今回扱うテーマは「敬語」である。が、その初歩の初歩であり(中学校で習うことをおおざっぱに言うだけ)目新しいこともなければ難しいこともない(では今までの記事に「目新しいこと」や「難しいこと」があったのかと切り替えされると自信がないが)。
敬語は難しいとよく言われる。確かに私もきちんとした敬語を使う自信はないし、ましてとっさの時にきちんとした敬語を用いた言葉遣いというのはなかなか出てこないときがある。中学校で国文法を習ったときにも敬語だけはよくわからなかった。とりあえず「です・ます」でしゃべっときゃあいいか、くらいの理解しかなかった。
高校、大学の頃に「きちんとした敬語が使えないといけない」と思って敬語の本を何冊か読んでみたが、「こういうときにはこう言いましょう」「こういう言葉遣いは間違いです」とかを羅列した本ばかりだったので「こんなのを一々覚えんといかんのか…面倒くさぁ」と思っただけであまり理解できなかった。今から考えれば多分単に理解力がなかっただけだったのかも知れない。
古文の授業でも先生が「尊敬語」だの「謙譲語」だのを黒板に図示したりするのだが、それらの概念もよく理解できなかった。国文法の概説書が欲しいと思ったのもこの辺のコンプレックス故のことだと思う。
尊敬語と謙譲語について自分の中で腑に落ちて理解できたのは、恥ずかしながら中学生に国文法を教えるようになってからである。人にものを教えるときの学習効果はやはり凄いものがある。
敬語において最低限理解しておいてほしいことを自分なりに考えた末に辿り着いたのが以下のことである。
敬意を表す方法の根本は、「相手を上に、自分を下に」という「上下関係」の一言に尽きる(イメージとしては「水戸黄門」で印籠出したら全員土下座するアレである)。
そして、相手を上に持ち上げて上下の落差をつけるのが「尊敬語」であり、自分がへりくだることで相対的に相手を上に位置づけて上下の落差を生み出すのが「謙譲語」である(ちなみに、丁寧語は「金」を「お金」というように、単に丁寧に言うだけ)。
用法上のルールとしては、尊敬語は相手の動作に用い、謙譲語は自分の動作に使う。持ち上げるのが相手で、へりくだる(下げる)のが自分であることからすれば自然こうなることになる。
重要なのは、敬語を用いる動作の主体は誰か?(相手側=尊敬、自分側=謙譲)ということである。
これがわかっていると「つまらないものですが…」と近所に旅の土産をもってきたときに、
ああ、この人はつまらないものを俺に押しつけてるのではなく『あなたから見ればつまらないものに映るかも知れませんが、私としては一生懸命お口に合うものを選んだのでどうぞお受け取り下さい』って謙譲の意味で言ってるのだな。なんと奥ゆかしい人だろう。
と考えられるので、「つまらんものなら持ってくるな!」とツッコミを入れて徒に近所づきあいを悪くすることもなくなる。
かなり話がわきへそれた。
こういう「尊敬」「謙譲」の概念からすれば、「おられる」という表現は明らかに間違っていることになる。
「おる」(正仮名遣いでは「をる」)は、基本的に自分の存在を表す「いる」(正仮名では「ゐる」)の謙譲語である。例文をみても、「私はここにおります」「昨日まで札幌におりました」というように「おる」は自分(側)に使う言葉である。
このへりくだりを表す謙譲語を相手の動作に用いるのは明らかにおかしい。
で、どうしたかというと謙譲語の「おる」に尊敬の助動詞「られる」をひっつけたわけである。下げたり上げたりと訳がわからない。
ちなみに、「おられる」という意味のことをいいたかったら基本的には「いらっしゃる」というべきである。ただし、表現上こだわって別の用例を敢えて用いる分には一向に構わないと思う(そういう裏を読むのも読解の一つである)。
この「おられる」の誤用は巷でも結構広まっているように思う。
さすがにどうかと思ったのは教え子から聞いた話である。某中学校では生活指導の先生が「職員室に入るときは『○○先生おられますか?』と訊きなさい」と生徒に指導しているそうである。生徒に敬語を用いるという意識を持たせることには賛成だが、間違った敬語を教えるのはやめて欲しい。同僚の国語教師は何をやっているのだろうか。
もしその生活指導の先生が国語の教師なら…もはや何も言うまい。
(了)


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