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2007年07月07日

再考・マイナス票制度

 前回、投票率アップに関する一私案で私はマイナス票制度の導入について論じました。
 その後、ネットでマイナス票制度を検索してみると、同じようなことを考えている人はいるもので、結構な数が引っかかりました。ほとんどは私のような素朴な賛成意見なのですが、うえぽんさんの反対意見「マイナス票(マイナス投票)が駄目な理由」が非常に参考になりました。(というか、先に読んでおくべきでした)
 以下では、うえぽんさんの批判を踏まえ、マイナス票制度の欠陥を是正する「新・マイナス票制度案」について論じたいと思います。

マイナス票制度の問題点 一票の格差が生じる

 前回私が提案したのは、一票を誰かに投じるという今までの方式以外に、誰かを落とす(マイナス一票を投じる)というのも認めろ、という素朴なマイナス票制度でした。
 しかし、これだと一票に格差が生じてしまうというのがうえぽんさんの指摘です。詳細は「マイナス票(マイナス投票)が駄目な理由」を読んでいただきたいのですが、以下に私なりに整理しておきます。

 今、A・B・Cの三候補者がいて、有権者は自分の持つ一票をプラス票かマイナス票かのどちらかで行使できるとし、そのときに票の価値の是正をしない場合、を考えてみます。

 有権者二人が、それぞれA候補とB候補に一票づつ入れた場合(設例1)

【表A】

A候補 +1
B候補 +1
C候補 ±0票

 となり、A・B候補とC候補の差は1票となります。
 しかし、これはC候補にマイナス票を一票投じただけで同じ効果が得られます。すなわち、

【表B】

A候補 ±0票
B候補 ±0票
C候補 −1

 この場合も、結果的にA・B候補とC候補の差は1票です。
 つまり、この場合マイナス票はプラス票二票分の価値をもつことになるわけです。これがプラス票・マイナス票間における一票の格差の問題です。

* しかも、この方式だと、プラスとマイナスで相殺された候補が、プラスもマイナスも入らなかった候補との関係において不利に扱われることになります。これについてはマイナス票の意味を説明した上、設例2のところで後述します。

マイナス票の正体

 では、なぜこのような問題が発生するのでしょうか。
 それはマイナス票を投じることの意味を裏から考えればわかります。今までのプラス投票と単位を揃える意味で、マイナス投票をプラス投票のみで表現してみましょう。先ほどと同じく、Cにマイナス票を一票投じるのをプラスを用いて表すと、

【表C】

A候補 +1
B候補 +1
C候補 ±0票

 となります。これは【表A】と同じ事ですね。つまり、誰かにマイナス票を1票投じることの正体は、マイナス票を投じた以外の人全てに投票したことに他なりません。

 ということは、【表C】において、プラス票がマイナス票とバランスを取ろうとするなら、当然プラス票を投じる人にも2票を与えれば良いことになります。
 結局、うえぽんさんの指摘する問題点は、一票の価値の格差を是正すれば解決できそうです。

是正の方法について

 プラス票・マイナス票間における価値の格差を是正するには二つの方向性があります。

 一つは、一人一票ではなく、一人に複数票、具体的には(立候補者総数−1)票を与えるやり方です。これを加算式と呼ぶことにします。前項で行った是正ですね。
 もう一つは、一人一票を堅持し、後からマイナス票の総数に是正を加える(具体的にはマイナス得票数に(立候補者総数−1)分の一をかける)方法、ここでは修正式と呼びます。

 上記について、具体例を用いて説明します。
 例えば、A・B・C・Dの4候補がいて、得票数が以下のような場合(設例2)

  +票 −票
A候補 0票
B候補
C候補 0票 0票
D候補 0票


 加算式では以下のようになります。
 候補者が4人なので、1人3票で数え、マイナス票は他の人に均等に振り分けられるので、

  +票 Bの−票 Dの−票 合計
A候補 +3 +1 +1 +5
B候補 +3 +1 +4
C候補 +1 +1 +2
D候補 +1 +1

 となります。

 一方、修正式では以下のようになります。
 候補者が4人なので、マイナス票については(候補者4人-1)で 1/3 の修正値がかけられます。

+票 −票 合計
A候補 +1
B候補 +1 −1/3 2/3
C候補
D候補 −1/3 -1/3

 お気づきかと思いますが、加算式と修正式ではプロセスが多少違うだけで結論は同じです。修正式の結果に3をかけて分母を払い、全員に2を加えれば加算式の結果と同じになるのをご確認下さい。

 ちなみに、マイナス票の価値を是正しないと以下のようになります。

+票 −票 合計
A候補 +1 +1
B候補 +1 −1 ±0
C候補 ±0
D候補 −1 −1

 B候補とC候補が同じ評価となってしまいます。この理由は今まで説明してきた通り、マイナス票の価値が大きすぎることによる歪みです。

 長々と説明してきましたが、要するに、マイナス票方式を導入する際、加算式か修正式かを取ればプラス・マイナス間の一票の格差は解消されます。
 では、このうちどちらを導入すべきでしょうか。

修正式を推す理由

 私は修正式を用いるべきだと思います。

 確かに加算式にもいいところがあります。それは票を好きなように投じることが出来ることです。
 一人に数票を与える加算式は大選挙区制・比例代表制における制限連記制のようなもので、好きな人に複数の投票を振り分けたり、落としたい人以外に公平に振り分けるなど、自由度の高い投票が可能になります。この制度の考え方と有権者の投票に対する意識が高まれば、私も加算式を取ることにやぶさかではありません。

 しかし、そもそもマイナス票の導入を考えるきっかけとなったのは、有権者の政治に対するしらけモードおよびその結果である投票率の低下です。前回の繰り返しになりますが、現状の「落ちて欲しい人以外の誰かに投票する」というやり方は「入れたい人はいないけど落としたい人ならいる」という有権者の意志をストレートに反映しない手段なので投票に対するインセンティブが働かないのではないか、というのが問題意識でした。加算式ではこの意志と手段のねじれが解消されません。マイナス票をそのままマイナスとしてカウントする修正式を用いてはじめてこのねじれが解消されることになります。
 また、一人に複数の票を用いることは、支持者数・不支持者数の数をわかりにくくします。この点、一人一票を堅持した方が、選挙区内の有権者のどれくらいが投票し、またどれくらいが不支持に回っているかがより直感的に把握できます。

おわりに

 長々と書いてきましたが、以上が私の「新・マイナス票制度導入案」です。

 最後に、「この制度は複雑なのではないのか?」という疑問にお答えしてこの小論を終わりたいと思います。
 確かにマイナス票を導入すると、今までより多少複雑になるのは否めないかもしれません。
 しかし、やっていることは思っているよりも単純です。集計はプラス票とマイナス票をそれぞれカウントし、マイナス票に修正をかけてから引き算をするだけ。一時期分数の出来ない大学生の話が取りざたされていましたが、そこにレベルを合わせるのならともかく、一般的にはそれほど難しい作業でないはずです。
 また、修正式だと候補者にとってマイナス票を投じるインセンティブが働きません(誰かにマイナス票を投じろと言っても、そのマイナス票の見返りは他の候補で分け分けするのですから、自分にプラス票を入れてくれという方が遙かにお得です)。ですから、候補者は今まで通り自分への支持を訴えればいいだけです。

 今まで、個別の政党を支持しない人は全部「無党派」という括りで一括処理されていました。しかし、「無党派」にも色々あるわけで、そういう声を少しでもより正確に反映させる「マイナス投票制度」は良い案だと思うのですが…疑問、反論、問題点など、ございましたら遠慮無くコメント欄までお願いします。

(了)

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2007年06月27日

投票率アップに関する一私案

 タイトルでは何やら大仰に言いましたが、選挙について「あったらいいな」を書いてみることにしただけです。特に目新しいアイデアってわけでもなく、むしろ既に色々な人が考えてるんじゃないかと思う程度のものですので、軽く読み流してくだされば幸いです。

 今回は選挙に行かない人の中でも、ある程度政治に関心のある無党派層を念頭に置いて話を進めていきます。
 投票に行かない理由で、私の周りなどでよく聞かれるのは、「投票したい人がいない」という声です。
 選挙で誰かに一票を投じるというと、どうも「この人に任せよう」と積極的に一票を投じなければならないような錯覚に陥るのでしょう。

 こういう生真面目さに敢えて冷や水をかけるような事を言いますが、こういう人は選挙に変な希望を持ちすぎなんだと思います
 冷静に考えれば気づきそうなものですが、そう都合良く投票したい人が自分の選挙区にいるなんて事、実際はほとんどありません。例えば、テレビの討論番組で○×党の誰それが良いこと言っていたので支持しているが、その人は別の選挙区なので、同じ○×党から立候補しているよく知らない人に投票した、しかしこの投票はどうも100%納得のいく投票ではないんじゃないか、と釈然としない気持ちを抱える場合です。
 しかし、これは前提がおかしいから勝手に釈然としないものを抱えてしまった、と言わざるを得ません。思うに、選挙とは「政治を任せたい」と思う人に一票を託すのではなく、数人の候補者の中から一番ましなヤツを選ぶという風に多少ネガティブに捉えるべきなのです。なまじっか理想ばっかり追い求めた挙げ句に投票に行かず、組織票に悠里に働くなんてバカな状況を生み出すのは愚の骨頂です。

 とはいえ、そんなニヒリスティックな意識改革で投票率が上がるのか、と言われれば疑問符が付くのは認めざるを得ません。「投票したい人がいない」と言っている人に「一番ましなのを選べ」という命令はネガティブさが中途半端で逆効果です。

 …今、「えっ?」と思った人、そうです。私のアイデアはもっとネガティブな方向性のものなんです。それがどういうものかというと、投票にマイナス票を導入するんです
「投票したい人がいない」とぼやく人たちが同時に言うのは「絶対通って欲しくない人ならいるんだけど」です。なら、それを導入すれば良いんじゃないのでしょうか?
 具体的には、信任票・不信任票の一人二票というやりかたもありますが、とりあえずは一票を信任か不信任に使えるとする選択制の方が良いように思います。

 とにかく、このマイナス票選択方式を導入すれば確実に投票率がアップすると断言します。言うまでもなく、今まで投票に行かなかった人の中には特定政党のみ不支持という「誰が通っても良いけどあの人(あの党)だけはイヤ!」って人が相当数存在するからです。

 このマイナス票選択方式に対する批判はいくつか考えられます。
 一つは、現状でも不支持を表明する手段はある、というものです。例えばABCの三候補がいて、誰も支持していないがA候補にだけは通って欲しくないという場合は、B候補かC候補に入れればいいじゃないか、と。
 しかし、この手段は消極的で回りくどいため、投票に対する意欲が湧きにくいという問題点があります。
 その点、マイナス票は積極的に誰かを選択します。今まで出来なかった選択の幅を広げ、しかも自分の意志がより反映されるシステムですから、投票率が上がりこそすれ下がるとは思えません。

 二つめは、候補者全員がマイナスだったらどうするの? というもの。
 しかし、現状の選挙にしたって候補者の中から相対多数制で選ばれています。そこにマイナス票が加わっても同じではないでしょうか。みんなマイナス票しか獲得できなかったとしたら、そのマイナス票が最も少なかった人を相対多数で当選させればいいのです。元々(現行制度でも)候補者の中からしか当選者は出ないわけですからさほど問題だとは思えません。

 最後に、ちょっと現実的な批判として、この制度は社民、共産、あと公明党に不利に働くのではないか、というもの。
 しかし、この制度はこれら三党をねらい打ちにするものではありません。
 そもそも、これらの三党は今まで組織票で得票していた分、投票率の低下で恩恵を受けていただけです。裏を返せば、本来反映されるべき不支持が制度上の欠陥により反映されず、結果的に不当な議席を得ていた、とすら言えるわけです。

 民主制における多数決原理は、その前提として「いかなる結果になろうとも、多数決の結果には従う」という合意がまずあります。
 この前提の下、選挙における棄権とは「誰が当選しても良い(選挙結果に従う)」という意思表示と解されます。そしてマイナス票は「この人以外なら誰が当選しても良い」という意思表示、となります。
 言うまでもなく民主制が有効に機能するためには、より多くの主権者の意思表示が必要なわけです。とすれば、マイナス票は棄権よりよっぽどましだと言うことになりそうなんですが、いかがでしょうか?

 思いつきでだらだら書きましたが、ご意見、ご感想、異論、反論など賜れれば幸いです。(ただ、罵倒混じりの下品なコメントは遠慮させていただきます)

(了)

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2006年08月14日

小泉首相の靖國参拝に対する評価について

 今年の八月十五日、九月の任期切れで首相を辞める小泉首相が靖國参拝するかも知れないと取り沙汰されています。
 小泉首相の靖國参拝については以前にも書いたことがあるのですが、これを機にもう一度持論をまとめることにしました。

今までの参拝について

 小泉首相は、首相就任にあたり「どんな圧力にも屈せず」八月十五日の参拝をするとし、"八月十五日の"靖國参拝を公約の一つに掲げて首相になりました。
 しかし、その年は八月十三日に前倒ししての参拝、その後も初詣だの例大祭だのに抜き打ち的に参拝してきました。昨年は昇殿せずにポケットマネーで賽銭を投げての参拝でした。

 私は、小泉首相が当初の公約通りに八月十五日に参拝してこなかったことは政治的な判断として失敗だったと評価しています。以下、その理由を二つ挙げます。

1.小泉首相が妥協しても、中韓の理解あるいは譲歩など引き出し得ない
2.内外に靖國参拝を少なからず後ろめたいことのように印象づけてしまった

 まずについて。
 2001年の時点で、日本の靖国参拝に反対するメディアの煽動に呼応する形で、中韓も靖國参拝に反発してきました。特に中国は狡猾なまでに交渉が上手いですから、靖國参拝が政治的なカードとして使えるとわかると、事ある毎に靖國参拝を問題化し、外交カードの一つとして利用してきました。
 そういう状況において、八月十五日の参拝を避けることが中韓の理解を得られることなどないだろう、というのが8月13日の前倒し参拝に対する私の感想でした。
 そして、譲り損だったことは当の小泉首相も最近になって認めています。

■15日参拝の意向、重ねて示す=「いつ行っても同じ」−小泉首相

 小泉純一郎首相は10日午前、靖国神社への参拝について「日本の首相が戦没者に対する哀悼の念を表明するため靖国神社に参拝する。これは当然のことだ」と強調した。その上で「15日ならず、いつ行っても(中国などは)批判する。いつ行っても同じだ」と述べ、15日の終戦記念日に参拝する意向を重ねて示した。モンゴルへの出発前に首相公邸で記者団の質問に答えた。

(時事通信2006年8月10日・強調引用者)

 だったら、はじめから八月十五日に行ってたって一緒だったということになり、八月十三日の前倒しやその後八月十五日を避け続けてきたことは結局無駄だったわけです。

 次に、について。
 やはり、「八月十五日の靖國参拝に何らやましいことはない」という持論を通すなら、一切譲歩などすべきではありませんでした。むしろ、最初の首相参拝を八月十三日に前倒ししたことで、靖國参拝反対派や特定アジア三カ国の言い分にも一定の理があることを首相自身が認めたかのようになってしまい、少なくとも、八月十五日の靖國参拝には戦前・軍国主義賛美の意味合いが確認されたかのような印象を与えてしまったと私は思います。
 その後も靖國参拝反対派(特に反日マスコミ)は靖国参拝を問題化し続け、小泉首相は当初の公約であった"八月十五日の参拝"を避け続けました。これは特に、この「問題」についてあまり詳しくない層(子供など)に、「問題がないのなら堂々と行けばいいのに」「やっぱり靖國参拝はどこか後ろめたいものがあるんだ」と痛くもない腹を探られるような印象を与えているのではないでしょうか。

 1で述べました「中韓の譲歩」が引き出せなかった以上、痛くない腹を探られるようなことをされる”隙”を作った以外に八月十五日の参拝を避けた効果は見いだせません

今年の参拝について

 明日(平成十八年八月十五日)の参拝についてですが、私は行くべきだと思います「どんな圧力にも屈せず終戦記念日には必ず靖国神社を参拝する」というのが、首相になる総裁選での公約だったからです。
 最近でも、小泉首相は「八月十五日に靖国参拝する公約は生きている」旨の発言をしていますが、これについては私も評価しています。

 ただし、ここで確認しておくべきことが二点あります。
 まず、現時点(2006年8月14日)において、この公約は達成はなされていない、という事実です。一部の小泉首相を支持する声の中に、靖國参拝についての公約が達成されたかのような物言いがあったので、ここでその間違いを指摘しておきます。

 次に、今までのことが明日の参拝で不問に付されるわけではない、ということです。
 むしろ、首相在任中に行ってきた靖國参拝をトータルで見たときに、八月十五日の参拝は首相の任期が切れる最後でなければ出来ない、よほどの大事なのか? という変な印象を新たに与えかねません。
 法務大臣は、たいてい任期が切れる間際に死刑執行の書類にまとめて判を押すそうです。靖國参拝もそういう扱いなのかな…というのは半分与太ですが、「先の大戦で命を落とした方々に祈りを捧げるのは当然のこと」みたいなことを一方で言っておきながら最後の最後にしか神社に行かない(行けない?)のは筋が通りません。

 ここで私は「もし」を考えてしまいます。もし、2001年の参拝から毎年一貫して、当初の公約通り八月十五日に参拝し続けていたら、今頃は日本のメディアも今のように連日「靖國、靖國」と騒いでいなかったのではないか、と。悪くても今と同じくらいの騒ぎようだったのではないか、と。

 小泉首相が八月十五日を避け続けてきたことの意味を、私はいまだに見いだせません。
(了)

長〜い追記

 小泉首相は八月十五日の朝七時四十五分頃、靖國神社を参拝しました。
 二礼二拍一礼をしなかったことを除けば、私は小泉首相の今回の参拝を全面的に支持します。正直、やっと公約を達成してくれた、という喜びもあります。

 ただ、そのことを以て過去の参拝を不問に付すことはできません。過去六回の小泉首相の靖國参拝について以下にまとめてみます。

2001年…8月13日に参拝。周囲の反対意見・説得に耳を傾け、8月15日を避ける。
   
2002年…春季例大祭に参拝。八月を避ける

2003年…1月14日に参拝。靖國神社の行事のない平日。

2004年…元旦に参拝。初詣として。

2005年…平服、本殿に昇殿せず、ポケットから取り出した小銭を賽銭箱に投げ入れるという私的参拝を強調した形。

2006年…8月15日に参拝。2001年からの公約を遂に達成。

 そりゃ、今年だけを見れば公約達成ですが、こうしてみると、これまでの五年間って一体何だったのか? と改めて思ってしまいます。

 私は、2001年の前倒し参拝から一貫して、小泉首相のこの譲歩はするだけ無駄、むしろ有害無益なものだと言い続けてきました(サイト上では2004年からですが)。
 そして今回、小泉首相もこの過去五回の譲歩がほぼ無意味・無駄であったことをお認めになっています

【質問】 何故、今回、終戦の日の8月15日を選ばれたのでしょうか。

【小泉総理】 これはね、最初、多くの方々が8月15日だけはやめてくれと、様々な方から言ってまいりましたね。そういう方々の意見も聞かなきゃいかんなということでね、敢えて15日を避けて参拝してきました。8月13日、或いは4月、10月、1月と、しかし、8月15日を避けても、いつも批判や反発、そして何とかこの問題を大きく取り上げようとする勢力、変わらないですね。いつ行っても同じです。ならば、今日は適切な日ではないかなと。これから戦没者の追悼記念式典もおこなわれます。私はこれから千鳥が淵の戦没者墓苑にお参りをします。戦没者の追悼式典にも出席します。適切な日だなと判断いたしました。

【質問】 2回目の参拝の時の所感の中では、総理は、終戦記念日やその前後の参拝にこだわって、再び内外に不安や警戒を抱かせることは、私の意に反するとしていました。今日の参拝は、その所感と矛盾するのではありませんか。

【小泉総理】 矛盾しません。それは過去5年を踏まえて、いつ行っても問題にして、混乱にしようとする勢力があるんです。それは仕方ないんです。そういうことを踏まえて、過去の経験が生きてきたんですね。いつ行っても参拝に、なんとか争点にしようとか、混乱させようとか、騒ぎにしようとか、国際問題にしようとかいう勢力があるんです。これに対してね、いけないと言ったって、それは、日本は言論の自由が認められてるんですから、どうにもなりません。ですから、いつ行ってもこういう騒ぎにしようという勢力があるんですから、8月15日に行っても、適切じゃないかなと。

(首相官邸「小泉首相インタビュー 平成十八年八月十五日」・強調引用者)

 私は別に自分の予想が当たったことを自慢したいのではありません。
 ただ、私が言いたいのは、中韓の因縁に中途半端に譲歩するという判断は政治的にも外交的にも失敗であったということです。「失敗」ということに抵抗を覚える人も、まず事実として過去五年間の譲歩は無駄だったということは認めなければいけません。
 そこをあやふやにしたままだと、また同じような「失敗」を繰り返してしまいます。中韓のイチャモンに譲歩などしても理解など得られない、こちらに非がなければ堂々とすることをすればよい、ということを教訓にするのなら、小泉首相の譲歩は無駄だったという事実(=失敗)から目を背けてはいけません。
 勝って兜の緒を締めよ、ではないですが、自分たちにとって痛快な結果に終わったときこそ、問題に対する冷静な分析および反省をすべきであると思います。
(了)

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2005年07月14日

どっちもどっち

 石原慎太郎東京都知事は一々要らんことを言わないと気が済まないのだろうか。

■「仏語は国際語失格」発言で都知事を提訴 語学学校長ら

  石原慎太郎・東京都知事が昨年10月、「フランス語は国際語として失格」などと発言したことをめぐり、都内の仏語学校長ら計21人が13日、「仏語に携わる者の名誉を傷つけた」などとして、石原知事に謝罪広告と原告一人あたり50万円の損害賠償を求める訴訟を東京地裁に起こした。

 石原知事は、都庁内で開かれた首都大学東京の支援組織の設立総会で「フランス語は数を勘定できない言葉だから、国際語として失格しているのも、むべなるかなという気がする。そういうものにしがみついている手合いが反対のための反対をしている。笑止千万だ」と発言した。

 原告の一人で、提訴後に記者会見した東京都港区の仏語学校「クラス・ド・フランセ」のマリック・ベルカンヌ校長(46)は「発言を知ったときはショックだった。知事が仏語を勉強したことがあるかどうかは知らないが、『数が数えられない』という発言は理解できない。発言の趣旨を説明してほしいと2月に質問状を送ったが返事がなく、提訴に踏み切った」と話した。

 原告側は「仏語は数が数えられ、国連などで公用語として使われている。知事発言は虚偽」と主張。仏語を母語とする人や研究者、翻訳者、通訳らの名誉を傷つけるとともに、仏語学校などの業務を妨害したと訴えている。

 発言当時、首都大学東京に再編される都立大の学内では、フランス語を含む語学・文学専攻が統合されることに反発の声が上がっていた。発言はそれを批判するなかで出た。

 《後略》

 (『asahi.com』2005年 7月13日 (水) 11:28)

頭の悪い発言と言われても仕方がないだろう

 仮にも文学者を名乗るのなら、もう少し言語表現に対して神経を使ってほしい。言いたかったことは恐らく「フランスの数の数え方は10進法と20進法が混在していて初学者には難しく、その点で国際公用語として用いるのには疑問だ」と言ったようなことだろう。そうであればきちんとそう言うべきであり、「フランス語はちゃんと数を数えられる!」などという下らない批判を浴びるような軽率で頭の悪い物言いは避けるべきだった。はっきり言って「言葉のプロ」として失格である。
 それに、いつぞやのババア発言と言い、ご自分の立場を弁えてもう少し発言に注意を払うべきである。何も公式の場でそんな挑発的なことを言う必要もないだろう。公人としてもその点では資質を疑わざるを得ない。

 石原の文学者にあるまじき杜撰な表現と軽率さには、弁護の余地など全くない。

《追記》
 トラックバックを頂戴した『木偶の妄言』さんの「文化の差が分からぬ愚者2人」という記事で、各言語における数の数え方は文化であり、自分の尺度と文化を絶対視して他の言語(の数の読み方)を批判するのはおかしいという指摘があった。もっともなことである。日本は10進法と4桁をひとまとまりとしてそれが循環する数え方(一・十・百・千 ⇒ 一・十・百・千 ⇒ 一・十・百・千)をするが、3桁をひとまとまりにしてそれが循環する英語の数え方(1,000:thousand1,000,000:million1,000,000,000:billion)と比較したとき優劣は認められない。(2005.7.16)

原告は日本人をバカ扱いするな!

 しかし、一方で民事裁判まで起こした原告の心情も理解に苦しむ。フランス人はフランス語に誇りを持っているという話は聞いたことがあるが、 低レベルな罵声に対して対処する方法としては、無視するか、相手のレベルまで降りていってやり合うか二つしかない以上、この石原都知事の低レベルな発言に裁判まで起こすことが果たしてフランス語の誇りを守ることになるのだろうか(レベルの低い石原を相手にする彼らも低レベル、などと見られかねないのでは)と思うからである。ま、価値観は人それぞれだし、私がどうこう言う筋合いのモノでもない、と言われればそれまでだが。

 ただ、訴状案を読んでいると引っかかるところがあった。石原の、

「フランス語は数を勘定できない言葉だから、国際語として失格しているのも、むべなるかなという気がする。そういうものにしがみついている手合いが反対のための反対をしている。笑止千万だ」

という発言を聞いたとき、日本人の大半は「石原都知事はまたバカなことを言っている」「乱暴な物言いだな」と思うことはあっても、「フランス語は数が数えられない(ついでにフランス人は数が読めない)」と石原の発言に同意することことは全くと言っていいほどあり得ない(そこまで日本人はバカではない、と私は信じる)。この点、原告側の訴状案をみると、

3 原告らに対する名誉毀損等
 (1) 本件発言が伝える事実等

 本件発言は、祝辞を聞いた設立総会参加者、この発言内容を新聞報道で読んだ読者、東京都庁ホームページでこの祝辞を聞いた者に対して、@フランス語は数を勘定できない言葉である(以下「伝達事実@」という)、Aフランス語は国際語として失格している(以下「伝達事実A」という)、との事実を伝えるものである。
 のみならず、この事実を前提にして東京都知事という立場にある者が、「(このようなフランス語が)国際語として失格しているのもむべなるかなという気がする。」「そういうものにしがみついている手合い」は「笑止千万」と、フランス語を使用する者に対する侮蔑的評価を公言した(以下「本件侮蔑的発言」という)。

 (2) 原告ら全員に対する名誉毀損

 上記伝達事実@Aは、虚偽である。フランス語は数も数えられるし、国連などの国際機関や多数の国で公用語として使用されている
 被告のこの誤った事実を伝える発言は、フランス語は数も数えられないような原始的で稚拙な言語であり、国際的には通用しない未熟な言語であるかのよう印象を与え、フランス語に対する世間の評価を著しく低下させたものである

 (中略)

(3) 原告目録○○○○及び○○○○記載の原告らに対する業務妨害

 同時に被告の本件発言は、フランス語学校を運営又は経営し又はフランス語の通訳・翻訳その他フランス語を業務の手段としている人々の上記各業務を妨害したものである。
 すなわち、東京都知事である被告の知名度、マスコミでの取り上げられ方、社会的影響力等に鑑みると、「フランス語は数を勘定できない言葉」であるとか、「国際語として失格している」との虚偽の事実を公然と述べたことにより、虚偽の内容を真に受けた多くの東京都民その他の市民が、フランス語学校に入学してフランス語の学習をする意思を喪失させ、原告らは生徒応募の機会を危うくさせられるおそれがある
 また、フランス語は価値の低い言語であるとの印象を与えることによって、フランス語から(あるいはフランス語へ)の翻訳や通訳を利用する意思を喪失させるおそれがある
 これにより原告らは営業上著しい損害を受けた。
 (強調引用者)

とある。が、石原の発言によって「フランス語は数も数えられないような原始的で稚拙な言語であり、国際的には通用しない未熟な言語であるかのよう印象」を持った人や、「フランス語に対する世間の評価」が「著しく低下」したなどという事実は寡聞にして知らない。
 業務妨害の項では「原告は営業上著しい損害を受けた」と言っているが、よく読んでみるとそれはすべて「おそれ」すなわち可能性(蓋然性)でしかない。しかも、この「おそれ」は、多くの東京都民が石原の乱暴かつ無茶苦茶な発言を鵜呑みにするという東京都民をバカ扱いした(と言って悪ければバカと前提した)上での「おそれ」である。
 原告が、自分たちの名誉毀損について争うのは構わない。しかし、ありもしない世間の評価をでっち上げ、東京都民を(引いては日本人全般を)バカ扱いするのはやめてほしい(むしろ、この訴状の記述こそ日本国民の名誉を著しく害するものである)。

 こうしてみると、他者の名誉を不当に侵害している点においては両者一緒であり、私は「どっちもどっちだな」と暗い気分になってしまうのである。

(了)

《追記》
 私は、自覚的にせよ無自覚にせよ他者をバカ扱いすることに対して批判を加えたが、よしさんから法律論に基づくコメントを頂戴した。
 仰るとおり、名誉毀損とは「特定個人の具体的な社会的評価の低下(及びその危険)」であり、今回は双方とも「フランス語、およびそれに携わる人々」「東京都民」という不特定多数を中傷したものであるから、法律論としては、よしさんの仰るとおり不法行為は成立しないと思われる。
 原告側の弁護士もこの程度のことはわからないではないだろうに(ホントにわかってないのなら方のプロとして問題だと思う)。そう考えると、「この弁護士たちは石原叩きが目的なんじゃないだろうか?」とつい邪推してしまう。

 不特定多数をバカにする、で思い出したことがある。昔、カナダでは英語とフランス語が公用語になっているようだが、フランス語を使う人は英語を使う人をバカにする傾向があるという話を聞いた。
 フランス人が特にそうなのだが、フランス語を使う人たちはフランス語に誇りを持っている人が多いそうである。それ自体は一向に構わないのだが、時にそれは他の言語を劣ったものと見下したりすることにつながったりもする(ちなみに、この議論のパターンは日本人のナショナリズムを批判する文脈でよくお目にかかるが、「地球市民」がこれを批判しているのは寡聞にして知らない)。
 偏見と言われればそれまでだが、どうも私はフランス語使用者は他国の言語・文化を蔑視する傾向があるように思えてならない。
 もっとも、このことが原告たちに直接結びつくわけではない。原告たちは他国の文化も尊重する素晴らしい人たちなのかもしれないし、それ以前に私は原告たちの人となりをほとんど知らない。だから、「不特定多数をバカにする…」以下で述べたことは原告に対する批判ではなく、あくまで私がフランス語使用者に対して抱く雑感とご理解下さい。
 (2005.7.16)

《リンク先》
・asahi.com「仏語は国際語失格」発言で都知事を提訴 語学学校長ら
   『gooニュース
・「訴状案
   『石原都知事のフランス語発言に抗議する会
・名塚元哉「フランス語の数の数え方は難しい。
   『あんた何様?日記

《トラックバック送信先》
・brotherjin「文化の差が分からぬ愚者2人
   『木偶の妄言
・selgae「石原都知事「フランス語は国際語失格」発言
   『時評親爺
・Marusho「石原東京都知事のフランス語の侮辱発言
   『自分自身を信じて、まずはTRY !
・REDOLOVER「おフランス人お怒りモード
   『REDLOVER

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2005年06月04日

COOL BIZに諸手を挙げて賛成します!(1)

 今年から始まったCOOL BIZ(クールビズ)、結論から言えば定着して欲しいと思う。夏場にスーツを着るのはどう考えても暑いに決まっていると常々思っていたからだ。

そもそも、日本の夏にはスーツという服装は合わないのではないか

 初めてこう思ったのは、樋口清之『完本 梅干と日本刀』を読んだときだった。同書の104頁以下、145頁以下には着物が湿度の高い日本の気候に合わせて通気をよくするように改良されていったことが書かれている。わざわざ同書を引くまでもなく、納涼の花火大会において浴衣や着物(あるいは甚平なんかでもいい)を着ている人とスーツを着ている人、二人を見比べたときにどちらが涼しげであるか言うまでもないだろう。
 実際に夏場にスーツを着るようになったとき、この考えが正しかったことを改めて痛感した。夏場に着物を着る機会はなかったので厳密に言えば着物が涼しいかについては経験がないのだが、少なくともスーツがどうしようもなく暑いことだけは実感した。『MASTERキートン (ワイド版・1巻)』の135頁ではタクラマカン砂漠にスーツ姿で赴いた主人公キートンについて「背広に長袖、それに長ズボンは、実際には直射日光をさけ、通気性もいい」なんて言ってたけど、全然そんなことねえよ(これは湿度の差が原因か?)。
 そういえば、少し前に読んだパオロ・マッツァリーノ『反社会学講座』の233頁に「背広を着られる気温」という話が載っていた*。詳しくは同書をご覧いただくとして、かいつまんで説明するなら、スーツの発祥の地であるイギリスのロンドンの気温は年間を通じてだいたい4度から17度くらいであり、スーツというのはそういう気候に合わせて作られた服なのである。夏場の湿度も日本よりもずっと低い。

 やはり、合理的に考えれば、日本の夏の気候にスーツ・ネクタイという服装は不向きである。

* 今すぐ当該記事を読んでみたいというせっかちな方は同書の元となったサイトの記事を是非お読みいただきたい(ちなみに私はサイトの全記事に目を通した上で本を買いました。オススメです)。

 次回は、なぜ季節を考えずスーツを着ることが「正装」だとなっているのか、それについて書いてみたい。
(この項つづく)

《参考文献》
・勝鹿北星・浦沢直樹『MASTERキートン (ワイド版・1巻)』(小学館)
・樋口清之『完本 梅干と日本刀』(祥伝社黄金文庫)
・パオロ・マッツァリーノ『反社会学講座』(イースト・プレス)

《リンク先》
・パオロ・マッツァリーノ「第16回 夏季限定首都機能移転論
   『スタンダード反社会学講座

《トラックバック送信先》
・真田しゅうりん「室温28度遵守よりも地球温暖化防止を優先すべき クールビズ
   『真田しゅうりんの日記帳
・うずまき7号「クールビズ
   『資格ゲット大作戦!!
・那伽扉「クールビズ大賛成!
   『キティハケーン

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2005年01月10日

今年もマッチポンプな成人式報道が見られるのか

 ここ数年、成人式となると「荒れる新成人」という非常にわかりやすい図式で報道され続けている。マスコミというのは本当にわかりやすい答えにすぐ飛びつきたがるものだ。
 昨晩、探偵ファイルをちらっとみたらこんな記事があった。

しかし、実際に活動を行っていて一番心苦しいのは、マスコミの一方的な報道であるそうだ。

「今年トラブルが起きそうな式はどこだ?」
という問い合わせはしょっちゅう来ます。
それで、その式に張り込みたいようですよ。

確かにここ数年、成人の日といえば若者の傍若無人な姿ばかりを映し出す報道が多い。

 マスコミがセンセーショナルな「ネタ」を探しているという浅ましい構図が浮き彫りにされているので是非全文をご一読頂きたい。
 ごく一部の脳の悪い新成人を殊更クローズアップして、それがさも「現代の若者」であるかのように報道する。これは阪神優勝の際に道頓堀にテレビカメラを設置したのと同じである。
 これが報道に名を借りた、バカを焚きつけた「やらせ」でなくて何だというのだ。コメンテーターやニュースキャスターがしたり顔で陳腐な苦言を呈したりしているが、その陳腐な苦言を吐かせる「画」を撮るために、彼らのお仲間である取材スタッフが大多数の普通の新成人に多大な迷惑と不快感を与えているわけである。人間のクズさ加減で言えば脳の悪い一部の新成人と五十歩百歩であろう。

* どうせ「やらせ」をするのなら、乱痴気騒ぎを起こす脳の悪い一部新成人にキレた大多数の普通の新成人がそいつらを袋だたきにするところまでやって欲しいものだ。そっちのほうがよっぽど見ていてすがすがしい。

「荒れる成人式」を何とかするには、そういう行為がダサくて恥ずかしいという共通認識を作っていくことが解決策になると思う。そう言う意味では、乱痴気騒ぎを起こした新成人に対して会場の新成人が一斉に「ださい」「しょーもない」とヤジを飛ばしまくれるのが一番効くのではないか。脳の悪い連中が自分の味方だと思っているだろう会場の新成人から総スカンを食らい見下されるという構図が広まれば、翌年以降暴れようとする連中は少なくなっていくだろうと思うからだ。
 報道姿勢も変えるべきだと思う。記念に暴れたい、目立ちたい人間の愚行をわざわざ公共の電波でアピールしてやる必要もないだろう。「ごくごく一部の新成人が暴れたりしていましたが、周りから白い目で見られていました」くらいのコメントで片づけりゃあ良いのである。
 それをわざわざ深刻ぶって問題化しようとするマスコミは、やっぱり頭が悪いのか、飯のタネに敢えて煽っているのかどちらかだろう。どちらにしても人間のクズであることに変わりはないが。
(了)

《リンク先》
・「マスコミが一番ワクワク!?成人式
   『探偵ファイル

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2004年11月08日

ダメなもの「天皇陛下にまつわる人々」

 少し古い話になるが、2004年10月28日の園遊会で「日本中の学校にとにかく国旗をあげて国歌を斉唱させるというのが私の仕事でございます」とかしこまって話す米長邦雄に対し、天皇陛下が「やはり、強制になるというものでないからね」と仰ったことが報道されている。

米長邦雄の発言の問題点

 その後の「もちろんそうでございます。本当に素晴らしいお言葉いただきましてありがとうございました」という米長の返事がよくわからないが、米長はどういうつもりでこの一連の発言を天皇陛下に申し上げたのだろうか。
 憲法に定められているとおり、天皇は政治的に無答責の立場にある。そのお立場に鑑みれば、かかる発言がどれだけご迷惑をおかけするかわかりそうなものである。天皇陛下に政治的な意思表示をさせることは、米長の嫌う左派に天皇(制)批判の材料を与えることになりかねない。保守派は今回の米長の行為をもっと批判すべきだと思う。
 それにしても米長は、「そうですか。ありがとう。頑張って下さい」と褒めていただけるとでも思っていたのだろうか。だとしたら相当おめでたい人だ。棋士の割に読みが浅すぎる。

左派(?)の右派批判

「天皇陛下」「米長邦雄」でググってみると、日の丸・君が代に否定的な者が「米長邦雄(や石原慎太郎)よ、あなたがたが崇拝する天皇が『強制はよくない』と言ったのだから、教育現場における日の丸・君が代の強制をやめなさいよ」という批判をしているのをみた(その一例としてこちらを挙げておく)。
 一見、皮肉の効いたクリティカルな批判のように見える。しかし、この批判は論理を展開していくとジレンマに陥る。なぜなら、これらの批判者は基本的に天皇の政治関与を否定する立場に立つからだ。
 そもそも、この件で問題なのは、先に述べたように米長が天皇陛下に政治的発言をさせようとしたことにある。その根本にあるのは「天皇は政治に口出ししてはいけない」ということにある。なのに、日の丸・君が代強制推進派(ここではわかりやすく米長・石原の両人としておく) に「天皇が『強制は望ましくない』と言ったのだから強制はやめるべき」と指摘することは、米長・石原が天皇の意向を受けて政策決定することを肯定することを意味する。米長も石原も公的な職に就く者であるから、結果的に批判者自身が天皇の政治的な口出しを認めるばかりか、自ら天皇を政治利用してしまうことになる。日の丸・君が代の強制に反対する人々の多くは天皇の政治関与を否定するはずだから、自家撞着に陥るのは明らかだろう。

天皇陛下の発言はどう理解すべきか

 では、天皇陛下の「やはり、強制になるというものでないからね」というご発言は政治的な関与にあたり問題ではないのか。

 それを考える前に、学校教育の場で日の丸を掲揚し君が代を斉唱することにつて私見を述べておく。
 私は学校教育の場で日の丸・君が代を強制するのには賛成である。理由はいくつかあるが、一つには国旗・国家に対する国際的な礼儀・常識を教える必要性があるからである。長野五輪のときに表彰台で帽子を取らなかった選手がいたが、あれは他国の選手に対しても非常に失礼であるということを知らなかったから起きたことである。国際的な場で恥をかかないように、国際社会の礼儀やルールを教えるのが義務教育の大事な使命なのではないのか。
 もう一つは、国家が国民のものであると同時に、国民自身の手によってその運営を担われ、その責任は国民が負うということを認識させるという意味での愛国心教育に必要だからである(民主主義国家における愛国心の必要性についてはこちらを参照頂きたい)。
 ただ、これは天皇に忠誠を誓うというものではない。敢えて「忠誠」という言葉を用いるなら、その対象は自分たちの属する国である。「日本国の象徴」であり「国民統合の象徴」である天皇(憲法1条)にしかるべき敬意を払う必要はあるが(だから本文中で天皇陛下に対して敬語を用いている) 、公権力が強制して「忠誠」の対象とはすべきではないと思う。

 米長が日の丸・君が代を推進するのは天皇のためと思われる。でなければ、わざわざ天皇陛下に「日本中の学校にとにかく国旗をあげて国歌を斉唱させるというのが私の仕事でございます」という理由がないことになる。
 しかし、上に述べたように、民主主義国家の日本においては天皇に忠誠を誓わせるために国旗・国歌を強制してはならないと私は考える。
 そして、これは天皇陛下も同様にお考えだったのではないか。天皇陛下としては、ご自分のために日の丸・君が代を推進していると言われてもお困りになるだろうし、また、お立場的にも政治的な関与を避けなければいけない。だからあのように仰ったと私は考える。天皇陛下はああ仰ることで政治的関与を避け、憲法の趣旨を守られたことになる。
 従って、天皇陛下の当該発言は問題になるどころか、憲法上も望ましい発言とさえ言える。

余談その一。米長発言は宮内庁側の謀略!?

 これに対して共産党都議会議員のそねはじめは、「はじめ通信」の中で、

悪く言えば、憲法や教育基本法を変えるのはもっとうまくやりなさいということか、私をだしに使うなということか、いずれにせよ自分は蚊帳の外に身をおいて、改憲が失敗したときの政治責任追及を逃れる意味はあったでしょう。

と述べているが、こういう発言自体憲法で天皇を象徴とした趣旨を全く理解していないと解さざるを得ない。「護憲」が党是の割に不勉強なことである。
 ちなみに、このそねはじめというお人、今回の米長舞い上がり事件について以下のような分析をされている。

●ことの経過を少し詳しくみると、この園遊会には東京の教育関係者として小山内美江子氏と米長邦夫氏が招かれて、隣り合わせて並んでいました。もちろん皇居側できめられたもので、天皇は先に小山内氏の活動についてたずね、彼女は、脚本の仕事の傍ら、カンボジアで学校を造っていると答え、天皇は「ぜひ頑張ってください」と励ましの発言をしています。
 その次に米長氏の前に来て、「教育委員の仕事ごくろうさま。どうですか」と、水を向けました。護憲派の小山内氏が発言し、天皇から激励された後だけに、当然ながら米長氏は心理的あせりもあったのでしょう、天皇の前で少し対抗的な肩肘張った言い方にならざるを得なかったと思います。
 つまり全体として皇居側から意図して、日の丸君が代”強制派”急先鋒の米長氏にそのことを語らせた上で、「強制にならない様に」と天皇自ら発言をするための高度な演出があったと考えても不思議ではありません。

 こういうのを陰謀論というのだろう。トンデモ本で是非取り上げて欲しいものだ。

余談その二。天皇陛下にタメ口をきくオバハン

 天皇、皇后両陛下が新潟の震災被災地を見舞われ、被災者を激励されたときのこと。父がニュースを見ていると、72歳の陛下以上にお年を召したご老人がフローリング(だったと思う。とにかく足下が硬い場所)で正座して陛下のお言葉を聞いていた一方で、
「このひどい状況を何とかして」
と言うようなことを陛下に対して言ったオバハンがいたそうである。
 父は「敬語が使えないというのは、何も子供だけの話じゃない。いい年した世代でもそういう常識が壊れてきている」というような分析を話していたが、私は次のようなことをぼんやりと考えていた。

 天皇陛下に対して敬語を使わないそのオバハンは、じゃあ一体いつ・誰に対して敬語を使うつもりなんだろうか…。

(了)

《リンク先》
・松村宏「天皇陛下から頂いた「本当に素晴らしいお言葉」に困った!
   『松村宏のNEWSな顔
・そねはじめ「はじめ通信・子どもと教育のはた4−1030
   『そねはじめのページ

《トラックバック送信先》
・大石英司「中抜きロジスティックスの極意
   『大石英司の代替空港
・asatte_no_houkou「『愛国心』が面白いほどわかる
   『あさってのほうこうBlog

続きを読む
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2004年10月15日

ダメなもの「本宮ひろ志『国が燃える』休載」(2)

 前回

 そういえば、「国が燃える」のその後が気になって2004年10月12日(火)に「ヤングジャンプ」誌を立ち読みした。「百人斬り」の記事を見た軍の偉いさんが「こんなことやれるわけないだろう、バカタレ!」といった感じて記事を罵倒していた。国民もマスコミも、そんな与太話に浮かれている、という方向に問題意識を方向転換し(というか、作品の根底にはそういう問題意識が元々あったのかもしれない)、単行本にする際に、南京事件の回だけを書き直せば問題なく話がつながるようにしたのだろうか。その辺は最初から読んでいないからよくわからない。

 と書いたが、どうやら南京事件の次の回で主人公が松井石根大将に談判するシーンがあったらしい。こうなると単行本に収録する際には全面的に書き直さなければならないかもしれない。
 なお、前回挙げ忘れたが、『国が燃える』捏造事件?(1)がなかなかよくまとまっているので興味のある方はご参照頂きたい(現在(8)まであるはず)。

抗議のあり方について(再考)

 今回の件で一番違和感を覚えたのがこの抗議文である。文面がどうも感情的に過ぎる。その上、要求していることが左翼の抗議とほとんど変わらない。
 かつて小林よしのりが従軍慰安婦問題を描いた際に、福岡県の43団体から抗議がきたことがあった(詳細は『新ゴーマニズム宣言(3巻)』を参照いただきたい)。その際も「単行本に載せない」「広告を出す(この場合は謝罪広告だったが)」と要求していた。今回と極めて似通っている。
 基本的に表現に対しては表現でけりをつけるべきだと私は思う。内容に不満があれば抗議を申し入れるにとどめ、表現そのものを封殺するようなことは言うべきではない。この点、集英社問題を考える地方議員の会は内容についての抗議にとどめていたから個人的にはぎりぎり許容範囲内といったところか。
 別に表現の自由だのを声高に振りかざすつもりもあまりない。ただ、開き直るなど相手のその後の態度がかなり悪質でない限り、いきなり大上段に掲載と販売の中止を求めるのは行き過ぎではないか。少なくとも、抗議に対してここまで及び腰の集英社には「鶏を裂くのに牛刀を用いる」ようなものだとしか思えない。

 それに、青少年の影響だのを云々するなら、本宮の当該作品よりも、小・中学校の国語科・社会科・道徳などの教科書の方がよっぽど深刻である。
 この前、東京書籍の中学2年の国語教科書に目を通す機会があったのだが、そこにはイ・サンクムという人が書いた『半分のふるさと―私が日本にいたときのこと』の一部が掲載されていた。そこには在日朝鮮人が戦前から以下に虐げられてきたかということが誇張や虚構も交えて書かれている*。英語の教科書(三省堂のニュークラウン)にもやたら「Korea」だのが登場し、日本の支配云々という記述があったりもする。解放出版社制作の「にんげん」という道徳の教科書にいたっては、道徳の教科書ではなく被差別部落と在日差別の作品・事例集となっており、もはや「道徳」の教科書ではなくなっている。
 最後の「にんげん」の被差別部落の記述は措くとしても、集英社にデモまでした人々からすれば、その内容からしても、青少年の悪影響からしてもよっぽど重大事ではないのか。本宮の内容でデモがなされるなら東京書籍や三省堂・明治図書にはそれこそ「焼き討ち」でもしなければならなくなりそうだ。
 だからといって、これらの教科書出版社に抗議(あるいはデモ)をしろと言っているのではない。ただ、デモをするに相応しい「巨悪」はもっと他にいると思っただけである。

* 朝鮮人はみんな日韓併合に反対しただの(日韓併合を支持した一進会はどう説明するのだろう)、反対した者は片っ端から逮捕・虐待されただの、祖父が日本人に土地を取られたから仕方なく日本に出稼ぎに来ただの(少なくとも出稼ぎ先を日本に選んだのは祖父自身ではないか)、一方的な記述が目立った(なぜ私が一方的かというかについては こちらをご覧いただきたい)。

休載は果たしてよかったのか?

 結局、終始弱腰の集英社は「国が燃える」を休載にした(こちらなど)。しばらく冷却期間を置きその間に南京事件以降のプロットを練り直すのだろうか、あるいはこのまま打ち切りにしてしまうのだろうか。
 確かに、いくらフィクションとは言え描いていいことと悪いことはあるだろうし、それが後者に当たるのなら再検討した上でしかるべき修正はなすべきである。
 しかし、今回のようにきちんと自社や作者の主張を出さずに休載にするのはやるべきではなかった。これでは、休載という形で問題そのものを無くし、問題をうやむやにしてしまうつもりではないか、と取られても仕方ない。むしろ、ここまで問題が大きくなった以上、集英社はきちっと釈明して自社と作者の見解を打ち出し、反省するなり反論するなりすべきだった。抗議を受けて大した釈明もせずに休載にするなど、言論の自殺である。それ以前に、集英社には言論を担う出版社としての矜持はないのか?
 左翼の側も、「言論の弾圧だ」と抗議を申し入れた人々を批判する前に、集英社の弱腰を批判すべきである。

 今回一番批判されるべきは、集英社の事なかれ主義である。作者の本宮のコメントも言わせずに、ただ平身低頭で批判や抗議をやり過ごそうとする。そんな覚悟のなさこそが一番責められるべきだと私は思った。
(了)

《関連記事》
ダメなもの「本宮ひろ志『国が燃える』への抗議デモ」
ダメなもの「本宮ひろ志『国が燃える』休載」(1)
・ダメなもの「本宮ひろ志『国が燃える』休載」(2)
ヤングジャンプの本宮ひろ志への制裁?

《参考文献》
・小林よしのり『新ゴーマニズム宣言(3巻)』(小学館文庫)
・イ・サンクム『半分のふるさと』(福音館書店)

《リンク先》
・『『国が燃える』捏造事件?(1)
・「集英社抗議文
・犬伏秀一「本宮ひろし先輩、史実を曲げちゃダメ!@ヤングジャンプ
   『いぬぶし秀一の激辛活動日誌
・「チャンネル桜・掲示板

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2004年10月13日

ダメなもの「本宮ひろ志『国が燃える』休載」(1)

 昨晩、仕事終わりの後輩の家に徒党を組んで押しかけ、知る人ぞ知る『ゆきゆきて、神軍』の奥崎謙三がキチガイの限りを尽くす『神様の愛い奴』を上映し、自分もろともその場にいた全員の精神を崩壊寸前まで追い込んでいた間に、本宮ひろ志の「国が燃える」が休載になっていた。私がバカやっている間にも世の中は着実に動いているようだ。

 そういえば、「国が燃える」のその後が気になって2004年10月12日(火)に「ヤングジャンプ」誌を立ち読みした。向井・野田両氏の「百人斬り」の記事を見た軍の偉いさんが「こんなことやれるわけないだろう、バカタレ!」といった感じて記事を罵倒していた。国民もマスコミも、そんな与太話に浮かれている、という方向に問題意識を方向転換し(というか、作品の根底にはそういう問題意識が元々あったのかもしれない)、単行本にする際に、南京事件の回だけを書き直せば問題なく話がつながるようにしたのだろうか。その辺は最初から読んでいないからよくわからない。

本宮ひろ志側の認識

 今回の記事を読んで最初に思ったのは「えらい(内容が)偏ってるなぁ」というものである。依拠した資料が、南京大虐殺肯定派の資料(それも明確なウソや間違いが指摘されているものもある)だけというのも気になった。また、これは以前にも指摘したことだが、南京大虐殺肯定派の弱点が補強されている箇所がいくつかあった。写真では中国側の軍服だったのに、それをきっちり日本軍の者に書き換えたりもしている。少なくとも、ブレーンに南京大虐殺肯定派の人がいると見て間違いなさそうである。

 ただ、果たして本宮自身がどこまでの「反日思想の持ち主」なのか、正直よくわからない。私の中では「男一匹ガキ大将」が浅羽通明の『ナショナリズム』で取り上げられたりしていたので、どうも「反日」だとかいうイメージが結びつかないのだ。どっちかというと、思想よりも 演出として主人公と対峙するわかりやすい「悪」として日本軍の蛮行を立てただけではないかと感じられた。
 本宮の漫画はわかりやすい悪に対して主人公がぶち切れて絶叫というのがよくあるパターンだ。だから、思想的にどうこうよりもわかりやすいヒール(悪役)として日本軍の「蛮行」を煽って描いたのではないか。そういう意味で、どうも私は本宮の南京事件の描写に対し、あまり「思想性」を感じなかった。だからといって、歴史を売りにした漫画であそこまで史実を無視した描き方が許されると言うつもりもないが(この点 gori「Irregular Expression」なども同旨か)。

集英社側の対応の悪さ

 今回一番まずかったのは、内容云々よりも集英社の一連の対応かもしれない。出版社と言えば大なり小なり「言論・表現の自由」を担っているという矜持がありそうなものだが、ここまで「表現」に対して弱腰な出版社というのも珍しいのではないか。
 うかつなことを言えなかっただろうから、しばらく沈黙していたのならわかるが、だったらこの回答はさすがにまずいと思う。

 まず、『国が燃える』という作品ですが、作者・本宮ひろ志の創作物であり、いわば完全なフィクションであるということを申し上げたいと存じます。そして、作品は是非とも全体として判断していただきたいと考えておりますし、最後までご覧になられた上で、再度の意見があれば承りたいと存じます。

というのは、同じ編集部が「大反響!巨匠の書く戦争の真実!」と煽っていたことを考えるとふざけた回答だと言われても仕方ない。そう言えば、佐藤正『燃える!お兄さん』のときも作者はひたすら謝って頭を下げてただけのように思う。ここまでポリシーのない出版社というのもいかがなものか。

 南京事件を描いた「国が燃える」の内容については弁護の余地はないし弁護する気もない。に言ったように、批判の声が挙がり、抗議が行くのも当然だと思う。しかし、抗議文にある「集英社の不買運動を検討する会」や「本宮ひろ志の歴史偽造を糾弾する会」を作って(ホントにこんな会が結成されたのか?)デモまでするのは、やはりどこか違うのではないか。増して、休載というのが本当に妥当な解決だったのか。
(この項つづく)

《関連記事》
ダメなもの「本宮ひろ志『国が燃える』への抗議デモ」
・ダメなもの「本宮ひろ志『国が燃える』休載」(1)
ダメなもの「本宮ひろ志『国が燃える』休載」(2)
ヤングジャンプの本宮ひろ志への制裁?

《参考文献》
・浅羽通明『ナショナリズム』(ちくま新書)
・佐藤正『燃える!お兄さん』(集英社文庫)

《参考DVD》
・『ゆきゆきて、神軍
・『神様の愛い奴

《リンク先》
・gori「魔法の合言葉
   『Irregular Expression
・『集英社抗議文
・『集英社よりの回答書
・「チャンネル桜・掲示板

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2004年10月07日

ダメなもの「犬を捨てる人」

 鈴木孝夫の『ことばと文化』に犬を例にした日本人と西洋人の感覚の違いを述べた箇所がある。日本人は犬を飼えなくなると捨てるが、イギリス人はピストルで撃ち殺す、それが犬のためになると考えている、という話だ。
 私はこれを読んだとき、少し心理的な抵抗を感じた。鈴木が「捨犬は決してほめられたことではない。私たちもイギリスの人のような考え方を犬に対して持つ方が現代の都市社会では具合がよいことは明らかだ」(同108頁)という記述にも、それはそうだろうとは思いながらも釈然としないものを感じていた。
 しかし、最近は鈴木の言う犬を飼えなくなったら飼い主が責任を持って殺すべきという西洋の考え方に同調するようになってきた。犬を飼うことにあまりに責任のなさ過ぎる飼い主が多すぎるのではないかと思うからである。

捨てられる犬の話

 うちには現在二匹の犬がいる。一匹は雌の老犬で、もう一匹は生後まもなく太子町の道の駅に捨てられていて、処分される寸前だったのをもらってきた雄犬(推定0.5歳)だ。親が保健所に勤めている関係で、そのうち一匹をもらうことができた。捨てられていたのは三匹だが、残り二匹がどうなったかは知らない。動物保護管理センターに送られたはずだが、子犬だと引き取り手があったかもしれない。ただ、獣医の話だとそれもあまり期待できないそうだ、と親から聞いた。
 また、親が犬の処分について色々話してくれたことでは、だいたい週に一二回は(注:いちに回。十二回ではない。念のため)保健所に「処分してくれ」と犬が持ち込まれるそうだ。中には老犬を「これ以上弱っていくのが見るに忍びないから処分してくれ」と持ち込む人もあったとか。一時期当たった漫画(佐々木倫子『動物のお医者さん』)の影響でシベリアンハスキーのブームが来たそうだが、ブームが去ると「頭が悪い」「大型犬はえさ代がかかる」(そんなこと飼う前にわかるだろう。ハスキーより頭悪いんじゃないのか)などと言われてあちこちで捨てられ、悲惨な捨てハスキーが増えたそうである(ちなみに、ハスキーについてはこちらを参照頂きたい。頭が悪いなどと言うのは人間側の勝手な決めつけである)。

「責任」を取らせろ

 別に我が家で一匹の犬の命を救ったことを自慢したいわけではない(ついでに言えば良い飼い主でもない。自己申告では「中の下」くらいか)。捨てられた挙げ句に薬殺される動物たちに同情はするが、公衆衛生などから一定の野犬駆除が必要なことも認める。

 ただ、私が許せないのは、テメェの都合でペットを飼っておきながら、あきると玩具のように捨てる連中である。そういう連中にはもう命の尊厳などわかってもらう必要もない。『灼熱の釘』をまねるわけでもないが「そんな飼い主は今すぐ死ね」と思ってしまう。
「いい人が拾ってくれると良いね」などと言う文句も、こうなると他人にペットを押しつけているだけに過ぎない。聞こえの良いことを言っているようだが、要は自分が原因でこれから起こるだろう犬の不幸から目をそらしているだけではないか。飼い犬を不幸にしておいて、その上まだ自分がいい人でありたいのだろう。救えぬ偽善者だ。
 犬にとっては、むしろこんな身勝手な偽善者の飼い主に飼われたこと自体がすでに不幸の始まりだったのだ。

「大道廃れて仁義あり」は老子の言葉だが、ペットの命を大切にすると言う常識を持っていない連中が少なからずいる現状に鑑みれば、犬を飼うのも登録制にして、ペットの死まで責任を持たせるよう公権力によって強制すべき、というようなことも本気で考えてしまう(多分に感情的な意見であることは百も承知だ)。
 せめて飼えなくなった犬の「処分」は飼い主にさせるべきだ。保健所に処分を求める飼い主に注射器を手渡し、己の手で処分させるよう制度を改めてはどうだろうか。

 己の行為の罪深さから目をそらし手を汚したがらない偽善者には、手を汚させることで原罪を背負わせるべきだと私は思う。
(了)

《追記》
 ペットショップで売れ残った動物たちが「処分」されていることにも触れたかったが、それはまたの機会にする。

《参考文献》
・鈴木孝夫『ことばと文化』(岩波新書)
・佐々木倫子『動物のお医者さん』(白泉社文庫)

《リンク先》
・『シベリアン・ハスキーについて
・『灼熱の釘

《トラックバック送信先》
・夕刊フジBLOG「安楽死よりは…犬を山に放ったら餓死の運命に
・おとこのおばさん「朝のコネタCCCDとペット
   『おとこのおばさん』
・「保護の前に、飼主の意識改革を
   『ボク達は家族。Hem Hem Diary

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2004年10月05日

ダメなもの「本宮ひろ志『国が燃える』への抗議デモ」

* 鼻風邪を引いてしまい、いつも以上に思考がまとまらなかったので、更新が遅れてしまいました(その上、Bフレッツの回線トラブルで正午過ぎまでネットにつながらなかったこともありますが)。申し訳ありません。また、鼻づまりでぼーっとしているので、出来もいつもより悪いだろうと思います。先に謝っておきます。ごめんなさい。


 この件については前に掲示板で少し触れた。が、予想以上の反響があったそうなので、押っ取り刀で取り上げることにする。もっとも、現在は事態も終息したようで、私としては完全に乗り遅れた感も否めない。だが、それだけに、今の方がこの問題を巡って色々感じたことを冷静かつ客観的に論じられるのではないか、とも思っている。…って、前置きが長いな。

 個人的にはこの事件を知るのが遅かったこともあり、怒りの波に乗れなかったことが自分の中であまり盛り上がらなかった。しかも、これだけ抗議が行った今、どうこう言うつもりもあまりない。言いたいことは他の人が色々言っているからだ。

 問題となったのは、集英社「ヤングジャンプ」誌に連載中の本宮ひろ志「国が燃える」第88話である。南京事件(俗に言う南京大虐殺)を扱った回で、虐殺肯定派の資料・意見を鵜呑みにして描いてあったことが保守層からの批判の十字砲火を浴びる結果となった。

 確かに内容はひどかった。
 連載では、南京事件を云々する割には中国側が日本人を虐殺した通州事件はスルーしている(これは「南京大虐殺はそもそも数の問題ではない」と言っている方々も同じである)。
 女性のズボンを脱がせている兵士の写真では、兵士は中国兵の軍服を着ているのに、それを日本兵のものに書き改めたりもしている。ちなみにこの写真は、複数人の学者の検証の結果、日本軍の蛮行を証明する写真ではないと立証されている。捏造・改竄と言われても仕方あるまい。
 また、便衣兵を処刑するのに便衣兵を数列に並べた上、数人の将校が日本刀でそれを処刑するシーンも描かれている。その処刑では誰が一番早く斬り終えるかとうレースがなされ、一般の日本兵たちが誰が一番早く斬り終えるかを賭けたりもしている。しかも、「換えの日本刀もってこい!」とご丁寧に本多勝一の主張のアキレス腱を補強しちゃったりもしている。南京事件についてそれなりに調べたのだろうが、現在「百人斬り競争」について、 毎日新聞社や本多勝一を相手に名誉毀損の裁判が行われていることは知らなかったのだろうか。不勉強すぎやしないか。
 他にもツッコミ所はたくさんあるが、ツッコミ出すと全ページまるまる突っ込まなければならないので、ここでは割愛する。詳細を知りたい方はググって下さい。

 今回の騒動(?)では集英社にデモをする人まで現れたそうである(あんまり人は集まらなかったらしいが)。「南京大虐殺はなかった」の一言で大臣がクビになってたことを思うと隔世の感である。永江朗が過小評価していた「戦争論」の影響はやっぱり凄かったということだろう。
 ただ、少し気になったのは抗議のあり方である。デモをしたことが悪いとかいけないとか言うのではないが、そこまでする必要があったのかは正直よくわからない。
 私の感覚としては、web上で批判文を発表する、それで足りなければ集英社に抗議の手紙なりメールなりを送るくらいが妥当な線だと思う。犬伏秀一のように、抗議文を手交しに行くのもいいだろう。
 編集部に電話で抗議するのは微妙だと思う。抗議を無視していた場合、電話だと向こうも無視できないし認められるべき場合もあるだろうから止めはしないが、個人的にはちょっとどうかと思う。ちなみに、抗議のFAXを送るのはダメだと思う。相手に紙代を負担させ、直接的・物理的に経済的な損失を与えるので、褒められた抗議手段とは言えないからだ。

 では、抗議デモはどうか。私は全く同意しない。この問題がデモによって大々的に社会にアピールをすべきと言えるほどの大問題だとは思えないのだ。ネット上で批判の声があまた挙がり、抗議もたくさん編集部に行ったであろう現在、集英社側がヤングジャンプ誌上で謝罪なり訂正なり反論なり、何らかの釈明をすればいいだけの話ではないだろうか。
 表現行為に対しての批判は、原則表現のレベルですべきだと思う。
(了)

《関連記事》
・ダメなもの「本宮ひろ志『国が燃える』への抗議デモ」
ダメなもの「本宮ひろ志『国が燃える』休載」(1)
ダメなもの「本宮ひろ志『国が燃える』休載」(2)
ヤングジャンプの本宮ひろ志への制裁?

《リンク先》
・『冤罪・虚報 「百人斬り競争」
・犬伏秀一「大雨の中、集英社に殴りこみ?いえ紳士的に面談
   『いぬぶし秀一の激辛活動日誌

posted by だっしー at 12:06| 大阪 ????| Comment(0) | TrackBack(0) | 社会・時事問題 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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