『信長』と香西秀信『論争と「詭弁」』

 1月2日に10時間ドラマ「国盗り物語」を観てしまったせいで、信長について読みたくなってきた。そこで昔買って途中(四分の三くらい)まで読んでほったらかしになっていた秋山駿『信長』を改めて読み直してみた。といっても、夜寝る前に(それも気が向いたときに)一章くらいづつ読み進めているので、同書中の信長はまだ浅井の裏切りにあって京へ逃げ帰った辺りにいる。

 この「信長」、文庫本の表紙には以下のような紹介がなされている。

 日本史上、もっとも非凡、もっとも独創的、もっとも不可解な男――信長。桶狭間から本能寺まで、従来の日本的な発想では理解できなかった信長の行動を、プルターク『英雄伝』、スタンダールの『ナポレオン』など、東西の古典を縦横に引いて明らかにしてゆく。並みいる世界の指導者と対比し、その比類なきスケールの「天才性」に迫る、前人未踏の力業。野間文芸賞、毎日出版文化賞受賞作。

 私も、秋山が言うように、信長という人物が日本的な発想からかけ離れた人物であることには同意するし、その意味で「天才」であることについても同意する。ナポレオンなど、文化を越えた英雄と対比して描き出そうとする試みも面白いし、秋山が描き出す「天才性」は非常に興味深いし納得するものも少なからずある。

史料の評価が恣意的では?

 しかし、そう感じながらも、一方で、どうも読んでいて不満を感じてしまう部分があるのだ。それは史料(および資料)の評価についてである。

 秋山は信長の「天才性」をある程度モデル化して読者に呈示する。そのモデル自体はなかなかに面白いものが多いのだが、そのモデルに照らして史料(『信長公記』や『武功夜話』など)の記述を「私はこれを疑う」「私はこれを信じない」と言われるとちょっと引っかかってしまうのだ。「記述者が信長の天才性を理解できずに書いたからこうなったのだ」という反論を想定した上で敢えて言わせてもらうなら、秋山は自分の中にあるモデルに適合するかしないかで史料を選別しているように見える部分があるのだ。平たく言えば、秋山が想定した天才・信長のモデルという結論から演繹した評価じゃないのか、と思ってしまう*のである。

* 本来なら、同書を引用してどこがどうと指摘しなければならないのだが、時間的な制約からそれを割愛させて頂いた。具体的な批評ではなく、私の漠然とした印象の記述にとどまったことをお断りしておくとともに、読者の寛恕を乞いたい。

史料研究の不足を感じてしまう

 あと、全体的に感じるのが史料研究の不足である。桶狭間については信長の父・信秀がかつてそれに近いことをやっていた事や、楽市・楽座についても斎藤道三という先例があった事も信長の天才性(特にその独創性)を検討する際には視野に入れるべきであろう。

 個人的に物足りなかったのが「キリスト教vs仏教」の宗論についての記述である。これについてはフロイスの『日本史』があるのだが、ここに信長の非凡性があらわれているだけに、それに触れられていないことが残念でならない。

 これについては、香西秀信『論争と「詭弁」』で面白い分析が展開されている。

 ちなみに、香西はレトリックを研究する大学教授であり、その著作は秀作揃いである。香西の『反論の技術』は文句なしの名著であるし、個人的に一番気に入っている『「論理戦」に勝つ技術』は読みやすくて面白いのでオススメである。

 詳細は同書をご覧いただくとして、ここでは最低限の紹介にとどめることにする。
 イエズス会の修道士であるフロイス・ロレンソ組(ちなみに、ロレンソは日本人である)と仏教界代表(?)である日乗上人が信長の御前で宗論(宗教論争)をすることとなった。その中で日乗が「なぜ人間はデウスを讃えなければならないのか?」という質問を発したのだが、それに対してロレンソはこう答える。

 ロレンソ(曰く)、「人々は(デウス様)から絶えず、大いなる、かつ限りない恩恵を蒙っているからである。また人々は、(デウス様)を認め、愛し得るように生命と理性を授かってるのですから、ことに(デウス様)を拝し、仕え奉る義務があるのです。」
 (香西・前掲115頁)

 これに対して、信長が突然議論に割り込んでくる。

「汝が申すがごとくであるならばじゃ、分別をわきまえぬ者、もしくは生まれつきの馬鹿頓馬の連中は(どうなるか)。奴らは(デウス)を讃えずとも差し支えはなかろう。(奴ら) にそうせよと(言っても)無理な話だからな。」
 (香西・前掲115-6頁)

 この信長の質問を香西はこう分析している。

 この質問は、信長の、当時の日本人としては極めて特異な精神を示している。彼は明らかに、事実よりも、ロレンソの論の組み立ての方に興味を持ったのだ。
 (香西・前掲116頁)

 つまり、一般人ならば本当にデウスが理性を与えたかどうかに考えが向くだろうが、信長にとってはデウスが理性を与えたかどうかなどどうでもよかったのである。
 信長がやったことは、相手の議論に乗っかり、相手が出した前提や理論を推し進めること矛盾や不合理を発見し、内部から議論を破壊しようとすることである。
 これについて香西の分析を要約すると以下のようなことになる。すなわち、世の中にはデウスから理性を授かったとは到底思えない「馬鹿頓馬の連中」がいる。彼らはデウスから理性を授かっていない以上、デウスを讃える義務はないことになる。また「(デウス様)を認め、愛し得るように生命と理性を授かってるのですから」と言われたって、愛し得るようにと授かるはずの理性を授かっていない以上、「(奴ら) にそうせよと(言っても)無理な話だ」ということになる。要するに、人間にはデウスを奉らなければならない者と、デウスを奉らなくてもよいものとの二種類が存在することになる。が、それでよいか? と。

 これに対してロレンソは更に切り返すのだが、これ以降の紹介は割愛する。興味のある方は同書をご覧いただきたい。
 秋山も書いているのだが、信長の天才性の一つにはこういった発想が挙げられると思う。当時の日本人は目に見えるもの、具体的なものに固執するという側面が強かったことをフロイスは『日本史』の中で指摘している。ポルトガル人から鉄砲を伝えられたときも、どういう原理で鉄砲から弾が発射されるかということは理解しないままオリジナルそっくりの火縄銃を作ってしまったという有名な話もあるが、これなども日本人が具体的なものには非常に強かったが抽象的な思考については弱かったことを示す一例であろう。
 そう言う日本という文化の中で、具体的な事実に固執せず、論理を追いかけてゆく信長の発想は『日本史』を注意して読めば浮かび上がってきたはずである。

 秋山は『日本史』に目を通さなかったのだろうか。目を通した上で、これらのエピソードに信長の天才性を、百歩譲って発想の特異性を感じなかったというのなら、ちょっと天才を描き出すというコンセプトを掲げてる関係でどうかと思う。

 余談になるが、信長の理屈っぽさについて、香西は同書103頁で以下のようなエピソードを挙げている。

 彼の父が尾張で瀕死になった時、彼は父の生命について祈祷することを仏僧らに願い、父が病気から回復するかどうか訊ねた。彼らは彼が回復するであろうと保証した。しかるに彼は数日後に世を去った。そこで信長は仏僧らをある寺院に監禁し、外から戸を締め、貴僧らは父の健康について虚偽を申し立てたから、今や自らの生命につきさらに念を入れて偶像に祈るがよい、と言い、そして彼らを外から包囲した後、彼らのうち数人を射殺せしめた。

 恐らく信長は祈祷の効果なぞはなっから信じていなかったのだろう。ただ、その祈祷がインチキであることを僧侶たちの命でもって証明する辺り、先の議論と似ていないだろうか。相手の言い分を認めた上で、それを推し進めて破綻に追い込む。いわば詰め腹を切らせるような発想も、信長の天才性を探る上で興味深いものだと思う。
 秋山には、こういった発想についても言及して欲しかった。
(了)

《参考文献》
・秋山駿『信長』(新潮文庫)
・香西秀信『論争と「詭弁」』(丸善ライブラリー)
 〃『反論の技術』(明治図書)
 〃『「論理戦」に勝つ技術』(PHP研究所)

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2004年10月06日

ダメなもの「美味しんぼ」

 皆さんは『美味しんぼ』という漫画をご存じだろうか。現在単行本が89巻まで出ている超人気グルメ漫画である。
 作者は「大衆は豚だ!」の台詞でおなじみ『男組』や『野望の王国』の原作を手がけたミスター反権力・雁屋哲(原作)と、「美味しんぼ」以外目立った作品のない花咲アキラの強力タッグだ。
 内容については私よりもこちらの方がよっぽど的確に「美味しんぼ」の本質(ツッコミ所?)を押さえているのでご参照頂きたい。

 私は、ギャグ漫画としての「美味しんぼ」は大好きだ。海原雄山・山岡士郎親子の読み手が引くくらいの確執と、正に親子としか言えない近似体質(外食の際に不味い物を食べると店の者を呼びつけ容赦ない罵倒を浴びせるところなど)がこの漫画最大の魅力となっている。また、もやしでいじめを解決したりと頭の中がお花畑なお話も結構出てきて笑える。キャラはみんな大まじめなんだが、まともな奴が一人も出てこない辺り、歪みきっていて最高である。
 あと、中国に行ってハクビシンを食うシーンもあるが、SARSの存在を思い出しながら読み返すと別の意味で楽しめる。…これは余談。

 与太は措くとして、「美味しんぼ」が興味深いのは、単なるグルメを語る漫画ではなく、食材へのこだわりを通して添加物付けになった日本の「食」(特に「食の安全」や「食文化」)に警鐘を鳴らしている点にあると思う。
「美味しんぼ」に描いているような本当に美味いものは私も食べてみたいし、ジャンクフードではなく安全な食べ物を食べたい。昨今の狂牛病問題などを見ても、安全な食物は最終的には自前で用意するしか無いように思われる。
 また、鯨が好きな私としては(「若いのにそんなもん好きなの?」と呆れられたことがあるが)食文化についての意見も同意する部分が多い。

 ただ、そういった良い面もある一方で、それ以上に首肯出来ない部分が山ほどある。
 まずは、雁屋の思考や価値観がほぼ旧来の左翼イデオロギーそのまんまということである。「支那そば」という看板を掲げたラーメン屋に対し、「支那は差別語だ」と唐突に断定したり*、日本の戦争責任や従軍慰安婦問題などでは最終的に日本悪玉論に落ち着いてしまう。中国や韓国の裏面を抉ったことは一回もない辺りが、これと対照的で面白い。

* 支那(シナ)という言葉が差別語などではないことについては高島俊男『本が好き、悪口言うのはもっと好き』や呉智英『サルの正義』・『ホントの話』などをご参照頂きたい。

 次に、雁屋は結構勉強不足だったり論理破綻していたりする。「支那」の呼称などイデオロギーに基づいてそう思いこんでいるものは別にしても、有機農法を手放しで礼賛したり*とずいぶん一面的な見解が目立つ。単行本の三巻前で言っていたことと主張が変わっているなどはざらにある。巨人の原をモデルにした選手が生でニンニクを囓っていることに「日本人はニンニクの食べ方を知らない」とダメ出ししておきながら、餃子のタレに生のニンニクを摺り下ろす中国式の食べ方を褒める。雁屋は前に描いたことを忘れてしまっているのだろうか。それともここは笑うシーンだったのか。

* 「有機農法=安全、科学肥料や農薬=危険」という単純な図式で全部説明がつくものではない(詳しくはこちらをご覧いただきたい)。また、化学物質や添加物については日垣隆『それは違う!』なども参照頂きたい。同書は「買ってはいけない」論争を通じて「安全ファシズム」に対し鋭い批判を浴びせている。

 あと「食の安全」を訴えるのは良いのだが、往々にしてそれが原理主義的になっている。
 確かにまがい物の食品が多いことは認める。美味しくて安全なものを食べたいのは私も同じだ。
 だが、1%の「ホンモノ」を訴えるあまり、世に出回っている99%を「偽物だ!」と糾弾し、どうあがいたって「偽物」しか手に入らない一般人(我々)を「偽物を美味いと言って食ってる味のわからない奴ら」と頭ごなしに否定する感覚には正直辟易させられる。雁屋の言うことを全部実践すれば日本は江戸時代に戻るしか無い。
 ホンモノの食べ物「も」手に入るような世の中にはなってほしいが、時にはジャンクフードだって食べたくなるし、それを雁屋に否定される筋合いもない。ホンモノしか認めないあり方とは、それこそ「ファシズム」ではないのか。どうもこの辺りに雁屋の左翼的な独善感が見え隠れする。

「食」は重要なテーマだと私も思う。しかし、それを語る語り口がどうも好きになれない。「美味しんぼ」についても、ほとんどの一般庶民には雁屋のようにホンモノの食材を求める時間も金も無いのに、嫁に七品も料理を作らせるプチ海原雄山みたいな雁屋に「お前らの食ってるものは偽物だ!」と言われてもなぁ…というのが偽らざる感想である。
(了)

《参考文献》
・雁屋哲・花咲アキラ『美味しんぼ』(小学館)
・雁屋哲・池上遼一『男組』(小学館文庫)
・雁屋哲・由起賢二『野望の王国 完全版』(日本文芸社)
・高島俊男『本が好き、悪口言うのはもっと好き』(文春文庫)
・呉智英『サルの正義』(双葉文庫)
・〃『ホントの話』(小学館文庫)
・日垣隆『それは違う!』(文春文庫)

《リンク先》
・『美味しんぼ 海原雄山解剖学
・『農薬のお話 一般編・政策編・疑問編・戯言編−

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2004年09月30日

ダメなもの「岩波書店」

 先に断っておくが、今回は右左の思想ネタではない。活字の話である。

 現在、各出版社の文庫では「新装版」が出版ラッシュを迎えている。有名所では司馬遼太郎や池波正太郎の文庫本が相次いで新装版になっている。昔のつぶれた活字ではなく、オフセット印刷できれいに刷られた大きな活字は見やすいし、行間や字間にも余裕があって読みやすい。
 中には、昔ながらの活字や細かい文字が詰め込まれたページレイアウトが好きという方もいらっしゃるだろう。出版社がページ数を増やして単価を改定(=値上げ)するための方便だ、という批判も見たが、それでもやはり活字が大きくなり見やすく読みやすくなることは大歓迎である。
 ちなみに、人間工学的にはある程度大きな活字で字間・行間とも余裕をもったレイアウトが一番読みやすいと言われている。また、年を取ってくると老眼で細かい字が読みにくくなってくるが、そういう意味でも活字を大きくすることには意義がある。

 そもそも、岩波文庫の旧作に代表されるような昔の文庫本が細かい活字をぎっちぎちに詰め込んだページレイアウトになっていたのは、当時の紙不足を反映してのことである。紙不足が解消されても依然としてレイアウトが改善しなかったのは、活字の組み直しの手間を惜しんでのことであろう。細かい活字がびっしり並んだ方がいかにも難しそう、というインテリ特有の知的優越感などもそれを後押ししたのではないか(つまり、ニーズもあまり無かったということ)。
 最近になって旧作の新装版を出し始めたのは様々な要因が考えられる。技術的要因としては、オフセット印刷の普及が挙げられるだろう。しかし、どちらかというと、出版不況を受けてのことだと私は睨んでいる。
 これは音楽業界と同じ構図である。レコードセールスが落ちてきた業界が何をしたかというと、過去の名曲やベスト版の乱発である。文庫本の新装版もこれと同じと考えるとわかりやすいのではないだろうか。しかも、新装版にする際にさりげなく定価を上げることができる。活字が大きくなったことで老眼になった年配の読者の買い直しも見込めるかもしれない。出版業界にとっては一石二鳥である。

 しかし、気になることがいくつかある。一つは新字・新かなへの改訂である。一例を挙げるなら、昨今新装版が出版された小林秀雄の『考えるヒント』なども、個人的には正字・正かなのままにしておいてほしかった。読者の便宜を図ってのことだろうし、正字・正かなで読みたいのなら全集がある、というのが出版者側の論理なのだろうが、やはり新字・新かなへの書き換えは著作物を勝手に改編することになるような気がして、素直に喜べない。

 もう一つは、今回のテーマである岩波書店である(やっと本題に到達した)。岩波は文庫や新書にそれこそ古典や名著がゴロゴロしている。特に岩波文庫には(まずい訳本も散見されることは措くとしても)岩波文庫でしか読めない世界の名著がたくさんある。それを相も変わらず小さく読みにくい活字のまま刷りを重ねるのは一体どういう了見なのだろう。
 岩波文庫の後ろには岩波茂雄の「読書子に寄す 岩波文庫発刊に際して」という文章が掲載されている。これは、岩波茂雄の知識を広く一般に広めようという熱くも格調高い(単に小難しいだけ?)宣言文である。現在の岩波書店の社員はこの精神を失ってしまったのだろうか。新訳の文庫だけオフセット印刷できれいに刷ってお茶を濁す姿を見て、岩波茂雄は何と言うであろうか。

 この一事を見れば、岩波の商売下手は容易に推測できるだろう。武士道ブームで新渡戸稲造の『武士道』をオフセット印刷・大活字・新レイアウトで刷り直す絶好の機会だった。ワイド版岩波文庫(A5版なんてもはや文庫ではない)も良いけれど、読書子に「携帯に便にして価格の引く機を最主とする」文庫を読みやすい形で提供するのが先ではないのか。
 岩波新書も同様である。清水幾太郎の『論文の書き方』など、昔の青版・黄版などでも現在も売れてる名著はたくさんあるはずである。そう言ったものをもっと読みやすい活字とレイアウトにすればもっと読者は増えるだろう(私などもあまりに字が細かいとうんざりして引いてしまうことがある)。また、活字を大きくすれば、年配の読者が買い直してくれることも見込める。私が岩波の社員だったら、もっと「名著を読みやすく売る」という方向で大々的に宣伝するが、岩波の社員にはそう言った感覚を持った人がいないのだろうか。

 岩波文庫を読みやすくすれば、興味を持って手に取った人が敬遠することも少なくなるだろうし、老眼の年寄りなど「目の不自由な人」にも優しい。左がかって人権や弱者保護を云々するのが岩波だとばかり思っていたが、案外足下の弱者(老眼の読者)のことには目がいかないようだ。
 それに、いつまでも細かい活字を詰め込んで若者と老人の読者を遠ざけている現状は、古典を安価で提供して広く一般人に親しんでもらうという使命を全うする上でプラスに働いているとは到底思えない。
 岩波文庫編集部は、もう一度初心(それも昭和二年当時の)に返って考え直すべきである。
(了)

《参考文献》
・小林秀雄『考えるヒント』(文春文庫)
・新渡戸稲造『武士道』(岩波文庫)
・清水幾太郎『論文の書き方』(岩波新書)

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2004年09月27日

ダメなもの「永江朗『批評の事情』

 今回取り上げるのは永江朗『批評の事情』である。
 実は、この本については単行本のときから知っている。単行本が出た頃に、評論家・批評家を批評するという企画が面白かったので店頭で手に取り、あらかた立ち読みしたことがあった。そのときに感じたことを、今回改めて読み直した上で述べてみたい。

 この本に登場する批評家は(全体的にちょっとサブカル系に偏っているきらいはあるが)有名な人から無名な人まで多岐にわたる。
 引っかかってしまったのは小林よしのりのところである。冒頭からこうあるからだ。

 この項を書くのは本当にいやだった。小林よしのりが嫌いだからだ。言っている内容も嫌いだけど、彼の物言うスタイルが嫌いだ。嫌いというか、気色悪い。生理的嫌悪感だ。

 人の好き嫌いはいかんともしがたい。実際、小林よしのりの漫画は好き嫌いが激しいので、こういうことがあっても不思議ではないし、それをとやかく言うつもりもない。
 しかし、永江はこの本で44人の批評家を「論じて」いるのである。主観と客観を簡単に分離できるとは思わないが、とりあえず個人的な主観(好き嫌い)と客観的な分析や評価は最大限峻別して書かなければならない。
 この点で、永江は完全に失敗している。小林に対する嫌悪感と「ウヨクやウヨク的なものには過敏に反応してしまう私(注:永江のこと)の体質」(p.404)は客観的な視座の担保を不可能にしたようだ。

* 以下、小林よしのりのことを色々取り上げるが、その目的は小林の擁護ではなく、永江の客観的な視点の欠如についてである。誤解無きよう。

 小林よしのりの項では、まず、小林の言論界に与えた評価を相対化(もしくは矮小化)するような物言いが目立つ。
 永江は小林を「『九〇年代の思想・言論状況をがらりと変えた』とまで評価するのは明らかに過剰評価と言うものだろう」と評している。その根拠の一つとしてまず小林の漫画の部数を示す。小林の『新ゴーマニズム宣言special・戦争論』について、「戦争論」は書籍扱いなので、雑誌扱いになる一般漫画とは別カウントでありここに統計のマジックがある、漫画としては全然売れていないのだ、ということを1ページにわたって長々と指摘している。
 これを読んで私が率直に思ったのは「だから何なんだ」ということである。この指摘自体に私はさほどの意味を見いだせない。確かに、売り上げも確かに大事な要素ではあるが、それだけを以て言論・思想界に影響を与えたことを論証しようとするのは無茶だ。どっちかというと、私を含む社会問題に関心がある若者層に多大な影響を与え、同時に少なくないアンチ小林も生み出し(笑)、様々な議論を生み出した事の方をメインに論ずべきではないのか。論壇という狭い土俵での話をしているはずなのに、広く一般のことを引き合いに出して「たいしたこと無い」と断じるのは論法としてずるくないか?
 むしろ、様々な議論を生み出してきたという意味では、小林の影響力は大きかったと言わざるを得ない。社会全体に箝口令が敷かれていたような差別問題に風穴を開け、世間がほとんど注目していなかった薬害エイズ問題について若者の関心を集め、また、戦争問題について「左」に偏りすぎていた空気のこわばりを打破してきた。そして、この変化はやはり小林の表現スタイルと強烈なキャラクターなしにはあり得なかっただろう。少なくとも、事実を振り返ればそう評価せざるを得ない(小林がいなくても現在の思想・言論の状況は現状と変わっていないことを論証できれば話は別だが、まず無理だろう)。
 永江は、「『九〇年代の思想・言論状況をがらりと変えた』とまで評価するのは明らかに過剰評価と言うものだろう」と言っているが、上記を踏まえれば「90年代の思想・言論の状況をがらりと変えた」といってもさほどの過大評価とは思えない。

 永江は小林がよっぽど嫌いらしく、切通理作の項や松沢呉一の項、そして浅羽通明と大月隆寛を扱ったコラムでも小林のことを折りにつけ触れている。永江は小林が気になって仕方がないのだろうな、ということだけはよくわかったが、内容的にはほとんどはどうでも良いような指摘ばかりだ。
 この中で一つだけ、薬害エイズ訴訟後を巡る小林の『新ゴーマニズム宣言Special・脱正義論』について触れておく。
 小林が、薬害エイズ訴訟が集結した後も運動にはまろうとする学生に「運動にはまるな! 後はプロに任せてお前たちは日常へ帰れ!」と言ったことにつき、永江は「薬害エイズ訴訟に関わった青年たちが自分のコントロール下から逃れてしまったこにあるだろう」と考えているようだが、きちんと「脱正義論」を読めばそんな浅薄な結論には至らなかったはずだ。嫌いだから小林の主張を読みとれなかったのか、それとも読解力がなかっただけなのか、あるいは学生は今後も就職もせず薬害エイズ運動に関わり続けて行くべきだと思っていたのかは知らないが、批評をしたいのなら、まずは相手の動機を邪推するのではなく、主張・論旨をきっちり理解する方に努めるべきだろう。

 あと、あちこちにある「歴史修正主義者」という言葉遣いも気になった。「新しい歴史教科書をつくる会」などのいわゆる「右」陣営を指して永江はそう呼んでいるのだが、「歴史修正主義」はさすがにいただけない。「歴史修正主義」というのは自分の思想・史観に都合良く事実をねじ曲げる考え方をいうのだろうが、それは思想の左右を問わず存在するし、逆に言えば、右寄りでも歴史の事実に忠実であろうとする人だってたくさんいる。
 善意に解しても主観丸出しのレッテル、厳しく言えば単なる悪口である。少なくとも、この語を用いたことで、読み手に批評としてのバランスを失している印象を与えてしまっている。

 全体的に見れば批評家の評論に成功しているものも少なからずあった。しかし、小林よしのりとウヨク的なものに対する嫌悪感から「論壇案内」としては失敗した部分も多かった。発想・企画の点では面白いものだっただけに、残念である。
(了)

《参考文献》
・小林よしのり『新ゴーマニズム宣言special・戦争論』(幻冬舎)
 〃『新ゴーマニズム宣言Special・脱正義論』(幻冬舎)
・永江朗『批評の事情』(ちくま文庫)

posted by だっしー at 11:46| 大阪 ????| Comment(0) | TrackBack(0) | 本・雑誌 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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