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2004年12月23日

民主主義についての小論(2)

 前回の最後に、災害時の時に救済活動の方法について与野党間で政争の具になることを民主主義の欠点(限界?)とする議論に触れた。今回はそれについて少し敷衍したい。

* ちょっとうまくまとまらなかったので全面的に改稿するかも知れません。先にお断りしておきます。

緊急事態と民主的議論

 緊急事態の判断と民主的な議論がどこまで折衝するのだろうか。
 災害などの緊急事態時にその対処に当たるのは政府である。野党も外野から対案や批判の声をあげたりするが、基本的には直接的な関与は出来ない。とすると、野党が首相の決定に従わなければいけない自体というものの実態がよくわからない。まぁ、対策に当たる政府の実質としての内閣は国会に対して連帯して責任を負う以上、国会での野党側による追及を考慮した上での自主規制などがあるのかもしれない。
 が、それが緊急事態と民主主義という視点で論じるべきテーマなのかにはちょっと首をかしげざるを得ない。なぜなら、災害などの緊急事態へ対応するということは行政の仕事であって、これについて国会は行政の行き過ぎをチェックするのが仕事であり、何か新しいルール(法律)をつくる際の原則である民主的議論とは直接的に整合しないからである。
 平たく言えば、新しいルールを作るときと、緊急事態に対応する行政を監視するときには別の場面であり、前者に妥当する民主主義が後者にも妥当するわけではない。こう考えると、行政を監視するという意味で政府に批判や対案をつきつける国会での野党の仕事は必ずしも対立するものではなくなる。それぞれがそれぞれの仕事をやっているだけの話であるとすら言える。

民主主義は墨守すべき原理ではない

 民主主義とは恐ろしく手間のかかる政治的意思決定手段である。主権者の幅を全国民(実質は有権者だが)に広げたのが「民主」の建前であるが、この主権を有する国民が多様な意見を持っているから難しい。単純に多数決で決するとするだけだと多数派による「カズの暴力」に堕ちてしまうおそれがある。そこで、決を採る前に十分な議論が尽くされなければならないわけだが、この一連のプロセスはどうしても時間がかかる。
 平時はそれでいいとしても、これがこと緊急事態となると、そんな悠長なことは言っていられない。多少まずい手段であったり、時には法律に違反してしまうような手段であったとしても、迅速に対処するために政権を担う者がその責任において「政治的判断」を下さなければならない。
 こうして二つの原理をモデルに考えると、たとえ被害が拡大しても民主主義という手続的ルールを守ることに重きを置くか、民主主義を否定しても被害を防ぐことに重きを置くかという二者択一しかないように考えてしまい、前者をとる以上そのデメリットも甘受しなければならないというのも仕方ないように思うのかも知れない。

 しかし、この考え方には、そもそもこんな二者択一自体が馬鹿げているという視点が欠落している。民主主義は近代立憲主義において重要な原則であることは言うまでもないが、何が何でも墨守しなければならない絶対の原則ではない。
 立憲主義においては、民主主義にしろ国民主権にしろ、その究極の目的は「個人の(人権の)尊重」にある。それを実現するための道具である民主主義がかえって個人の人権を損ねるような弊害を起こしているのなら、その部分で民主主義が制限ないし修正されることがあっても全然おかしくはない。

* 実際、現行憲法でも民主主義の補完は色々な形で行われている。というか、人権保障自体が近代立憲主義においては民主主義の制限ないし修正・補完の役割を果たしている。すなわち、国民主権の下、民主的手続に乗っ取った法律によっても侵すことのできない人権を保障することは、民主主義を制限するものに他ならない。

** もちろん、民主主義が近代立憲主義における重要な原則であることは百も承知しているし、その制限については慎重であるべきということにも賛成である。
 しかし、それと「民主主義を奉じる以上デメリットの甘受も仕方ない」とはなっから手直しを諦めるのは明確に違うことを断っておく。

責めを負うべき不作為の有無について

 これは余談になるが、確か前出の記事には、事後的に「もっとこうすべきだった」という反省もしくは改善案的な批判は認められても、何かをしなかったこと(不作為)がダメで責任をとるべきだという批判はおかしいようなことを書いていた(ように思う)。
 しかし、不作為が責められないというのも一概に否定できるものではない。1995年の阪神大震災のとき、時の首相・村山富市は自衛隊を出動させるなどの措置をあまりに講じなさすぎた。該当記事の理屈から言えばこれも責められないことになりそうだが、私はそうは思わない。不作為に対する責任追及については難しいものもあるし、なるべく謙抑的であるべきだとは思うが、その余地が全くないとは思わない。社会通念に照らしても責めを負うべき不作為は存在すると思うからである(そして、阪神大震災のときの村山元首相はその責めを負うべきだったと思う)。
(この項つづく)

《関連記事》
民主主義についての小論(1)
・民主主義についての小論(2)

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2004年12月22日

民主主義についての小論(1)

 今回から数回に分けて民主主義についてあれこれ書いてみたい。
 民主主義についてはすでにたくさんの研究があるので、今更私が何か書いたところで新しい視点や整理を打ち出せるとは正直思っていない。むしろ、比喩的に言えば、屋上屋を架すどころか、きれいな戸板をはがして貧乏くさいトタン板に張り替えてしまうことになるかも知れないことをおそれている。
 だから、本小論については私の理解・整理と思考過程を示すのが主たる目的であることを読者には念頭に置いて頂きたい。ご意見やご指摘を賜ることが出来ればありがたい(終稿を待たずにご指摘下さっても全然構いません)。

民主主義は単なる政治的意思決定手段に過ぎない

 当ブログの読者の方々にはおそらく自明のことだとは思うが、まず始めに民主主義というものは単なる政治的意思決定の一手段に過ぎないところから論を始める。巷間には民主主義について異常な思い入れをお持ちの方が多いように見受けられるからだ(「民主主義」だの「自由」だのを振り回す変な人たちは昔からいる)。

 そもそも、民主主義の根本にあるのは「国家権は国に帰属する」という考え方である。
 そして、これに対置されるのは君主制でも専制政治でもなく、独裁政治である。独裁政治とは「強大な権力をもつ単独者・少数支配者・支配的党派が、集中化された権力機構を通して大衆を操作・動員しつつ行う専断的政治」をいう(広辞苑第四版)。
 平たく言えば、政治的意思決定権がどこに存するか、要は誰が決めるのかというだけの話である。

 で、手段の比較がなされるわけであるが、歴史や公民といった科目で習うのは以下のような対比である。
 民主政治の長所(ないし特徴)としては、主権者である国民の(多数の)意思が反映されることが挙げられる。これは自分たちの意見が反映されるという積極的な意味と、仮にその意見が間違っており損害をかぶることになっても「自分たちが決めたことだから」と納得できる、という消極的な意味を有する。
 一方、独裁政治の短所としては、国民の多数意思が反映されないこと、そしてそれが進むと反対分子の抑圧、引いては人権の抑圧などにつながってゆくことなどが挙げられる。
 ちょっと考えるとこれがいかにおかしいかはすぐご理解頂けるだろう。手段の比較なのだから、長所もあれば短所もあるのが当然である。従来の文脈ではそれが欠落しているのだ。
 独裁政治にだって民主政治と比較したときに優れた面はある。一例を挙げるなら、それは意思決定が早いということである。国民全員の幸福に資する的確な政策が打ち出されるなら、政治的意思決定が早いことは最高の形で機能することになる。逆に、民主政治は意思決定がどうしても遅くなる。災害発生などの緊急事態のときには一々議論を経て意思決定している時間などないことがほとんどである。民主政治の手続きを守るために国民が苦しむことだってあるわけである。

 冒頭からいきなりぐだぐだと書いてきたが、まず私が確認しておきたかったことは「民主主義とは所詮政治的意思決定の道具に過ぎない」ということである。
 主に左寄りの人たちはどうも民主主義(に限った話ではないが)を絶対の真理か金科玉条のごとくあがめ奉るような態度があるが、そうではなく民主主義だって欠陥だらけの道具に過ぎないことをまず書いておいた。

 同根の思想は何も左寄りに限らず見受けられる。どこかで災害時の時に救済活動の方法について与野党間で政争の具になることを「民主主義だから仕方がない」というような文脈で語っているのを読んだ覚えがある。民主主義の限界を示すという点では意義ある議論だと思うし、民主主義を堅持するという論理的一貫性は保たれているとも思うが、民主主義自体を絶対視する視点においては上記の左寄りと変わらないようにも思われる。
 このことについては次回改めて述べることにする。
(この項つづく)

《関連記事》
・民主主義についての小論(1)
民主主義についての小論(2)

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2004年12月10日

ダメなもの「過去についての謝罪」(2)

 前回は戦争という過去の事象と自分との距離感のようなものを書いてみた。正直、自分と過去との距離感や「日本人であること」で負うべき責任などについては、まだまだ論考が足りないと自分で思っている。
 ただ、自分が過去の世代から何を引き継ぐことができ、そして何を引き継いでゆくのかを考えているときに引っかかるのが、「安易な謝罪」を繰り返す日本政府であったり、そういったことを引き出そうとする左巻き勢力の行為であったりする。今回はそれらのうち、後者に対して感じた違和感について書いてみたい。

「個人の尊重」に反しないの?

 十把一絡げには言えないのかも知れないが、いわゆる左翼の人々は、国家を初めとするありとあらゆる社会的集団の縛りから解放された「個人」の人権を尊重していたはずである。犯罪者にも人権がある、前科の公表もプライバシー侵害だと人権を擁護するのも、左翼思想からすれば別におかしなことではない。
 ただ、その彼らが、こと戦争責任の話になると「我々日本人は」と安易に日本人というくくりを持ち出してくるのはどういうことなのだろう。個人の人権尊重に鑑みれば、「日本」という時間的・地理的な条件でもって自分がやってもいないことに責任を負わせるのは明らかに人権侵害である。また、かつて自分がやった犯罪(=前科)についてもプライバシーの権利があると主張することは、自分の父祖の代がやったことについての責任を声高に問うことと矛盾しないのか。
 一方で歴史的・地理的な縛りを「抑圧」であるとして、そこからの解放を訴えてきた左翼思想が、他方で「日本人」という歴史的・地理的縛りを持ち出すのはダブルスタンダード以外の何ものでもない。個人を尊重する人権思想と、日本人が過去の戦争責任を負うことの正当性とは矛盾無く説明できるのだろうか。国家なり共同体なりの枠組みにおける一体性を肯定しない限り不可能だと私は思う。
(この項つづく)

《関連記事》
ダメなもの「過去についての謝罪」(1)
・ダメなもの「過去についての謝罪」(2)

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2004年12月09日

ダメなもの「過去についての謝罪」(1)

 先日、細田官房長官が太平洋戦争中に従軍慰安婦として旧日本軍に強制連行されたと主張する女性2人と会い、「尊厳を傷付け、心からおわびする」と述べたそうだ。
 この件についてはすでにあちこちで批判されているので繰り返さない。詳しくは「REDLOVER」などをご覧いただきたい。
 今回はちょっと目先の違う論点を。

 従軍慰安婦問題に限らず、戦争責任などの問題で私がいつも疑問に思うのは、戦争を直接体験していない我々の世代に謝罪や反省を要求されることである。

個人レベルでの話

 戦争責任の問題を個人(家)と個人(家)の関係にたとえるならば、祖父の代に強盗に入ったことでいまだに責められているようなものである*。祖父は(多少の冤罪も含めた)刑事責任を負って死刑となり、民事上でも損害についての示談が成立している。
 法律上の責任は全て果たした以上、あまり口やかましく加害者を罵り続けることは(増して加害者の子・孫まで「強盗の子・孫」だとして常に謝罪と反省を求めることは)下手をすれば名誉毀損になりかねない。

* 戦前の日本を「強盗」と評価するつもりはないが、話を進める便宜上敢えてこのような乱暴な表現をとらせて頂いた。

 もったいのついたたとえ話で始めたが、私が言いたいのは以下のことである。すなわち、当事者でもない私に、祖父母の世代に「なり変わって」「さも自分がしたかのように」謝罪したり反省したりすることなどはなっから出来るわけがない
 善意だの何だのを振り回す人間に限って、他人の「痛み」だの「苦しみ」だのを「わかった気に」なったりしているが、人の痛みや苦しみなどそう簡単にわかるわけがない。どこかで浅羽通明が言っていたことだが、薬害エイズにかかっていない人間にはどうあがいたって被害者の苦しみなどわかるわけがない。それを安易に「わかる」などということは被害者をバカにした論理である、と。
 これは被害者の苦しみだけではない。加害者の責任についてもそうである。自分がやっていないことに贖罪の気持ちなど持てるわけがない。戦争に関与していない「戦無世代」には過去から学ぶことはできても、過去を反省することなど土台無理な話である

 私は別に「過去の世代がやったことは過去の世代の責任。俺たちの知ったことか」というつもりはない。ただ、当事者でない「戦無世代」には過去のことについて引き継げることに限りがあるし、どう転んだって「加害当事者」にはなれっこない。少なくとも(辛淑玉あたりが要求するような)過去の事柄について「心からの謝罪」や「反省」などできっこない。

国家レベルでの話

 国家レベルについては、日本という国を戦前の大日本帝国から連続したものと捉えれば、過去についての責任を問うことにも一定の合理性があるように思える。
 としても、ここもはやり個人の時のそれと同じく、感情面でのこじれなんてどうしようもないのだから、示談で一応の決着をみるしかない。私人間の場合であれば、加害者の家族がどこかへ引っ越してお互い二度と会わないようにしたりもできるが、国の場合引っ越して以降二度と会わないということができないので、感情のわだかまりは残っているとしても、そこはお互い割り切って付き合っていくしかないと思う。
 それに、国家にしたってその実質は国民によって形成されているものである。その国民の大多数が「戦無世代」になっている現在、謝罪や反省を要求する行為については個人レベルでの議論がそのまま妥当するように思う。
(この項つづく)

《関連記事》
・ダメなもの「過去についての謝罪」(1)
ダメなもの「過去についての謝罪」(2)

《トラックバック送信先》
・REDLOVER「何でも父祖のせいにするな
   『REDLOVER

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2004年11月29日

ダメなもの「安易なバランス感覚」(全訂版)

お詫びと訂正

 今回は当ブログのダメなもの「安易なバランス感覚」について「バーチャルネット思想アイドルやえ十四歳」様より頂戴した反論(やえ様の「安易なバランス感覚?」のこと)に対する回答を掲載させて頂きます。

 その前にまず、やえ様にお詫びします。
 ダメなもの「安易なバランス感覚」は、批判の意図がわかりづらい文章だったと思います。反論を受けて再度読み直してみたところ、言いたかったことを書き落としていたり、論理展開が本題とは別の方向にずれていったりと、やえ様の仰るとおり、批判される方にとってはかなりポイントが捉えにくい文章だったと自分で思いました(しかも、その読みにくい文章を読み解いて反論分を掲載して頂いたに至っては、恐縮しております。また、ご負担をおかけしたと申し訳なくも思っております)。

 次に、やえ様と読者にお詫びした上で、一度ダメなもの「安易なバランス感覚」を撤回させて頂き、その上で書きたかったことをもう一度整理し直し、一から書き直させて頂きます。以下がそう決めた経緯です。
 やえ様のの反論文を拝読してから、ダメなもの「安易なバランス感覚」とその批判対象としたやえ様の「沖縄在米軍ヘリ事件議論に見える曲解暴論」を読み直し、反論文にご指摘のあった「これからの日本の国家ビジョン」も読み直しました。私の文章構成(と思考)の整理がついていない箇所や、内容的な遺漏があったとそのとき率直に思いました。
 で、自分の主張を再度述べさせて頂こうと思った次第ですが、悩んだのはその方法です。当初はダメなもの「安易なバランス感覚」を解説するような形でこの文章を書くつもりでしたが、色々検討している内に以下のような形で改稿することに決めました。
 (1) 一度全文を撤回する。
 理由はいくつかあります。
 一つは、特にバランス感覚云々といった箇所についてダメなもの「安易なバランス感覚」の記述では意を尽くせないと思ったからです。(反論文を拝読したとき)きちんとした形で私の言いたいことを書くには、やえ様の過去の記事などにもきっちり目を通した上でなければならないと思いましたし、それ以上にもっと詳細に論じなければ私の言わんとしていることが恐らく伝わらないと強く思いました。ちょっとまだ自分の中でも整理がついていませんので、勝手ながら今すぐ論じ直すというのは見送らせて頂きました。
 もう一つには、より正確に私の批判の意図を主張するには一から書き直した方がいいと判断したからです。
 (2) 内容を、「沖縄在米軍ヘリ事件議論に見える曲解暴論」で主張されていることへの批判に限定して論じ直す。
 これは(1)の一つ目の理由とも多少関連しますが、ダメなもの「安易なバランス感覚」であれこれ詰めすぎて失敗したことを踏まえ、私が「沖縄在米軍ヘリ事件議論に見える曲解暴論」を読んだときに感じた違和感(とくに論理的なものに関しての)をクリアーにするためです。この意図がどの程度成功したのかは自分では判断がつきませんが、趣旨はご理解頂けたらと思います。
 なお、内容としては小林よしのり擁護論の様相を呈しているかも知れませんが、私としましては「小林よしのりを批判するやえの論理に感じた引っかかり」を一つづつ指摘しただけです。あと、細かい指摘が多くなったのは、基本的なスタンスにそう大きな隔たりがないからだと思います。
 (3) 題はダメなもの「安易なバランス感覚(全訂版)」とする。
 本当は題も改めたかったのですが、色々考えた末、そのままにしました。それは一連の経緯を追う際の便宜のためであり、題それ自体にもう何の意味もありません。
 以上、誠に勝手ではございますが、ご了承頂きたく存じます。

 さて、最後は「論争」について少し。
「名指しで批判」とありましたが、これは単に批判対象の反論権を担保するためで、他意はございません(ですから、これからも批判対象が誰であれ、名指しで批判していく流儀を変えるつもりもございません)。
 また、その上でこういうことを申し上げるのは変な誤解を生むかも知れませんが、以降私が何か批判したとしましても、それが「取るに足りない」と思われたら、スルーして下さい
 大急ぎで弁解しますと、これは「こちらが書いたものについて相手に反論する権利はあっても義務などない」という意味であり、断じて「批判するもしないもあんた次第だよ」という意味ではありません。批判すること自体こちらが勝手にやっているわけですから、反論に値しないと相手に思われたら無視されるのが当然だと思っております。
 ですから、「他のサイトさんからリンクされた形で名指しされれば反応しないのも失礼だろう」と思って下さったことは大変光栄ですし、自分の書いたものに反応して下さったのは大変ありありがたいことだと喜んでおりますが、(反論の意義を見いだせないという意味で)ご負担になるようでしたら、遠慮無くスルーしてやって下さい。

 以下は普段通り常体で記述します。


小林の反論の方法論について

 ちょっと長くなるが、まず議論の流れを追うため、少し引用する。「沖縄を考える??」で小林は沖縄航空自衛隊の自衛官から届いた手紙を取り上げている。

 先生の御主張にあえて反対します。
 普天間基地返還と地位協定改定を主張されることは利敵行為に他なりません。
 (中略)
 自国の防衛は本来、自国でやるべきですし、アメリカの行いには目に余るものがあることも事実です。国家主権の侵害に何も手が打てない我が国の政府のふがいなさにも腹が立ちます。
 そりゃ命令さえ与えられれば尖閣に近づく支那の艦船や竹島の朝鮮人を追っ払ってやります。しかし悔しいかな今の日本にはそれが出来ません。
 今の日本にとって米軍基地は必要なのです。米軍基地が減ることは、それを補う力がない以上力の空白が生じます。
 (中略)
 支那から国を守るためには、ヘリの事故もあえて目をつぶることも致し方ありません。チャーチルは英国を守るためにコベントリーを犠牲にしました。その覚悟なくして国は守れません。
 先生の主張は正しいと思います。しかしそれを今、口にすることは何の利益を生まないばかりか、敵の思惑にのせられるだけです。(『SAPIO』誌、新・ゴーマニズム宣言、小林よしのり著)

 やえ的には、最後の方のご意見はちょっとどうかと思うのですが、それ以外の現実的な部分、すなわち日本には今武力と呼べる武力が無いのでアメリカに頼るしかない、という点は否定の出来ない指摘だと思います。
 しかし、よしりん先生は最後の部分だけを持って否定されます。

 あくまで自衛隊の中の一読者の意見である。自衛隊が「国防のために沖縄を犠牲にせよ」などという乱暴な意見を持っているわけではないので、誤解せぬように!
 しかし案外、親米保守派はこのような非常な合理性を持っていそうだ。その下心を隠すために沖縄に対する無関心を決め込んでいるのだろう。
 沖縄は日本国に常に利用されるだけ、捨て石にされるだけでも構わないというのなら、沖縄は守るべき日本国ではない、と言っているに等しい。(同上)

 やえに言わせれば、どちらが乱暴な意見なのかと言いたくなります。
 確かにこの自衛隊員さんの後半の部分「支那から国を守るためには、ヘリの事故もあえて目をつぶることも致し方ありません」というのは、ちょっと首をかしげたくなります。
 しかしそれだって今の現実を冷静に正しく分析すればのコトであり、ましてなにも「沖縄を捨て石にしろ。沖縄は日本ではない」なんてコトは一言も言っていないのではないでしょうか。

 やえがこれにつき、

 最近のよしりん先生の主張は、このようにある一方の面だけを、最近は反米という面だけをことさら強調して、他のあとの面をその主張の激しさで消してしまうような手法をとっておられます。
 (やえ「沖縄在米軍ヘリ事件に見える曲解暴論」)

と述べていることについては(多少の留保はつけるが)基本的に同意する。

 小林は、自衛隊員の「普天間基地返還と地位協定改定を主張されることは利敵行為に他なりません」「今の日本にとって米軍基地は必要なのです。米軍基地が減ることは、それを補う力がない以上力の空白が生じます」という指摘に答えていない。
 恐らく小林はこの「現場の意見」に反論できなかった(これは私の邪推)のだと思う(が、単に気づいていなかっただけかも知れない)。
 ともかく、自衛官の手紙の文章を引用しておいてこれに答えず、(反論できなかった箇所にはだんまりを決め込み)別の論点だけを取り上げるのは論点ずらしととられても仕方ないし、それを故意にやっているのなら、そういう態度は卑怯と呼ばれてもいいと思う(単に気づいてないだけなら何とも言えない)。

 ただ、自分への批判を取り上げておいてそれに言及しないことについては、暗に相手の主張を認めたものと読者の側がと見なしておけば良いだけのような気もする。あまり潔い態度と言えないのは確かだが、たとえ控えめにでも意思表示を(少なくとも相手の言い分を掲載)している点では、都合の悪い批判を一切無視・黙殺するよりは幾分ましだと思うからだ。

日米地位協定について

 とはいえ、基地の統合については自衛官の言う方が正しいと思うのだが、日米地位協定についてはちょっと疑問を感じる。
 この点、手紙の自衛官ははっきりとした根拠を述べていなかったので何とも言えないが、やえは「米軍の機密保持」という視点も考慮に入れるべきだと指摘している。それについては異論はない。
 が、ここまで考えて新たに疑問が生まれた。
 それは、果たしてヘリの事故だけで日米地位協定改定が全く否定されるのかということである(これはやえにではなく手紙の自衛官への問いになるが)。確かに小林が『沖縄論』でメインに取り上げたのはヘリの事故であるが、後半では米兵による少女の強姦(輪姦?)事件を取り上げている。米兵の性犯罪や基地外での交通事故などについては軍事機密という点では説明がつかないので、日本の司法権(警察権)が及ぶよう改正しても良さそうに思う。
 この点、軍法会議が通常の裁判(特に日本の裁判・量刑)よりもずっと厳しいことを理由に日米地位協定改定を否定する意見を以前耳にしたことがあるが、これも妥当でないと思う。なぜなら、拉致被害者である曽我ひとみさんの夫・ジェンキンス氏が軍法会議にかけられ禁固30日という軽い判決が下ったように、軍法会議の判決・量刑は国の司法機関のそれと異なり、どうとでもなる可能性を有しているし、日本刑法の量刑の問題は事実上のことに過ぎず、そもそも別の問題だからだ。
 やえはヘリの事故についてしかここでは語っていないので、本題でないと言えばそれまでなのだが、日米地位協定の各規定についても「別々に論じるべき」ものがあるのではないかと思ったのでそのことを指摘しておいた。

偏見はやえの方にもあるのでは?

 日米地位協定の改定と日本の自主防衛の問題が別個なのは妥当な指摘だと思う。しかし、それがなんで、

 よしりん先生や、一部反米保守勢力やぷちほしゅは、反米を唱えてさえいれば地位協定の問題も日本独自防衛の問題も解決すると思いこんでいるフシがあります。
 (やえ「沖縄在米軍ヘリ事件に見える曲解暴論」)

になるのかがわからない。増して「さらには唱えていればヘリコプターが事故を起こさなかったんだとも言いたげです」とあるが、少なくとも小林がヘリの事故について描いている『沖縄論』所収の「沖縄を考えるC」の中には見あたらない。「沖縄を考えるC」についてはきちんと読めば、現状の問題点を指摘し「日米地位協定は『運用改善』ではなく『改定』しろ!」と主張している。軍事機密について考慮していないという点で一方的な議論だというのならまだわからなくもないが、この議論から 「反米を唱えてさえいれば地位協定の問題も日本独自防衛の問題も解決すると思いこんでいるフシがあります」とするのはさすがに無理があるように思えてならない。
 この点については「戦争論」以降の小林をどう評価するかということに帰着すると思う。その点については、オマケの方に書いたのでそちらを参照頂きたい。

「捨て石」云々について

 あの下りで言いたかったのは、
(1)小林の批判は親米保守派に向けられたものであり、この自衛官に向けられたもと解するのはちょっと違うのではないか
ということと、
(2)無関心を決め込むことは客観的には沖縄を「捨て石」(と言って悪ければ「犠牲」)にしているという論法はそう「曲解」とも言えないのではないか
という二点である。

 (1)について。
 小林は、

あくまでも自衛隊の中の
一読者の意見である。

自衛隊が「国防のために
沖縄を犠牲にせよ」
などという乱暴な意見を
持っているわけではないので、
誤解せぬように!

しかし案外、親米保守派は
このような非情な
合理性を持っていそうだ。

その下心を隠すために
沖縄に対する無関心を
決め込んでいるのだろう。

沖縄は日本国に
常に利用されるだけ、
捨て石にされるだけでも
構わないというのなら、
沖縄は守るべき日本国では
ない、と言っているに等しい。

 (小林『沖縄論』)

と述べている。その後にある自衛官の手紙に共感を示す辺りにも加味して考えると、ここは親米保守派に向けた批判と解するのが妥当だと思う(形式的には一応批判の範疇にこの自衛官も入るのでちょっとややこしい面もあるが)。
 この点、やえは、

 確かにこの自衛隊員さんの後半の部分「支那から国を守るためには、ヘリの事故もあえて目をつぶることも致し方ありません」というのは、ちょっと首をかしげたくなります。
 しかしそれだって今の現実を冷静に正しく分析すればのコトであり、ましてなにも「沖縄を捨て石にしろ。沖縄は日本ではない」なんてコトは一言もいっていないのではないでしょうか。
 (やえ「沖縄在米軍ヘリ事件に見える曲解暴論」)

と、しているが、これに対して私は「少なくとも文脈上批判の重きを置いているのは親米保守派であり、批判の仕方としてはちょっとずれてないか」ということを指摘したつもりである(細かい指摘で恐縮です)。「やえにはだっしーさんのこの部分は当てはまらないのかなと思っています」は正にその通りで、私の方にも「沖縄を捨て石にしろ」と言っているという意味で言ったのではないことを釈明しておく。

 (2)について。
 これは一応成立する批判だと思う。
 この点も、小林が自衛官を批判しているとするのではなく、米国追従する親米保守派に対してなされていると解するとつながるはずだ。
 つまり、親米保守派は「日米同盟が必要だ」と言っている割に、その「痛み」には無関心を決め込むのか!? それは口では何と言おうと要は沖縄を「捨て石」(犠牲)にしているだけじゃないか!! という文脈で捉えるべきだ。そしてこう解すれば、小林の批判は「曲解」とは言えないことになるということを言いたかった。これも併せて釈明しておく。

* ただ、正直この小林の論法は「暴論」だと思う。北朝鮮の拉致事件の際にも同じような論理を振りかざす人がいたが、一口に「無関心を決め込む」と言っても個人差もあれば個人の事情も違うだろう。確かに沖縄の件についてもある程度の関心は持つべきだと思うが、それを十把一絡げに「関心を持たない奴は沖縄を『捨て石』にしてる」と言ってしまうのは乱暴以外の何ものでもない。

(了)

《関連記事》
ダメなもの「やえ十四歳の小泉首相靖國参拝への評価」
ダメなもの「安易なバランス感覚」
・ダメなもの「安易なバランス感覚」(全訂版)
ダメなもの「安易なバランス感覚」(全訂版)のオマケ


《参考文献》
小林よしのり新ゴーマニズム宣言SPECIAL 沖縄論(小学館)
 (太字箇所は本文中での引用略記を表す)

《リンク先》
・バーチャルネット思想アイドルやえ十四歳沖縄在米軍ヘリ事件に見える曲解暴論
 〃安易なバランス感覚?
 〃これからの日本の国家ビジョン
   『バーチャルネット思想アイドルやえ十四歳
 (太字箇所は本文中での引用略記を表す)

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2004年11月27日

ダメなもの「安易なバランス感覚」(全訂版)のオマケ

《前書き》
 ダメなもの「安易なバランス感覚」の全訂版の最後に以下の文章を書いていたのですが、予想以上に長くなってしまったのでわけることにしました。ちょうど(?)ここ(土曜日の休載枠)があったので、こちらにアップさせて頂きます。

 書き上げると小林よしのり擁護論みたいになってしまったかもしれません(というかほとんどそう?)が、私の小林の位置づけ・評価を率直に述べたらこうなったというだけで、殊更小林を擁護するつもりは(主観的には)ないつもりです。
 客観的にどう映ったかは私の判断するところではございませんので、読者の皆様がご判断下さい。

 以下は本文。


小林の評価について

 バーチャルネット思想アイドルやえ十四歳の文章を読んでいて気になったことについて(ダメなもの「安易なバランス感覚」が無駄にややこしくなった一因としてこれが混ざってしまったことがある、と反省しています)、一点だけ述べておく。
 それは、やえが最近の小林の評価を「反米ありき」の一言で斬って捨ことだ

 確かに、「戦争論」以降の小林の作品の中には、それこそ嫌と言うほどアメリカ批判が散見される。
 だが、その根底に流れる主題は「反米」ではなく「日本人の自主独立」ではないか。アメリカの悪いところや汚いところをこれでもかと書いているのも、単に反米感情を叫んでいるのではなく、そういう現実を突きつけることで読者に「こんな現状を情けない、やはり自主独立しなければ現実はおろか精神性まで腐ってしまう」と思わせることにあると私は理解している。
 この「日本人よ、自立せよ!」という主張も、「戦争論」以降の小林の作品の中に(それこそ米国批判に負けないくらい)嫌と言うほど散見される。最近では以下のような箇所にそれを見て取れる。

わしが、この手紙を
くれた自衛官を
りっぱだと思うのは、
「国防は本来、自国で
やるべき」との
心意気を持っている点だ。

だが、その本来性は、
米軍についていけば
いつか叶えられる、
などと思っていては
いけない。

本来、国の「独立」は、
血を流して達成するもの。

壮絶な覚悟なくして
やれるものではない。

現状維持で、政府や
親米保守派が
育てているものは、
国民のアメリカへの
「依頼心」のみ。

国民の「覚悟」の熟成は、
今始めねば
手遅れにさえなるだろう。

それがわしの
考えだ。
 (小林『沖縄論』)

さて、ここまで日本政府の
米軍への米軍への世界一、手厚い
思いやりの実態を知って、

冒頭、紹介した
航空自衛隊の方を始め
日本男児のしょくんは、
魂の奥底で
何かが疼かんか?
 (同上)

 私の小林に対する理解は、あるいは自分にとって都合の良いところだけを見ているだけで、偏った読み方に過ぎないのかも知れない。としても、「反米ありき」「アメリカ憎し一辺倒」で片づかない主張が込められていると思う。
 そしてその主張はやえの考えとも共通するのではないか。

 最後に一言です。
 これらは政府の仕事であるコトはあるのですが、しかしそれらが実現していく原動力になるのは他でもない国民の声です。
 「アメリカ追随するな」と言ったところで、その反面「国連決議が出ても多国籍軍に参加するな」と言っているようでは、アメリカに頼らなければならない現実はどうやっても変わらないように、このような矛盾を抱えたままでは、国民の意識の確立が出来ていないままでは、実際には何も実現できないのです。
 「日本は自立すべき」という意見にはほとんどの国民は賛成なのでしょうが、一番自立していないのは他でもない日本国民自身なのです
 
 日本の未来は国民の意識改革にかかっているのです。
 (やえ「これからの日本の国家ビジョン」)

 小林は作品を通じてこの「意識の確立」をやろうとしているのではないか
 小林が薬害エイズのときや戦争論のときのように現実を変革できるかどうかはわからない。ときには反米に走りすぎ、方法としての過ちも犯す(犯した)こともあるだろう。
 しかし、それでもなお、自主独立の「意識の確立」を訴え続ける小林を「反米」「アメリカ憎しの一辺倒」で片づけてしまうのには違和感を覚える
 米国に依存している現状をこれでもかと叩き付けて(特に若い)読者に、引いては国民に「米国に依存している現実を変えていこう」と思わせるよう作品を書くことも立派に現実的で地道なことだ思うのだが、そういう評価は単なる「小林びいき」に過ぎないのだろうか。

* これについては、結局は「読み方」の問題に帰着するのだろうか。単に私が小林びいきで良いところ(?)ばっかり読んでいるだけなのかもしれないし、あるいはやえの方も明言していないだけでこういう小林の一面を評価しているのかも知れない。
 そうだと仮定すれば、後は「意識の確立」を求める小林の方法論(訴え方)の評価の問題になる。「反米が強すぎる。もっと抑えた論理展開をすべき」という意味でやえが最近の小林に否定的なことを言っているとすれば、それは私も理解できる。ただ、アジる人はやっぱり多少乱暴でも迫力のあった方が良いとも思うが。

(了)

《関連記事》
ダメなもの「やえ十四歳の小泉首相靖國参拝への評価」
ダメなもの「安易なバランス感覚」
ダメなもの「安易なバランス感覚」(全訂版)
・ダメなもの「安易なバランス感覚」(全訂版)のオマケ

《参考文献》
小林よしのり新ゴーマニズム宣言SPECIAL 沖縄論』(小学館)
 (太字箇所は本文中での引用略記を表す)

《リンク先》
・バーチャルネット思想アイドルやえ十四歳「沖縄在米軍ヘリ事件に見える曲解暴論
 〃「これからの日本の国家ビジョン
   『バーチャルネット思想アイドルやえ十四歳
 (太字箇所は本文中での引用略記を表す)

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2004年11月16日

ダメなもの「国際社会における『譲り合いの精神』」

 日本はとかく外交下手だと言われている。自国民が拉致されても経済制裁にさえ踏み切れず、自国に核弾頭を向けている国にODAを払い続けているのは論外としても、「お互い誠意を持って」「話し合えば」解決するという意識は政治家や外務省だけでなく国民一般に広く共有されている価値観である。
 中国や韓国の「歴史認識」についての抗議などを例に挙げるなら、これに対し日本人の多くは「日本も戦前迷惑をかけたんだから」「向こうが怒ることにも理由があるのだ(ろう)から」とすぐに理解を示す
 また、契約書を例に挙げると、欧米の契約書と日本の契約書との間には「誠意条項」の有無という大きな違いがある。日本の契約書には何か問題があった際には双方が誠意を持って対処する、という「誠意条項」がある。しかし、欧米では契約書に書かれていることだけが双方の遵守事項であり、このような漠然とした「誠意」に基づく行動が要求されはしない。

 我々は普段あまりこういう事を意識しないが、日本人にはすぐ相手に譲歩したり(相手に理解を示す)、相手に対しても誠意を求めたりする傾向が強い。外交やビジネスの場では明らかに不利を被っているこういった自己の性質について、なぜ日本人はかくも無自覚なのか。
 それはおそらく、こういった考え方が我々の文化に深く根ざした思考形態だからだと思われる。

 外山滋比古の「日本語の特質」によれば、島国は文化の各分野において島国形式(アイランド・フォーム)を確立していくとある。
 日本人は昔から地理的に閉ざされた環境に置かれ、その中ではほぼ単一民族である日本人が、ほぼ単一言語である日本語を使用してきた。漢字を初めとする各種中国文化も流入してきており、それに影響を受けなかったわけではない(むしろ多大な影響を受けているといえる)が、基本的に太平洋戦争後のGHQによる間接統治を除き、歴史的に異民族の支配・侵入を受けたことがない。 こういった閉鎖的かつ均一な環境(島国形式)においては、思考パターンを規律する文化・価値観といったものが広く共有されることになる
 すると、どうなるか。思考パターンが似通った者の間では「言わずもがな」と言ったように多言を嫌うようになる。一々皆まで言わなくても相手に伝わる社会において、全てを語ったり、強調したりすることは「野暮」にあたり、ぼかした表現・曖昧な表現が好まれるようになる。
 そして、文化・価値観を広く共有し、多言を用いずとも相手の言いたいことがわかるような社会では他者志向性がどうしても強くなる。自分の考えていることは当然相手にも伝わるはずだ、と思ってしまうのである。島国という閉じた環境の中で、しかも自然に恵まれた中で、まして価値観の似通った者同士の間では、はっきり物を言うよりは相手に気持ちを委ねるやり方のほうが余計な軋轢を生まないし、何か問題が起きたときも譲歩し合って円満に解決しようとするのは当然である(わざわざ揉める必要もないからだ)。

 これと対照的なのが大陸系の国である。大地の向こうには別の文化・価値観を有する民族がおり、交流や争いを通じて常に他者を意識させられる。そういった国の文化は自然と自己主張が激しくなる。問題が起きたときにも、(日本が譲り合いによって問題の解決を図るのと対照的に)自己主張をぶつけ合うことでその間に妥協点を見つける形で解決することになる。

 私は日本人の特徴である他者志向性を否定するつもりはない。日本人は2000年以上も前からこういった文化を形成してきたのだから、この意識を一朝一夕に変えるなどどだい無理な話である。それに、お互いが相手を慮って譲り合い、丸く収めるあり方は素晴らしい文化だと思う。
 しかし、同時に認識しておかないといけないことは、これが通じるのはあくまでも日本人の中だけである、ということである。中国や韓国は激しく主張を通そうとしてくる考え方なのに、こちらが互譲の精神で応対したらひたすら譲りっぱなしになるのは火を見るよりも明らかであり、現に譲りっぱなしで来たことで中国・朝鮮・韓国はおろか欧米を初めとする諸外国に舐められっぱなしだったのは周知の通りである。

 他者志向性が強いとどうしても戦略的に(クールに)相手の考えを検討できなくなる。歴史認識の問題で言えば、相手が様々な要因から日本を非難していることを考えることもなく、相手に対して一定の譲歩(誠意)を見せれば相手もそれを汲んでくれるだろうという甘すぎる見通しに基づいて行動してしまうことになる。
 結局は繰り返し言っていることに帰着する。相手と本当に理解し合うためには、まず自己と相手の考え方とそのズレをしっかり認識するところから始めなければならない

《蛇足》
 と、ここまでダラダラと色々書いてきたが、2000年以上前にこの結論を端的に言っている人がいたことに今気づいた。

 彼を知り己を知れば、百戦して殆うからず。
 彼を知らずして己を知れば、一戦一敗す。
 彼を知らず己を知らざれば、戦うごとに必ず殆うし。
 (「孫子」謀攻篇より)

 こんな昔から言われていたことを克服できていないことを考えると、人類ってあんまり進歩してないのかも知れない。
(了)

《関連記事》
ダメなもの「韓国反日法」(3)
ダメなもの「無教養な政治家」

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2004年11月15日

ダメなもの「安易なバランス感覚」

《追記》
 この文章については全訂版がありますので、そちらをご覧下さい。


SAPIO」(小学館)誌に連載中の小林よしのり「新ゴーマニズム宣言」では、現在「沖縄を考える」シリーズが続いており、基地問題などについて論じられている*

* このシリーズは現在『新ゴーマニズム宣言SPECIAL 沖縄論』に収録されているので、そちらを参照下さい。

 このシリーズの第六弾「沖縄を考える(6) 米軍さま、思いやり予算です」(SAPIO2004年11月24日号)に対し、バーチャルネットアイドルやえ十四歳が小林を批判していた。
 以下、やえ十四歳の沖縄在米軍ヘリ事件議論に見える曲解暴論(平成16年11月10日)を引用する。

 現役の自衛官さんから手紙が来たようで、それを元に批判をされています。

 先生の御主張にあえて反対します。
 普天間基地返還と地位協定改定を主張されることは利敵行為に他なりません。
 (中略)
 自国の防衛は本来、自国でやるべきですし、アメリカの行いには目に余るものがあることも事実です。国家主権の侵害に何も手が打てない我が国の政府のふがいなさにも腹が立ちます。
 そりゃ命令さえ与えられれば尖閣に近づく支那の艦船や竹島の朝鮮人を追っ払ってやります。しかし悔しいかな今の日本にはそれが出来ません。
 今の日本にとって米軍基地は必要なのです。米軍基地が減ることは、それを補う力がない以上力の空白が生じます。
 (中略)
 支那から国を守るためには、ヘリの事故もあえて目をつぶることも致し方ありません。チャーチルは英国を守るためにコベントリーを犠牲にしました。その覚悟なくして国は守れません。
 先生の主張は正しいと思います。しかしそれを今、口にすることは何の利益を生まないばかりか、敵の思惑にのせられるだけです。(『SAPIO』誌、新・ゴーマニズム宣言、小林よしのり著)

 やえ的には、最後の方のご意見はちょっとどうかと思うのですが、それ以外の現実的な部分、すなわち日本には今武力と呼べる武力が無いのでアメリカに頼るしかない、という点は否定の出来ない指摘だと思います。
 しかし、よしりん先生は最後の部分だけを持って否定されます。

 あくまで自衛隊の中の一読者の意見である。自衛隊が「国防のために沖縄を犠牲にせよ」などという乱暴な意見を持っているわけではないので、誤解せぬように!
 しかし案外、親米保守派はこのような非常な合理性を持っていそうだ。その下心を隠すために沖縄に対する無関心を決め込んでいるのだろう。
 沖縄は日本国に常に利用されるだけ、捨て石にされるだけでも構わないというのなら、沖縄は守るべき日本国ではない、と言っているに等しい。(同上)

 やえに言わせれば、どちらが乱暴な意見なのかと言いたくなります。
 確かにこの自衛隊員さんの後半の部分「支那から国を守るためには、ヘリの事故もあえて目をつぶることも致し方ありません」というのは、ちょっと首をかしげたくなります。
 しかしそれだって今の現実を冷静に正しく分析すればのコトであり、ましてなにも「沖縄を捨て石にしろ。沖縄は日本ではない」なんてコトは一言も言っていないのではないでしょうか。

 ここはやえの誤読ではないか。確かに、この手紙を寄せた自衛官も親米保守派も直接的に「沖縄を捨て石にしろ。沖縄は日本ではない」などとは一言も言っていない。
 しかし、親米保守派は日本の安全保障のためには日米同盟が必要だと言っている(はずである)。そして、沖縄に基地が集中しているのは地政学的な要因の方が大きいが、基地だけでなく米兵のレイプ事件や今回のヘリの事故など沖縄にかなりの負担があるのは偽らざる現状である。
 そんな沖縄の現状は客観的に見れば「国防のために沖縄を犠牲にしている」ことに他ならず、それに対して無関心を決め込むことを「沖縄は日本国に常に利用されるだけ、捨て石にされるだけでも構わないというのなら、沖縄は守るべき日本国ではない、と言っているに等しい」のではないかと批判しているのである。ちょっと荒っぽい論理運びではあるが、論理的に展開させていけば親米保守派は口には出さないまでも言外にそういう態度を示していることになる。
 別にこれは沖縄だけの話ではない。岩国でも横須賀でも、米軍がらみの事件が起きたときに国民がそっぽ向いていたら、現地の人たちは恐らく怒る(怒らないにしても不愉快な思いはするだろう)と思う。「お前らも米軍(の基地)の恩恵を受けているくせに、被害は関係ないってっか?」と。そのときに「日本全体の利益のためだから」と現地の声に無関心を決め込まれたら、現地の人は「俺たちは捨て石かよ」と思っても不思議ではない。

 それに、確かに小林は「国防のために沖縄を犠牲にせよ」という考え方を批判しているので、その対象にこの手紙を寄せた自衛官も含まれることにはなる。しかし、文脈上小林が重きを置いているのは自衛官への批判ではなく(現にその後ろのコマでは自衛官に共感を示し、親米保守派を批判している)、米国に追従する親米保守派への批判であるのは明らかである。
 引用の最後の段落はまるで小林が自衛官を批判しているようにも読めるので、小林の原典に照らせばやや軽率な表現だと思う。

 最近のよしりん先生の主張は、このようにある一方の面だけを、最近は反米という面だけをことさら強調して、他のあとの面をその主張の激しさで消してしまうような手法をとっておられます。
 ハッキリ言ってこういうやり方は卑怯です。
 本来なら、「今の日本にとって米軍基地は必要なのです。米軍基地が減ることは、それを補う力がない以上力の空白が生じます」という問題点を正面から見据え、それを改善するためにはどうするかという問題を考えるべきところなのですが、よしりん先生は「沖縄は日本ではないと言うのか」と、 曲解暴論によって現実的な解決策のための意見をかき消してしまっているのです。
 これでは議論にすらなりません。
 こう言うのもなんですが、このような姿勢というのは、今まで拉致問題という問題が存在することすら知ろうとしなかったくせに、いざ小泉さんの訪朝で有名になったからという理由だけで、急に勇ましい主張を小泉さんすら批判しながら展開しはじめている「ぷちほしゅ」と、 その精神性は全く変わらないと思うのです。

 確かに最近の小林には反米を強調する部分も散見される。しかし、この問題については、少なくともこの沖縄シリーズの(6)については反米ありきでの論理は展開していない。沖縄と米軍基地と日本政府のいびつでこじれにこじれた現実を一つづつ指摘した上で、どうすべきかを主張している。
 この沖縄シリーズで、というよりも戦争論以降の小林が唱え続けていることは「日本の独立」である。沖縄シリーズ(6)の59頁では小林は以下のように述べている。

わしが、この手紙をくれた自衛官をりっぱだと思うのは、
「国防は本来、自国でやるべき」との心意気を持っている点だ。

だが、その本来性は、米軍についていけばいつか叶えられる、などと思っていてはいけない。

本来、国の「独立」は、血を流して達成するもの。

壮絶な覚悟なくしてやれるものではない。

現状維持で、政府や親米保守派が育てているものは、国民のアメリカへの「依頼心」のみ。

国民の「覚悟」の熟成は、今始めねば手遅れにさえなるだろう。

それがわしの考えだ。

 繰り返しになるが、確かに小林は反米ありきで色々言っていることもある。そういう小林の論理のぶれの存在を否定しないし、そのぶれを肯定するつもりもない。
 しかし、反米についても根底に常にあるのは「日本の独立」である。イラク戦争についても自前で国防に力を注いできたので堂々と反対を主張できたフランスと、アメリカべったりだったために米国追従を余儀なくされていたイギリスを対比して、国防面での独立の大切さを指摘していた。狂牛病などの食の安全問題についても、安全を担保するには自前で相応の負担をしなければならない、と食糧防衛論を展開していたが、いずれもその根底にあるのは「 自主独立の気概」である。
 小林も日米同盟それ自体を否定してはいないし、まして米軍基地の必要性を無視し、米軍撤退による軍事的空白を改善するためにはどうするかという問題を考えていないわけではない。ただ、小林は具体論を訴える以前にまず国民に自主独立の覚悟を求めているだけである。精神性を有さない軍隊を作る方がよっぽど危ないことを考えれば、理論的指導者・精神的指導者の仕事だって必要である(私は小林をそういう面で評価している)。
 平たく言えば、小林だって見境無く感情的に米軍出て行けと言っているわけではなく、そういう現状に忸怩たるものを感じろ、まず精神的(意識)から変えろ、独立の気概を持てとアジテート(煽動と言って悪ければ啓蒙)しているのである。多少ぶれるからややこしいが、小林の根底には常にこの思いがあることは、従軍慰安婦論争以降のゴー宣を俯瞰的に見ればある程度わかりそうなものである。

 究極的にはやえの主張と小林の主張は(そして私の主張も)ほとんど変わらないと思う。米軍に依存している現状に忸怩たるものを感じ、向こう50年、百年かかっても自主独立すべきだと思っている点で基本的に合意しているはずだからだ。
 ただ、やえは、

 よしりん先生や、一部反米勢力やぷちほしゅは、反米を唱えてさえいれば地位協定の問題も日本独自防衛の問題も解決すると思いこんでいるフシがあります

と批判しているが、じゃあ翻ってやえの方はどうなのだろうか。本当にやえは「耐えがたきを耐え」ているのだろうか。以前にも指摘したが自分では現実と理想のバランスをとっているつもりでも、結果的に安易な妥協論に堕ちてしまうことが往々にしてあるからだ。
 やえが思っている以上に、欺瞞は精神を腐らせるのだ。それは極端な物言いだとしても、現状に忸怩たるものを感じながら耐えがたきを耐えるのはやえが思っている以上に精神的なねばり強さを要求されることだけは確かである。
 たいていの人はすぐに楽な方へ流れていく。対米追従や感情的な反米・反戦というわかりやすい主張(極論)は、わかりやすいだけにすがってしまいがちである。その中で、不満足な現実を認識し、ねばり強く一つづつ理想を現実化させていくことは一番困難ではないか。少なくともやえの文章には、「耐えがたきを耐え」ることの困難さ、ましてそれが自分だけでなく国民一般にも共有しようとすることの困難さに対する自覚と覚悟が備わっているようには感じられない。
 やえのバランス感覚は私も評価しているつもりだし、結論の落とし所も全体的にはそんなに悪くないと思う。ただ、バランスをとる支点には竿と両方の錘の重量を支えるだけの力と安定感がいることをもう少し意識すべきである。

《オマケ》
 余談になるが、(『SAPIO』誌、新・ゴーマニズム宣言、小林よしのり著)という引用法はやめた方が良い。文章の中で引用文献を指摘するのならともかく、括弧書きで引用を指摘する場合、引用のルールに従うべきだからだ。
 基本的に学術論文などでの論文引用についてはこちらなどを参考にして頂きたい。学問の分野によって多少のぶれはあるし、あまり堅苦しいことを言うつもりはないのだが、「著者、タイトル、掲載書籍・雑誌」の順で紹介するのは最低限の慣例であり、それくらいは守った方が良いと私は思う。

(了)

《関連記事》
ダメなもの「やえ十四歳の小泉首相靖國参拝への評価」
・ダメなもの「安易なバランス感覚」
ダメなもの「安易なバランス感覚」(全訂版)
ダメなもの「安易なバランス感覚」(全訂版)のオマケ

《参考文献》
・小林よしのり『新ゴーマニズム宣言SPECIAL 沖縄論』(小学館)
 →「沖縄を考える(6) 米軍さま、思いやり予算です」(初出:「SAPIO」2004年11月24日号)
 →「沖縄を考える(5) 基地財政とウルトラマン」(初出:同2004年11月10日号)

《リンク先》
・バーチャルネット思想アイドルやえ十四歳「沖縄在米軍ヘリ事件議論に見える曲解暴論
 〃「靖国参拝と北朝鮮拉致問題
   『バーチャルネット思想アイドルやえ十四歳
・「注および引用文献の表記

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2004年10月11日

ダメなもの「露悪的な発言(?)」

 当ブログのダメなもの「アテネ五輪柔道野村選手の扱い」について、以下のようなご指摘を受けた。

うわあ。
「牧太郎のここだけの話」の事、全然言えないですね??。
「TAWARAちゃん」に「ブサイクだと自分でメダル取らなきゃ」ですか。
確かに「yawaraちゃん」の名称には疑問を感じますが。
世間一般の見方なんでしょうが、酷い書き方ですね。

 これについてはすでにコメントへのレスという形で私の考えを述べさせて頂いた。が、この件についてはこの場でも取り上げさせて頂く。理由は、コメント欄だとあまり目にとまらないかもしれないが、私としては読者の方々にも知って頂きたいし、欲を言えば読者の皆様からもこの件について忌憚のないご意見を頂戴したい(私の考えている基準が読者や世間一般と乖離しているのかどうかを知りたい)、と思ったからである。

ダメなもの「アテネ五輪柔道野村選手の扱い」の執筆意図

 まず、ダメなもの「アテネ五輪柔道野村選手の扱い」の意図についてであるが、半分はシャレである。谷夫妻を(特に美醜の面で)かなりどぎつくネタにしているので、ある程度の反発は予想していた。ただ、ほとんどの人が笑えず不快に感じたのなら、シャレだとはとても言えないので、謝罪と削除も含めて考え直すつもりでいる。

 もう半分は、世間一般を含めたマスメディアへの批判である。谷亮子選手の扱いについては、「YAWARAちゃん、YAWARAちゃん」ともてはやす割にはCMは備蓄米だったりトラクターだったりする。松浦亜弥やモー娘。などをこれらのCMに使うことはまずない(藤原紀香がジョージアのCMで土方の格好をしただけで芸能記事になったりしているくらいだ)。一方で、マスコミは野村選手の夫人のことばかり特集していた。私は、 柔道選手の扱いの中に「美醜」という全く関係ない要素を持ち込んでいるが、これは明らかにおかしい!ということを敢えて「マスコミや世間も結局は私のように美醜で扱いを変えているじゃないか」ということを美醜をどぎつく揶揄することで、つまり露悪的な形で批判として突きつけたつもりである。

 ひとつ断っておけば、だからといって後者を理由に私は自己の行為を正当化するつもりはない。露悪的な表現というのは、敢えて批判対象と同じ「悪」をやることで、批判対象に意識していないだろう自己の「悪」の姿を突きつける批判方法である。谷夫妻からすれば私も自分たちをネタにしたやつという点では変わらないわけで、それくらいは自覚してやったつもりである。批判対象が本当は一番悪かったとしても、だからと言って私がネタにしたことが全て正当化されるわけではない。
 だから、以上の私の弁明を受けた上で「そういう意図がわかりづらい」「シャレとして成立していない」「露悪的にも程がある(だっしーの文章も大概だ)」というご批判がくれば、それは謝罪する。

ダメなもの「毎日新聞社会面『牧太郎のここだけの話』」のとのダブルスタンダード(?)の問題

 次に、ダメなもの「毎日新聞社会面『牧太郎のここだけの話』」についてである。これを書くときに、実は一度私はダメなもの「アテネ五輪柔道野村選手の扱い」と矛盾するように取られるかなと心配して読み直した。その上で、自己の立場に矛盾はない、と判断して掲載した。

 私と牧は柔道の選手を揶揄した点では同じかもしれないが、それ以上に相違点が多いと考えた。
 まず、目的の有無と態様の違いである。
 牧が記事において女子柔道の塚田真希選手を揶揄したのは、意図したものではなく、いわば「過失」である。しかし、私は前述の「露悪的表現による批判」という目的をもって書いており、いわば「確信犯」である。牧は過失だと自分で認めているから訂正記事を書いた。それはそれで潔い態度だと思う。
 しかし、私はむしろ「お前はひどいことを言うな」という人々に「じゃあ、そういうあなたはどうなのだ! 自分はそんな扱いをしていなかったか!? もししていないとしたら、じゃああなたはマスコミの扱い方についてはどう思うのだ!?」と突きつけることにあるので、抗議があったからといってそうそう引っ込めるわけにはいかないのだ(ただし、重ねて言うが、批判としても許容されないとなれば謝罪した上で削除するつもりである)。

 次に、細かい話になるが、構造そのものが私と牧とでは違う。
 牧は、重量級の柔道の競技自体を否定する際に選手の体躯の美醜を云々したのだ。私はそれについて、新聞で柔道の記事を書くにはあまりに不勉強だ、と批判したのである。 これに対して、私は、谷選手を見る目に「柔道が強い」という影にある「美醜」での価値判断があることや、野村選手の三連覇の報道の力点を「美人の妻」においたりすることに対して批判する意味で、みんなが口に出さないけれど何となくやっていることを敢えて言うという露悪的な方法を取ったわけである。

 自分としてはこういう事を考えた上で「ダブルスタンダードにはあたらない」と判断した次第である。

改めてこの文章の執筆意図

 以上を踏まえた上で、私がこの文章を書いた意図を最後に改めて述べたい。
 私は上記コメントに対する反論を長々としたためたのではない。あるいはそうなっているかもしれないが、それはあくまで反射的効力であり、それを意図して書いたわけではない。
 私がこれを書いたのは、以上の私の考え方、判断を読者の方々はどう思われるかというのを知りたかったからである。コメントを読んで思ったのは、自分の意図は読者に伝わっていないのか、あるいは自分の上記の考えや判断自体が世間(といっても当ブログの読者に限定されるが)の価値観と乖離しているのではないか、と思ったからである。
 だから自分の考えをここに開陳し、自分の考え方がそれなりに妥当なものなのか、それとも私の独りよがりに過ぎないのかを読者の皆さんに判断して頂きたい、と思い、この文章をしたためた。

 ここまでお読み頂いた読者の皆様にお願いしたい。よろしければ今回の文章について忌憚のないご意見をお聞かせ願いたい。私からお訊きしたいことは以下にアンケート形式でまとめている。どんなご意見でも構いませんので(もちろん手厳しいご批判でも構いません)、忌憚のないご意見をお寄せ願いたい。(ただ、明らかに嫌がらせとわかるものは削除します。あしからず)


 以下のアンケートに是非ご協力下さい。なお、回答は当記事のコメント欄でも、掲示板でもメールでも構いません。
 まず、自分が1・2・3のうち、該当するものを選び、質問(1)(2)にお答え下さい。そして、の(3)(4)にお答え下さい*

* こちらのひな形をご利用下さい。
【 】(←1から3をご記入下さい)
  (1)
  (2)
【4】
  (3)
  (4)

【1】当該記事の掲載当時からの読者にお訊きします。
 (1) ダメなもの「アテネ五輪柔道野村選手の扱い」を読んだときに、内容面について「ひどすぎる」「冗談では済まされない」と感じましたか。
 (2) 次に、ダメなもの「毎日新聞社会面『牧太郎のここだけの話』」を読まれたときに、ダメなもの「アテネ五輪柔道野村選手の扱い」との関係で「ダブルスタンダードだ」と感じましたか。

【2】1以外の方で、ダメなもの「毎日新聞社会面『牧太郎のここだけの話』」ダメなもの「アテネ五輪柔道野村選手の扱い」の順で読まれた方にお訊きします。
 (1) ダメなもの「アテネ五輪柔道野村選手の扱い」を読んだときに、内容面について「ひどすぎる」「冗談では済まされない」と感じましたか。
 (2) 次に、ダメなもの「毎日新聞社会面『牧太郎のここだけの話』」を読まれたときに、ダメなもの「アテネ五輪柔道野村選手の扱い」との関係で「ダブルスタンダードだ」と感じましたか。

【3】1以外の方で、ダメなもの「アテネ五輪柔道野村選手の扱い」ダメなもの「毎日新聞社会面『牧太郎のここだけの話』」の順で読まれた方に伺います。
 (1) ダメなもの「毎日新聞社会面『牧太郎のここだけの話』」を読み、ダメなもの「アテネ五輪柔道野村選手の扱い」を読まれたときに「ダブルスタンダードだ」と感じましたか。
 (2) ダメなもの「アテネ五輪柔道野村選手の扱い」の内容について、「ひどすぎる」「冗談では済まされない」と感じましたか。

【4】最後、全員にお訊きします。
 (3) 最終的にダメなもの「アテネ五輪柔道野村選手の扱い」は批判の表現法として許容範囲内だと思いますか、それとも許容範囲外だと思いますか。
 (4) その他、忌憚のないご意見をお寄せ下さい。

 ご協力のほど、よろしくお願いします。


(了)

《関連記事》
ダメなもの「アテネ五輪柔道野村選手の扱い」
ダメなもの「毎日新聞社会面『牧太郎のここだけの話』」

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2004年09月07日

ダメなもの「やえ十四歳の小泉首相靖國参拝への評価」

 私が巡回しているサイトに、『バーチャルネット思想アイドル・やえ十四歳』がある。
 やえ十四歳(なんか論じにくいなぁ)の主張は、総論としては、同意するところが多い。
 ここで言う総論とは、かいつまんで言うと次のようなものである。すなわち、「現実を重視する」として日本国民の生命と財産を守るためには対米追従しかない、というような親米保守も、日本の国柄・文化・独立を守るためにひたすら反米を叫ぶ反米保守も、ともに極端な議論であり、これらには与しない。むしろ両者の調和をはかり、今ある現実を直視すれば、今は米国に追従するしかないとしても、そのことについて忸怩たる思いを胸に秘め、向後何十年かかってでも自主防衛できる体勢を作り、米国に盲従せず自国の身の振り方は自分たちで決められる国家体制を作ってゆくという理想を実現させるべきだ、というものだ。

 理想と現実の極端な二元論に陥ることなく、むしろ両方の良いところを合わせていく、というあり方こそがこれからの日本に必要だと私は思っている。なお、この二極思考からの脱却については、作家・ジャーナリストの日垣隆も『現代日本の問題集』のあとがきで同様のことを述べている(これが弁証法における止揚(アウフヘーベン)なのかどうか、弁証法に詳しくないのでよくわからないが、どう呼ぶかにあまり興味もないので措くことにする)。

 ただ、この考え方には一つ大きな落とし穴がある。この現実と理想の折衷主義は、往々にして足して二で割る安直な妥協の追認に堕する危険を孕んでいるのだ。その一例が、やえ十四歳の靖國参拝についての主張である。

 やえ十四歳は小泉首相の靖國参拝ついて「今まで0だったことを思えば確実に前進している。小泉首相は『道筋』を作った」という主旨でこれらを評価している。
 だが、これらはそこまで評価すべき事なのか。着実な前進というものの見方に陥穽はないのだろうか。

 やえ十四歳は2004年8月17日「靖国参拝と北朝鮮拉致問題」で、8月15日に参拝すべきだという保守派の意見に対してこのように述べている。

 しかしですね、激怒している保守系の言っているコトも、ちょっとどうなのかなと思う部分もあります。

 15日に参拝しない小泉さんに対して、「中国に屈している」とか「腰抜け」とか「チキン」とか「売国奴」とか、もうアカ・サヨクにでも言っているのかと思うぐらいの罵詈雑言を投げかけてしまっている人が、これが非常に多いんです。

 この辺やっぱり「プチ保守」現象と言えるのでしょうか。
 小泉さんに対して、もちろん参拝すべきだと主張するのは間違っていないと思いますが、しかし罵倒に近いような言葉を投げつけるのはいかがなモノかと思います。
 だって、靖国神社参拝を再開させたのは、だれでもない小泉さんだからです
 今の総理が小泉さんでなければ、多分今でも総理大臣による靖国神社参拝は実現されていなかったでしょう。

 やえの記憶が正しければ、確か小泉さん以前に参拝していた最後の総理大臣は、大勲位中曽根先生だったと思います。
 中曽根先生が総理大臣だった最後の年は昭和の62年ですから、17年も前のお話です。
 それぐらいの間、日本の総理大臣は靖国神社参拝をしなかったのです。

 一見バランスのとれた意見のようにも聞こえる。しかし、これは事の本質を見誤った議論と言わざるを得ない。
 そもそも、小泉首相は2001年の総裁選において「どんな圧力にも屈せず終戦記念日には必ず靖国神社を参拝する」と公約していたのである。それを「熟慮に熟慮を重ねた結果」*8月13日に前倒ししたのだ。この譲歩は、当人がどう思っているのかは知らないが、客観的には靖國参拝反対派のいうことにも一理あることを認めたことになる(そう取られても仕方がない)。

*小泉首相談話より
問:参拝を実行した理由。13日前倒しの理由は、また、15日に参拝するとかねがねいっていたが、それへの批判にはどう答えますか。

小泉首相:
「私はかねがね8月15日に参拝したいと明言していた。『小泉というのは一度明言したら聞かない』といわれますが、必ずしもそうじゃないんでね。口は1つですが、私も幸いにして耳を2つ持っている。総理大臣として、人のいうことを聞かなければいけないなと思いましてこの2週間、特に今までの私の持論が、虚心坦懐にいろんな方々の意見をうかがってまいりました。そして熟慮に熟慮を重ねた結果、今日がいいのではないかと私が判断しまして今日いたしました」

 やえ十四歳は「靖國参拝の前例が出来た」と積極的に評価しているが、2001年8月13日の靖國参拝が上記の意味合いを持つ以上、「靖国参拝も、今回小泉さんが意地でも毎年参拝するコトによって、次の総理が小泉さんよりももっと気軽に参拝できるようになるでしょう」というのも甘い幻想に過ぎない。むしろ、8月15日の参拝は難しくなったとさえ言える。現に翌年からはより「内外の批判」を考慮した前倒しが進み、今年は元旦の初詣となってしまった(これ以上前倒しできないがどうするつもりだろう)。

 前例はただ積み重ねれば良いというものでもない。内外の批判とやらが不当な言いがかりであるなら、当初の主張を一貫して通すべきであった。どうせいつ参拝したって内外の反発とやらは出るのだ。ならば当初の公約通り8月15日に参拝しておけば良かったのだ。現に、前倒しにしたことについてこれといったメリットは見いだせない。かえって8月15日を避けたことは反対派にも理があるかのような印象を与えてしまい、逆に8月15日の参拝をやりにくくする「前例」を作ってしまったとさえ言える。これでは譲り損ではないか。
 小泉首相は靖國参拝については戦略的に失敗した、と私は評価している。悪徳業者とわからんちん共には絶対に妥協してはいけないのだ。下手な譲歩は、相手の不当な(?)意見に対しいくらかの正当性を認めることにもなりかねないからだ(実際、そうなっている)。
 こう考えると、保守派の小泉首相に対する批判もそうずれたものではないと思われる。

 その後の靖國参拝は「前例」や実績というものではなく、「公約通り靖国に参拝してますよ」というアリバイ担保とも取られかねないものになってしまっている。今の小泉首相は、それなりのポリシー(と言うのが不正確なら、思想・信条、あるいは考え)をもって靖国に参拝しているのか。抜き打ちで参拝するに至ってはどうしても首をひねらざるを得ない。

 最後に、私の個人的な見解を言えば、靖國参拝については、坪内祐三『靖國』のあとがきにもあるように、例大祭に参拝すべきだと思っている。靖國に祀られている明治以降の国のために尽くした人々全てに祈りを捧げるべきだと思うからだ。そういう意味では、2002年に春の例大祭のときに参拝したのは評価できなくもないが、それならそうと主義主張を打ち出して参拝すべきだった。少なくとも春の例大祭のときに参拝するという「前例」はそのときも、その後も形成されていない。残念なことである。
(了)

《関連記事》
・ダメなもの「やえ十四歳の小泉首相靖國参拝への評価」
ダメなもの「安易なバランス感覚」
ダメなもの「安易なバランス感覚」(全訂版)
ダメなもの「安易なバランス感覚」(全訂版)のオマケ

《リンク先》
・やえ十四歳「靖国参拝と北朝鮮拉致問題
   『バーチャルネット思想アイドル・やえ十四歳

《参考文献》
・日垣隆『現代日本の問題集』(講談社現代新書)
・坪内祐三『靖國』(新潮文庫)

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2004年09月04日

ダメなもの「安易な手段の正当化」

目的は手段を正当化しない

あんた何様?日記」の2004年9月4日分で反戦落書きの裁判について書かれていた。
 反戦落書きの犯人やその擁護者の思考の特徴は「目的は手段を正当化する」という手前勝手なところにある。そういう意味では、支援者サイトも『落書有理反戦無罪』と直球な名付け方と言える。

 結論から言うと、目的は手段を正当化しない。大概においてこの命題は犯罪行為の罪悪感をごまかす作用しか持ち得ず、その先に待っているのは犯罪行為と私刑の誘発しかないからだ。
 逆に、この命題が正しいとすれば、反戦を訴えるという目的が正当である以上、役所をはじめとする一切の公共物に反戦落書きを、それこそ耳なし芳一のように書きまくっても許されることになる。それが到底是認できないのは社会通念上明かである。
 さらに言えば、目的が正当である以上、私が反戦を訴えるためにこの裁判を支援している者のうちに落書きをしに行っても良いことになる。百歩譲って「公衆便所が公共物であるのと違い、自宅は私物だ」という反論を認めるとしても(これはむしろ、彼らの論拠を弱める方に働くのだけれど)、その場合には彼らの自宅前の道路に思いっきり落書きすることは許されなければならない。関西電力の許可を取ったら、反戦を訴えた万国旗を家の周りの電柱に吊して家の周りを反戦で飾り付けてもいいことになる。
 この人たちはご自分の主張していることが本当の意味で理解できているのだろうか。

「他にも落書きをしている人がいるのに、不公平だ」というのはもはや語るに落ちたと言っていい。私がこれを主張している連中をひき逃げし、後に捕まった際に「ひき逃げ犯で俺だけ裁かれるのは不公平だ」と主張すれば、彼らは私の無罪放免に尽力してくれるとでも言うのだろうか。

「あんた何様?日記」でも指摘されているように、反戦落書きが逮捕されたのは「落書き」という犯罪行為が原因であり、反戦云々は関係ない。もしそうでないと疑うなら、同じ公衆便所に今度は自衛隊派遣や米軍のイラク戦争の落書きをしてみればいいだけである。通報されればちゃんと逮捕してくれるはずである。

 表現の自由の名の下に、みんなのものであるはずの公共物に落書きをすることは、公共物の私物化に他ならない。検察や司法の手続的正義を云々する指摘も見られたが、その前に、自分の表現行為の手続的正義の欠落をまず反省すべきである。

この発想は「左」の連中に限ったことではない

 以前このブログで、毎日新聞の「牧太郎のここだけの話」について取り上げた。あの後、牧のホームページの掲示板に批判が多数寄せられ、嫌がらせ(いわゆる掲示板荒らし)もあったため、掲示板の一時閉鎖に追い込まれたそうである。
 牧も日記で、多数寄せられた批判を真摯に受け止め反省しているようだ。繰り返し言うが、当然のことと言えば当然であるものの、それが出来ていない物書きが山ほどいる中での、牧のこの態度は評価に値する。

 その上で、牧は掲示板荒らしなどにあったことも書き添えている。
 この点について、私は牧に同情する。はっきり言って、掲示板荒らしはサイバーテロであり私刑(リンチ)である。批判があればそれを掲示板に書き込むなり、メールするなり、あるいは自分のメディア(HPやブログなど)で発表するなど、常識的な手段に依るべきである。それをせず、感情の赴くままに嫌がらせに走るという卑劣かつ最低な行為に及ぶことは全く正当化できない。
 確かに、牧の文章が塚田選手を中傷するように読めるしそれに抗議するという目的は正当である。そういう意味で牧は「悪者」にあたるのかもしれない。

 しかし、先程から述べているように、目的は手段を正当化しない。そもそも、正当化とは目的の妥当性と手段の妥当性が二つ揃ってはじめてなされるに過ぎないものからだ。
 牧の掲示板を荒らした者が本気で正義の制裁のつもりでやったのか、それとも単なる嫌がらせが目的でやったのかは知るよしもないが、どちらにしろ精神がどこか病んでいるとしか言いようがない。

《追記》
 以上は、ダメなもの「抗議として(?)の掲示板荒らし」を改題し、本文と追記を合わせて全面的に改稿したものである。

《関連記事》
ダメなもの「毎日新聞社会面『牧太郎のここだけの話』」

《リンク先》
・牧太郎「牧太郎のここだけの話
   『毎日新聞
 〃『牧太郎の二代目日本魁新聞社
・名塚元哉「思想に関係なく落書きは犯罪です。
   『あんた何様?日記
・『落書有理反戦無罪

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2004年09月01日

ダメなもの「正義感」

Black Jack(2巻)』の解説を、医療ジャーナリストで作家の永井明が書いている。私は、この解説の中で以下の下りが好きだ。

 以前、『必殺仕掛人』というテレビドラマがあった。お上に訴え出ても相手にしてもらえない庶民、恨みを晴らせなかった人々にとって代わり、のうのうと生き延びている悪人の、「殺し」を、お金で請け負うという話である。その中で、「金ももらわずに、悪人を成敗なんかしていると、自分が正義と錯覚してしまう」という意味の台詞がある。ときとして人が陥る正義のもとの傲慢さを、自ら律するための方便としてお金を取るわけである。ブラック・ジャックの高額治療の要求は(もちろん自分の技術に対するプライドもあるだろうが)、それと似たようなスタンスなのではなかろうか。

 私は、この正義に対する距離感や、己を勘違いて傲慢にならないよう自戒する姿勢に共感を覚える。そして、(こうして偉そうに他者を批判するブログを執筆しているときでも)これだけは弁えているつもりだ。

 思想の左右を問わず、過激な主張をする人に共通しているのはこの自省が全くないことである。中でもその傾向が強いのはやはり左翼系である。
 その例を挙げるなら、「従軍」慰安婦の訴訟だろう。自国(の歴史)を悪く言い、自分を純化させたいのかは措くとしても、やっていることの残酷さは看過できない。この残酷な行いについて少し敷衍する。
 わざわざ「従軍」慰安婦を求めて韓国を始め諸外国に赴き、それに応じて「私は日本軍に強制的に働かされた」と思っている老婆を焚き付けて、ろくに検証もせず法廷に立たせる。そして法廷で自分が実は父母によって女衒に売られたという事実が立証された、ということは結構あるそうだ。
 もちろん、思いこみで訴訟に応じた老婆自身にも責任が無いとは言えない。しかし、かつて慰安婦をしていた過去を日本軍のせいだと思いこんでいたとしても、それも昔の話として胸にしまい、老後をひっそりと送っていたとして、誰がそれを責められようか。少なくとも私は責める気にはなれない。まして、その思いこみを訂正して当人が一番聞きたくないだろう「真実」を突きつけ、老婆の心を徒に傷つけるなど断じて認めない。
 なのに、従軍慰安婦を問題化してきた連中は、自分の(歪んだ)正義感から老婆を焚き付け、結果、老婆に重大な心的ダメージを与えたことにつき、驚くべきまでに無自覚なのである。

 こういった内省無き正義は時に暴走し、気違いが刃物を振り回すが如き様相を呈する。その根底にあるのは、自分の信じる正義への無批判な信仰である。要は、徹頭徹尾自分のことしか考えてないのだ(と同時にそのことの自覚もない)。このことはボランティアについて述べたこととも通じるものがある。

 人は正義を求める。そのことは否定しない。だが、その正義には往々にして独善という名の偽善が潜んでいる。正義を振りかざす前に、まずはその正義を検討する誠実さの方がよっぽど大切だと私は思う。
(了)

《関連記事》
ダメなもの「他人のため=良いこと」

《参考文献》
・手塚治虫『Black Jack(2巻)』(秋田文庫)

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2004年08月05日

ダメなもの「自己責任論を巡る議論」(2)

 私が自己責任論に対して同調できなかったのは、自己責任論のいう「責任」とは、誰が、何に対して、どこまで負うのか、ということが明かでなかったからだ。議論の大本であるはずの「責任」の概念が非常に曖昧なままで議論が進んだことが、政府の自国民救出義務を百か零かで論ずるかのような極端な二分法を生み出した原因の一つだと私は考えている。そこに、政府の法的義務の話と、個人の主観的な意見とがごちゃ混ぜになったので、いよいよ議論は混乱したのだと思う。

 今、政府の法的義務と個人の主観的意見という二つのレベルでの議論の峻別を指摘した。前者については、前回述べたとおり「政府には基本的には自国民救出義務があるが、それは無制限に認められるものではなく一定の制限が課される」というものである。その政府の義務と制約の程度の比較衡量については項を改めて述べるつもりである。今日は後者について考えてみたい。

 私は、あの事件が発生した当初から、彼らに一度も同情していない。彼らがイラクに行った目的を聞いてもそれは変わらなかった。むしろ、その目的になんら共感を覚えず、「そんな自己満足のためにわざわざ戦地であるイラクくんだりまで行ってこんな騒ぎを起こしたのか!?」と思ったほどである。

 まず、三人の中で唯一の女性であった高遠サンはイラクの浮浪児(いわゆるストリート・チルドレン)を援助するのが目的だったそうだ。本人もかつてそうであったと一部で取り沙汰されたが、特に薬物中毒の子供たちの更正のようなこともしていたとか何とか。一見すると非の打ち所のない崇高な目的のようにも思われる。
 しかし、イスラム文化圏では、イスラムの教会が孤児を手厚く保護しているらしく(世界レベルでみてもそうらしい)、そもそも高遠サンがわざわざ行く必要があったのかどうかを疑問視する意見をどこかのサイトで読んだ。そこでは、高遠サンが援助していたのは向こうでは大人扱いされている15歳以上の少年たちで、援助されている少年たちは高遠サンを慕っていたそうだが、現地の人たちからは高遠サンが一体何をやっているのか全く理解できなかったそうだ。記者会見ではこういうことも是非突っ込んで聞いてほしかったのだが…

 確認を取ったわけではないので上記の疑問点は措くとしても、私には、イラクの子供たちを助けにボランティアで行くことがそんなに偉いことだとは思えない。そもそも、私にはボランティアというものがそんなに崇高なものなのかどうか、よくわからないのだ。
 かつてマザーテレサがこんな意味のことを言っていたそうだ。人に何か親切を施すのなら、まず身近なところから始めなさい、と。ボランティアをしたがる人々の中には、国内で老人の介護をするなどという「地味な」活動ではなく、海外に行って浮浪児を助けたりする聞こえにも「派手な」ボランティアをやりたがる人が結構いるそうである。
 こういう意見を言うと、「海外までボランティアに行っている人を侮辱するのか!?」という極端な反発が来たり、逆に「自己満足でやるボランティアなんてボランティアじゃない!!」というような、これまた極端な似非ボランティア・バッシングがよくに見受けられる。
 しかし、内心がどうであれ、ボランティアとして感謝されることだってあれば、相手のことを思ってやった「真の」ボランティアだって善意の押しつけに終わり迷惑がられることだってあるだろう。要は「ボランティアは相手のことだけを思ってするもの」という定義それ自体がおかしいのだ。ボランティアは何も崇高なものではない。まず自分がやりたいからする「お節介」に過ぎない。

 ボランティアを無条件に崇高な行為と思いこむのは、単なる思いこみである。少なくとも、高遠サンの活動が税金を何十億もかけて解決したような事件に巻き込まれるのに釣り合うほどのものだったとはどうしても思えないのである。
(この項つづく)

《関連記事》
ダメなもの「自己責任論を巡る議論」(1)
・ダメなもの「自己責任論を巡る議論」(2)
ダメなもの「他人のため=良いこと」

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2004年08月03日

ダメなもの「自己責任論を巡る議論」(1)

 日本人はすぐに過去の出来事を忘れてしまう民族であるというのをあちこちで見聞きした覚えがある。今日取り上げるイラク三邦人人質事件で沸き起こった「自己責任論」も、それを巡る議論も今やすっかり忘れ去られてしまっている。

 しかし、後から冷静にあの事件を検討すると、当時の議論がいかに粗雑であったかを思い知らされる(その原因はおそらく、「自衛隊撤退論(≒人質擁護)」と「自己責任論(≒人質バッシング)」という二分法が幅をきかせていたからだと思われる)。今更この問題を検討するのは、下種の後知恵かもしれないが、しばらく私見を述べさせて頂く。

 まず、自国民が誘拐などの犯罪行為に巻き込まれたとき、国家には自国民救出の義務が発生する。これは、国家の使命が国民の生命・財産を守ることにあることからすれば当然の大原則であり、これを踏まえない自己責任論、すなわち、イラクに行った人質が100%の責任を負い、国家に彼らを救出すべき義務がないとする極端な自己責任論は論外である。
 しかし、この大原則にはいくつか修正がかかる。国家に自国民救出の義務があるからといって、それが無制限に認められるわけではないのもまた当然である。この点、国家に自国民救出の義務を無制限に認めるような形で主張された自衛隊撤退論もナンセンスである。
 自国民救出義務が修正を受ける理由はいくつかある。
 第一に、いかなる手段も執りうるわけではない。特に今回のような外国での事件の場合、基本的には日本ではなく当該外国が解決すべき問題であり、日本は当該外国に対して早期解決を要請する、あるいは当該外国の許可を得て何らかの強力をするくらいしかできない(今回はイラク政府が崩壊していたのでイスラム聖職者協会に解決を依頼したようであるが、本質的には同じことである)。自国民がさらわれたとずかずか外国に踏み込むのは当該外国に対する内政干渉であり、明らかな越権行為である。
 第二に、国策を変更するような要求にはまず応じられないということである。それは不法な手段によって日本国の国民主権原理を否定するものであり、これを飲むことは更なる不法手段による国策の変更要求を誘発するおそれすらあるからである。
 この点、自衛隊撤退論者の中には元々自衛隊派遣自体に反対だった人々や左翼的な人々がたくさんいたようだが、護憲派であるはずの彼らが国民主権原理を否定するような犯罪者の要求を代弁するというのは、論理思考に障害があるとしか言いようがない。

 他にも修正理由はいくつかあるだろうが、このくらいにしておく。ここでの結論は、国家には原則として自国民救出義務があるが、それも無制限ではなく限界があり制限も受ける、というそれだけの話である。そして注意すべきは、自己責任論は、この制約の程度を決する上での一つの要因でしかない、ということである。自己責任論それ自体が一人歩きして、国家の自国民救出義務まで否定するような暴論も散見されたので、まず最初にそれに疑義を呈しておく。
(この項つづく)

《関連記事》
・ダメなもの「自己責任論を巡る議論」(1)
ダメなもの「自己責任論を巡る議論」(2)
ダメなもの「他人のため=良いこと」

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